2020年4月3日金曜日

因果律についてカントさんに教えてもらいました。

どうも、カントです。
本日は私による因果関係について、アリストテレスさんとヒュームさん、そして、そこから導かれる自説を話します。
私が散歩に行く時間を忘れたのは、ルソーの「エミール」という本を読んだときでしたが、人生でルソーほどの衝撃だった本がもう一つありました。





ヒュームの「人間本性論」です。

ソーもヒュームも同時代人です。
まあ、ライバルですね。

実は私はお会いしたことはありませんが、この2人は後に出会い喧嘩別れしています。

ヒュームというこの英国紳士は、イギリス経験論の完成者とされています。

そして、特に私は彼が因果関係を否定していたことに衝撃を受けました。

「現象Aが起きるとその結果として現象Bが起きる」

これをA→Bと表すとします。

ヒュームは、ある現象が因果関係にあると判断するようになるのは、私が観察しているとき、いつも現象Aの次に現象Bが起きているからだ。


つまり、習慣でそこに因果関係があると思い込んでいるに過ぎないと言いました。


例えば、いつも、私がマッチを擦ると、その後にいつも火が起る。


だから、きっとマッチを擦れば必ず火が起るんだと思い込むのです。

現象A: マッチを擦る
現象B: 火が起る
ところが、(起きてしまった過去は変えられないので確かめようがないが)未来においては、マッチを擦ったからといってその都度、絶対に火が起るとは限りません。

そうでない結果が起きる可能性も必ずついて回る。
そう断言しました。

それはその通りだと納得して、私は独断のまどろみから目を覚ましました。

そうして、すべては主観の観念に過ぎないんだと思ったのです。
(経験論の受容による)ドイツ観念論の始まりです。

しかし、原因というものには様々な側面があり、アリストテレスに倣うと、次のようなものがあります。
(実は私、アリストテレス好きでして、彼の書き方とか結構真似してるんですよ。)
彼は原因を四つのものに分けられるとしています。

結果としての現象火が燃えている。
始動因火が燃えるのは、マッチを擦ったから。
質量因火が燃えるのは、炭素と酸素があるから。
形相因火が燃えるのは、燃焼ということ、つまり激しい酸化があるから。
目的因火を点けたのは、タバコを吸うため。

この四つのうち、どれが欠けても現象として火はつかないわけです。

だとするなら、マッチを擦ったからといって、酸素がなければ火はつきませんし、マッチ棒が湿っていれば、激しい酸化、つまり燃焼が成立せず、火がつきません。また、タバコを吸うためという目的がなければ、そもそもマッチを擦りません。

そうです。

原因というのは実に複雑に様々な要素が絡んで作用しているのです。

私はこう考えました。

確かに、マッチを擦ったからといってその都度、絶対に火が起るとは限りません。
しかし、マッチを擦ったときに、他に何らの火が起らなくなる原因もなしに火が起きないという結果になるのかと。
他の例を出せば、例えば今までは、重力が働いてリンゴは木から落ちた。

しかし、あるとき、重力が働かず、りんごが宙に浮いた。
そんなことは考えられます。

が、それが何の原因もなしに起きた ということは、我々には考えられないのです。

そう、その意味で、すべての現象にはなんらかの原因が必ずあるのです。

そして、因果関係は主観に過ぎないのに、なぜそう断言できるのか考えてみました。

別の観点から見ると、ヒュームはたかだかひとつの現象について原因結果を論じていましたが、私は、1秒前の現象界全体→1秒後の現象界全体という形で考えていた。

では、その現象界全体を因果関係で包括しようとしているのは何かと。

そうして、因果関係というのは、私がものを認識する時の認識の枠組みに他ならないのだと気がついたのです。
それは我々の認識の枠組みとしての悟性の形式のひとつなのです。

認識の枠組みとは何なのか。

同じことは、例えば、感性の形式である空間にも言えます。
空間というのも因果関係と同じく主観に過ぎません。
しかし、我々は、空間にものが何もないということは考えられるけれども、空間そのものがないということはどうしても考えられないのです。

これが枠組みです。

つまり、それは主観であるけれども、主観による認識を成立させる根底であるために、客観性を持つと言えるのです。
そして、それこそが我々が真理を真理として認識するためのものなのです。

まず対象があってそれに従い読み取って認識する。のではなく、我々の認識の枠組みに当てはめて対象を規定すること。

それを「純粋理性批判」では、「認識が対象を規定する」と表現しました。

したがって、因果関係は主観からのものだけど、それもまた不確実というわけではないのです。

そして、我々は空間や因果関係のない世界を積極的に考えることはできなくとも、消極的には考えられます。
(これも悟性の範疇の中の否定という一形式なのだが)

積極的に考えるとは、例えば、これはリンゴではなく、ぶどうだ。消極的に考えるとは、これはリンゴではなく、リンゴ以外の何かだ。

ではこの主観を越えたところには何があるのか?

例えば、我々以外の何か別の認識の枠組みを持つ存在者がいるとすれば、それは我々には理解できない違った仕方で対象に触れるわけです。

例えば、その存在者にとって世界は因果関係が成立しないカオスな世界なのかもしれないですし、時空の上の次元にいて、時間そのものを直接感受することのできる存在者かもしれない。

(もちろん、そういう存在者を我々が認識することは不可能ですので、そういう存在者が本当に存在するかはわかりえませんが)

ちなみに、私の後継者ショーペンハウアーによって、悟性の形式である範疇のうち、因果関係について、若干の盲点を突かれました。
原因結果と根拠結論を私は同じものとして混交しているが、違うものだと。
つまり、科学における因果関係と、数学における証明の根拠結論関係の違いです。
確かに私はこの2つを混合して考えていました。ご指摘ありがとう。
やれやれ、範疇の内容については再度考え直す必要がありそうだな。

Es ist gut!
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