2026年5月25日月曜日

死別と離別は違うのか? 〜可能性と現実性の問題〜

 離別と死別は違うのか否か。

これは入不二基義がその著書『現実性の問題』で取り上げていた問題だ。この例は入不二哲学ではない仕方でも、様相(可能性、必然性、偶然性あるいは現実性)というものを考えるのにいい材料と思われる。

ちょっと対話風にアレンジしてみた。

入不二少年「転校してしまって、その後一生会わなかった友達と、亡くなってしまった祖母とは、会えないが毎日続いているという点では全く同じだよね。」

大人「いや、全然違うよ。転校してしまってもまだ会える可能性はあるけど、祖母にはもう会えないじゃないか」

入不二少年「転校してしまって、その後一生会わなかった友達だよ。だから、現実にはその後一生会えていないんだよ?」

大人「現実には会えてなかったけど、可能性はあったでしょ。可能性に注目してよ」

入不二少年「現実を無視していい可能性なら、祖母にだって可能性そのものはあるよ。僕が死んだら会える可能性だって、祖母が生き返る可能性だって、現実を無視したらあるじゃないか。」

大人「いやいや、現実的な可能性を考えろよ」

入不二少年「現実的な可能性!?現実なのか可能性なのかどちらかではないのか?」(続く)


果たして、可能性とはなんなのか?現実とはなんなのか?

ここで、死別と離別は全然違うじゃん。相手の現実が違うと言うツッコミが入った。

しかし、私は会えるかどうかという話をしている。

離別でも、東京に引っ越すのと、大阪に引っ越すので相手の現実が違うとも言えるし、死別でも、ソクラテスのように死を喜んで受け入れたのと、特攻隊として国のために行ったのと、ヘーゲルのようにチフスで死んだのとでは現実が大違いとも言える。

細分化してしまえば、死別と離別とで区別することの意味は無くなる。が、逆に、抽象度をあげればすべてが同じになってしまう。

で、それをわざわざ中途半端な死別と離別の区別に拘る点だね。


結局は、死別と離別は違うか同じかを問いたいわけではなく、それを問うことで、現実性と可能性の関係についてのまずは不思議を感じることが主眼となっていると私は思うのだ。

死別と離別は、みんながイメージしている具体的な経験でいろいろ判断されてしまうのなら、これを別の仕方で喩えられるだろうか?

例えば、サイコロでもいい。

サイコロを振る前には2026/5/25/18:00におけるこの一振りは確率で2が出る可能性があると言われていた。

2026/5/25/18:00に振ったら、5の目が出た。

サイコロはこの2026/5/25/18:00における現実には5の目しかでなかった。

ゆえに、サイコロのこの一振りにはいかなる意味でも可能性などなく5の目が出る現実100%しかないとも言える。

それでも、2の目がでる確率は1/6あったのだと主張することは可能だろうか??


こんな感じが入不二さんが切り込んだ最初の視点だったように思う。

もちろん、これはあくまで導入で、この後にまだたくさんの議論が入不二さんにより展開されているけれど。

2026年5月15日金曜日

確定記述の束 〜ライプニッツからラッセル〜

 分析哲学のラッセルは、ライプニッツ研究もしていて、論文を出している。


「ライプニッツ哲学のクリティカル・エクスポジション」1900


さらに翌年1901年、ルイクチューラというこれまた分析哲学の人が「ライプニッツ論理学」を出している。


この2冊によって、ライプニッツは形式論理学の開祖になった。

で、計算機や二進法開発ゆえに、コンピュータの父、サイバネティクスの父とも見なされるようになった。

さらには個物は確定記述の束であるに近いことを考えていて、総合すると分析哲学の先駆と言えなくもない。


参考「モナドの窓」ブレーデカンプ


例文「ラッセルは1900年にライプニッツに関する論文を書いた人物である。」


主語と述語の関係から存在を考えていくのはアリストテレスに由来する。

例文で言えば、「ラッセル」という主語に、「1900年にライプニッツに関する論文を書いた人物である」という述語が結びついているが、その関係を探って、アリストテレスは実体と属性、本質と偶有性を考える。


実体とは主語となって述語とならないものである。偶有性とは、本質的でなく、そうでないこともありうるような述語(属性)である。本質とは、そうでないことがありえないような述語(属性)である。


そこで、「ラッセルはひとりの人間である」は本質であり、実体を規定する述語だが、「ラッセルは哲学の先生だ」は子供の頃など哲学の先生ではないこともあるので、本質的ではない。


しかし、ラッセルが人間でなかったらということだって、考えられるとして、アリストテレスの不備は指摘され、ライプニッツが登場する。


ライプニッツは、そうしたsubject (主体/主語/基体)をモナド、あるいは実体的形相、個体的実体と呼んで論じた。(実体的形相は明らかにアリストテレスを下敷きにしている。)

モナドはその中にすべてのそのモナドのパースペクティブから見られた概念を含んでいる。

つまり、ラッセルというモナドには、(あるいは、同じことだが、ラッセルという概念の中には)

