何かを考える時、
客観的に考えるより
主観を優先させる方がというより優先させないと
多分生きることは不可能
というのが個人の主観
と言った人がいる。
私はそれに対してこう返した。
何かを考える時
主観的に考えるより
客観を優先させる方がというより優先させないと
多分生きることは不可能
というのが客観的な事実
まあ、何の考えもなくただ逆転させてみました。
今のは単に逆転しただけだけれども、
大体、すべてを客観や主観にするのがよくわからないと思う。
主観にすべきところを主観にし、客観にすべきところを客観にするだけなんじゃないのかな。
自分が何をしたいのかを日本人男性一般が何を望んでいるかの統計で考えていたら、意味がわからないし、
逆に、自分の望みを叶える手段を自分の思い込みに従って客観的なデータに基づいてやらなければ叶わないだろうし。
「主観的」「客観的」の語法
よく主観と客観の二項対立の批判があるが、その批判点の一つに「主観と客観はそう簡単に別れるものではない、主観にも客観が、客観にも主観が混じっているではないか」というものがある。
カントにはそんなことはわかっていた。
だから、カントは主観的なものをある観点から見れば、客観的だが、別の観点から見たら主観的だと言ったりするのだ。
つまり、「大きい」とか「小さい」という概念と同じである。
大きいも小さいも相対的な概念である。
何かを基準にしたときに、大きいとか小さいとかが定まるのであって、別のものを基準にすれば、変わってしまう。
客観と主観も同じようなものなのである。
あるものを基準にすると、より主観に近い、より客観に近いという関係性があるだけで、基本的には相対的な概念なのである。
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