2021年9月18日土曜日

不可知論とカント

 18世紀、カントという大哲学者がいた。



彼の残した世界一難しいと言われる本「純粋理性批判」

この話をしたい。


そもそもこれは何を述べた本なのか?


タイトルから察するに純粋理性を批判する本なのだろうという。


その通りである。

カントは批判を吟味するぐらいの意味で使っているので、

純粋理性を吟味した本と言える。


我々は理性を使ってさまざまな事柄を認識している。

眼の前にパソコンの画面やスマホの画面があるということが分かるのも、計算ができるのも、持っている物を離すと落ちることを知っているのも、すべて理性である。

(正確には、カントは目の前の現象に妥当させる理性を悟性と呼んで区別はしているが)


そして、カントはこの理性の能力がどこまで適応できるかということの限界を見極めようとしたのである。


そうして、理性の能力の限界を超えてしまうがゆえに、判断不可能なものが三つあるということを結論した。

その三つが、魂の実体性、世界の限界、神の存在である。

ひとつめは理性は「魂は単純な実体として存在しており、それゆえに不死である」というような推理をしてしまうことである。

カントは、これを頭で考えるだけで結論付けようとする純粋理性の誤謬推理であるとして否定した。


二つめは、理性は

「世界(宇宙)の時空間的な広がりに限界はあるか」

「世界(宇宙)の物体は無限に分割可能か」

「世界(宇宙)に自由は可能か」

「世界(宇宙)に第一原因(世界で変化が起きるためのそれ以上遡ることのできない最初の原因)は存在するか」

という四つの命題について判断できない、というものである。

「そうである」とも、「そうではない」とも結論付けることができてしまうのである。

これを純粋理性の二律背反という。


最後に神は存在証明についてである。

神の存在証明について多くの神学者(スコラ哲学者)や哲学者が取り組んできたが、それらのすべては存在が理性によって証明できたからと言って実在すると結論するということはできないというものである。


判断不可能であるというのは、知ることができないということなのである。

こうして、カントは、神や魂や世界の限界に対する不可知論の立場を不可知論という言葉がない時代に明確に打ち出したのだ。

(不可知論という言葉は、ダーウィンの進化論を擁護する生物学者トマス・ヘンリ・ハクスリーによって提唱されたとされる)


そして、これら三つのものの本当の姿を物自体と呼んでいた。

しかし、物自体はあるということの意味は、

神と魂と世界の限界はあるということでは全然無く、本当は、

神の存在はいるかいないかのどちらかであり、

魂は実体であるか属性であるかのどちらかであり、

世界の限界はあるかないかのどちらかである、

というようなことで、どちらかは不可知だが、どちらかとして存在するはずであるという意味なのである。

そうでなく、物自体が存在するということを例えば無限分割は不可能であり、最小の実体が存在するとかいう意味なのであれば、カントが執拗なまでに理性による認識はできず判断不可能であることを主張したことを自ら無駄にしているという矛盾に陥る。


では、自然科学においてカントの問題は解決されたか?

これについてはまたのちのブログにて書きます。


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