ある時期から哲学の先生であることも、ひとりの人間であることも、1900年にライプニッツに関する論文を書いたことも、ヴィトゲンシュタインと出会うことやアインシュタインと平和を訴えることも、1905年5/3の朝10:05にケンブリッジの教室であくびをしたことも、何もかも含まれている。さらには、ラッセルの視点から理解可能な宇宙というのも、ラッセルが宇宙について知る前から、その概念に含まれている。

(ただし、それらのことを本人や他人が知っているかどうかとは関係がない。だから、ラッセルが人間でなかったらと考えることはできても、それは間違っていますねとなるだけだ。しかしここにはまだ問題があって、それが分析哲学の歴史を作ってきた。)


まあともかく、そのようなものである。

ラッセルはそうしたライプニッツの考えから、固有名詞が確定記述の束であると考えるところから始めたというのは十分ありうることだろう。


もしそうなら、ラッセルというモナドの中に「ラッセルはライプニッツの哲学から、固有名詞が確定記述の束であると考えた」ということが含まれているに違いない!w

2026年5月7日木曜日

オデュッセウスとユリシーズの由来

ユリシーズといえばジェイムズ・ジョイスの小説だが、一般的に言ってユリシーズと聞いてオデュッセウスを連想する人は少ない…らしい。

あなたもご存知でしたか?

そもそも知らない?

ホンダ自動車のオデッセイなら知っていますよね?

それはオデュッセウスの話が書かれた叙事詩オデュッセイアから由来しているそうです。

その辺について調べたので、もうちょい詳しく載せておく。


Ὀδυσσεύς : オデュッセウスという、ギリシャ神話における男の名前。


Οὐλιξεύς : オデュッセーオスが訛って、ドーリア式方言で「ウーリクセウス」とも読むことが、紀元2世紀頃のギリシアの文法学者アイリオス・ヘーローディアノスの『一般プロソディア』の第1巻に示されている。


Ulixēs/Ulyssēsラテン語。ドーリア式方言からラテン語のウリクセースおよびウリュッセースになる。

ここより、フランス語のユリス(Ulysse)、イタリア語のウリッセ(Ulisse)、英語のユーリシーズ(Ulysses)が派生している。



Ὀδύσσεια : オデュッセイア。オデュッセウスの女性名詞形で、詩歌を意味していたわけではないが、オデュッセウスについてのホメロスの詩歌をそう呼んだため、転じてオデュッセウスの旅のことを意味したりするようになった。


叙事詩のオデュッセイアは、古代ギリシア語の言葉を借用して、ラテン語では、オデュッセーア(Odyssēa)という語が作られた。ここから中世フランス語形を通過して、現代のフランス語では、オディセ(Odyssée)という言葉となった。英語ではアディスィ(Odyssey)で、ドイツ語ではオデュッセー(Odyssee)、イタリア語ではオディッセア(Odissea)である。


ということは、英語圏で

Odysseyという本を読むと、Ulyssesという男が出てくるということになるのかな。

ただ、両方とも古代ギリシャ語由来であることはわかった。


今後はユリシーズはラテン語由来うんぬんと言われたら、いやいや古代ギリシャのドーリア式方言から来ているのだよと返されることになる。


ところで、ホンダ自動車のオデッセイは、英語ではアディスィみたいな発音に聞こえるらしいので、日本語表記ということでよいだろうかw


表記とはなんだろうか?

OdysseyとUlyssesは英語表記だが、Odysseus とodysseus は古代ギリシャ語表記と言っていいんだろうか?


オデッセイは日本語表記でアディスィは英語表記と言ってもいいんだろうか?

2026年5月4日月曜日

アンデルセンの「赤い靴」は哲学者にとっての真理である!

 アンデルセンの赤い靴の舞踏コンテ・ワカバコーヒー版に現れている新解釈!!





2026年4/11〜12に行われた舞踏コンテのワカバコーヒーによるワークショップ公演「The Red Shoes」(舞踏コンテとは、暗黒舞踏の系譜の舞踏とコンテンポラリーダンスとの融合した身体表現の造語)


新解釈は、私の友人でもある哲学者がこの公演を見て、あまりピンと来なかったと言っていたところから始まった。

彼はそんなことより鉄パイプ椅子が硬くてお尻が痛いことが気になっていたようだ。


まずは我々が見た舞台「The Red Shoes」 について大筋を描いてみる。


2026年5月2日土曜日

多様な解釈を孕む作品「王鴉(オオガラス)」

写真撮影: 松原昭俊

作者が語らなくても、真実は作品そのものが語っている。

一旦、そう考えてみる。
もちろん、作者が意図を込めて作品を作ることはある。
しかし、作られてしまった作品は作者の元から離れて、鑑賞者の自由な見方に委ねられる。
そして、そういうのも大切にしたいと思う。
アートはわからないと多くの人は言う。
だから、作者はときおり説明をたくさんしてしまう。
作品が理解されてしまうと、その理解に満足してしまい、そこを立ち去る。
まだ、謎はたくさん残っているのに。
作者の意図も大切にしたいと同時に、もっと見る人の自由なイメージをも大切にしたいと思う。

今回の私の作品「王鴉」(オオガラス)
この作品を見て、お客様からさまざまな解釈をいただいたので、それを(さらに尾ひれを付けて)話してみたいと思う。