2020年4月2日木曜日

カントさんが畏敬を抱く2つのものについて、本人にインタビューしてみた!

今回、安部火韻は哲学者で有名なカントさんにインタビューしてみました。ではどうぞ

どうもカントです。今日は、ルソーを読んでいて時間や通りに散歩に行けませんでした。私の散歩で時計を合わせていた方、ご迷惑をおかけします。


本日はですね。次の文章について解説しようかと思います。



こちらは、実践理性批判の結語にあたる部分で、よく引用されます。詩的だということで印象に残るようですね。

まあ、私もロマンチストな部分もあるのですよ。

書いたときは心地よくぶっ飛んでいました。


私はこの著作「実践理性批判」を書いたときには、その前の大著である「純粋理性批判」のことが念頭にありました。

「純粋理性批判」では、現象として現れているこの世界における真理への探求。つまり、対象は自然。


「実践理性批判」では、この自己における道徳律への探求を行なっていたのです。つまり、対象は人間。


どちらも理性によって(真理や道徳律を判定しようとするさいの)理性そのものの限界を吟味しようという試みでした。

私の言う感性とは、そもそも単なる感覚器官の対象だけではありません。

感覚される対象の根底には、時間と空間とがあります。つまり、時間と空間におけるすべてのもののことを感性界だとか、現象界だとか呼んでいるのです。
time and spaceつまり、宇宙を想起しやすいのですよ。

私が占める場所とは、この肉体のことであります。

しかし、人間とは、理性的であるがゆえに、この肉体の外にあるすべてのものの究極を知りたいと思ってしまうもの。

その知りたいという欲求によって学問は、私の死後、天文学者らによってビッグバンまで行きあたりましたが、今のところはそこで止まっています。

しかし、知りたいという欲求は止まらないがゆえに、さらにビッグバン以前の時間と空間がどうなっていたのか?

そこにもビッグバンを起こすべく何か原因があるはずではないかと、理性は次々と推測を立てようとしていくはずです。

他にも例えば、現在、発見されている力は四つ(弱い力、強い力、重力、電磁気力)ありますがそれらを統一するさらなる原理、統一理論を探したくなります(アインシュタインは晩年それを探していた)。

それが世界上の世界、体系の体系へと近づくこと。

そうすると、ついには、神としか言い表しようのないもの、しかし、神だと断定ももはやできぬものへとたどり着きたいと思ってしまう。

しかし、それは私の意識と結びついて(すなわち、観測や実証)初めて真理として認定されるのであって、勝手に神だとか判断してはならない。

というか、神の定義からすると、理性によってはたどり着けるものの、認識としては決してたどり着くことはできないのです。

意識を周期的運動へと広げるというのは、私は太陽系が星雲の周期的運動によって形成されたということを論文で発表しているのだが、要するに宇宙の始まりを探求するということ。

私はビッグバン理論を知らなかったのだから。(死後、あの世でたくさんの学者と交流して知りました。)

また、人間を動物的な側面を持つものとして捉える部分がありますが、進化論が唱えられるのも私の死後ずっと後のことなので、進化論的に考えていたわけではありません。

そうではなく、まず私は肉体と理性の両方を持っている。

そして、感覚というものは、外界からの情報を受信し、肉体の自己保存、自己増殖(や生殖)を繰り返そうとするもの。

これは動物と同じであり、私は動物については浅はかな知識しかなかったので、動物は自由を持たず、単に自己保存を行うことで存在しているだけと判断していた。

つまり、肉体を持つ人間のひとつの側面は、いわば機械的に動く動物であると。

そして、肉体というのは時間と空間で構成されており、時間と空間とは分割可能なもの。

それゆえにいつかはこの肉体は分割され塵芥となる。つまりは、生まれて死ぬ。

これが「生命力を与えられた後に、自分をつくりあげている物質を再び遊星に返す」ということなのだ。

そして、これは今ではむしろ偏見とされ、私は理性至上主義者だ、それはキリスト教徒のうちで育ったからだと批判されるが、私の持つ理性というものには、本来は1つであるが、2つのものが含まれてしまっていると思われる。

「純粋理性批判」で探求される理論理性と「実践理性批判」で探求される実践理性だ。

理性とは、立法する能力である。

理論理性は、今、目の前で現れている現象から、法則(例えば万有引力)を発見する能力なのだ。

実践理性は、今から、私はどのように行動するべきか、その際に何らかの現象界の原因に拘束されずに、つまりは肉体の自己保存の欲求に左右されずに、物事を判断し、「これはよい」と思われるものの法則を自己に対して立てられるかということが主眼に置かれる。

例えば、「いかなる場合であれ私は嘘をつかない」という法則を自分に課すとか。

そうして自分自身に何の現象界的な原因もなしに法則を課すことができるとき、それが例えば「嘘をつかぬ私」という我が人格となり、人間が人間たる価値となるのだ。

人間における自由とは、現象界の自然法則たる因果律からの自由のことなのである。

そして、最初の方で言っていた「視界の外に求めたり、憶測してはならない」とは、要するに、存在するとは確証できない神によってこの2つのものを正当化せずに、私自身の理性によって正当化せよということなんだ。

Es ist gut!


もっと詳しく聞きたい方は安部火韻氏による哲学会へどうぞ。
今年2020
‪8/22,15:00〜18:00頃にカントの認識論,‬
‪8/23,15:00〜18:00頃にカントの倫理‬

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ぜひお越しください!

1 件のコメント:

  1. 自由から逃れ、自らに課すことで自我を彫像していく。
    プリンシプルを失った私は、私ではない。

    と、そりゃいいんだけど 2日目まで一気に予告編かい?

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