否定判断と無限判断
ジジェクはカントのこの区分けをユーモアを伴って説明していました。
単に否定命題でHe is not dead.「彼は死んではいない」と言うときと、he is an undead.「彼はアンデッドだ」というのとでは意味が違う。
カントは、人間が考える時に使っている思考(悟性)の形式をカテゴリーに分けて整理しました。
カテゴリーには4つあり、そのうちの「質」がありますが、今回は質を取り上げます。
悟性のカテゴリーの質はさらに3つに分かれます。
(カントは判断の形式を悟性の形式を導くための手引きとしていますので、判断を3つ取り上げます。)
ひとつ目は肯定判断。例えば、「これは長い」とか、「これはりんごである」とか。
ふたつ目は否定判断。例えば、「これは長くない」とか、「これはりんごではない」とか。
最後に無限判断。例えば、「これは長くないものである」とか、「これは非りんごである」とか。
この最後のものは、内実は否定判断なんだけれども、それを無理に肯定判断にしたもので、一見したところ否定判断と違いを感じないように見える。
私も最初読んだ時には、「何が違うのか?」と疑問に思ったものです。
しかし、カントは否定判断は単にひとつの「長い」という性質を否定したのに対し、無限判断とは、長くないすべてのものが可能性として含まれてしまっていることに留意する。
つまり、長くないものには、短いもの以外にも、空間的でないものやら、丸い四角やらも含まれてしまっているのです。そうしてカントはこれを「無限判断」と呼ぶのです。
(ただ、この無限判断から導かれたカテゴリーは制限命題とも名づけられています。それは「長くない」という一点において制限されているのみとも言えるかららしいです。)
そして、私の読みではこれがカント哲学のひとつの根幹でもあるのかなと。
例えば、世界の限界について考えるときでも、
(カントは世界は有限であるということの証明と世界は有限ではないことの証明を両方することによって、それら証明そのものが有効でないことを示し、それをアンチノミー〈二律背反〉というのですが)
「世界は時間的に有限である。」
「世界は時間的に有限ではない。」
このどちらか以外の方法として「世界は非=有限である」を考慮に入れていた節があります。
そう考えると、実はあの「世界は有限である」の反対は「世界は無限である」というのは言葉としては翻訳は正しくとも、正確には無限を積極的に提示しているというより、有限の否定についての話なのかもしれないと。すると、この命題はカントの真意にそうなら、「世界は有限ではない」と訳すべきであって、積極的に無限を証明したわけではないと言えるかもしれません。
そして、アンチノミーのあとで、それらの問題は不定であるとしてある種の結論めいたものを出しますが、そのときでもこの第3の判断のことを思わずにはいられないのです。
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