2020年4月9日木曜日

人とのコミュニケーションがうまくいかないとき、そして、ヘーゲル

私、他人、主観と客観
(カント、レヴィナス、ヘーゲル)

カントが考える客観性とは、時空間上における数値化されたものであり、かつ因果律によって説明のつくもののことであります。

つまり、理性を有している者であれば誰もが共有することのできるもの。


確かに統計学は事実としての数値データの集計のため、わかりやすい。カントの場合は、その数値データにさらになぜそうなったのか?という納得のいく理由説明を必要とします。

そのことで、占星術や動物占いなども統計に基づいているのですが、その場合とは峻別します。

(もちろん、この客観性そのものは各人の主観性の枠組みでもあるため、それを越えたところでは、すべては主観となってしまうのではありますが。)



フッサールは、カントが客観性と呼んでいたものを相互主観性(間主観性)と呼び直しました。

つまり、単なる主観性とは違い、他人との間で共有されるような主観性のことです。カントの言っている客観性とほとんど同じことなのですが。


レヴィナスの他人とのコミュニケーションの深淵
しかし、さらにその後、レヴィナスというフランスの哲学者がいまして、
あらゆるものを客観性の元に理解しようとしていくことを全体性と言って批判しました。
理性によってそれをわかったとみなすことで、暴力的に主観性に還元されてしまっていると。

そこには理性によって掴めず取りこぼされた言語化の難しい何かがあるのだと。

では、他人とそれを理解しようという私とはどのような関係なのか?

それを「無限」と「他人の顔」という言葉でレヴィナスは説明していきます。

私は他人と出会う。
それは正確には「他人の顔」と出会うことに他ならない。
そうして、そこにさまざまなものを読み取っていく。

しかし、理解したと思っても、理解されない部分が必ずある。その部分をまた理解しようとするが、イタチごっこのように決して完全な理解はなく、それが完結することはない。

ある意味ではカントのアンチノミーが現れています。
アンチノミーというのは二律背反といって、簡単に言うと矛盾のことです。

レヴィナスは、それは理解されるものではなく、応答されるものだと言う。

他人の目線に立つこと、他人を理解することではなく、他人に対して応答していくことが大事なのです。

思えば、互いに理解しあっていなくとも、コミュニケーションというものは成立しています。

大学に行くことを、私は何事か知りたいことを知るためだと思って行く。しかし、親は学歴のことを気にしているから、という理由で大学に行かせる。この場合は、互いに目的を理解していなくとも問題がないのであるが、

例えば、私は哲学科に行きたいが、親は法学部に行かせたい場合、説明してどちらか理解させなければならないという話になります。

しかし、私としては私を理解してほしい気持ちと、(いくぶんかは理解できるとしても)最終的には親を理解できない気持ちというものが葛藤しているわけです。

ここにコンプレックスというものの成立があります。

しかし、親を説得しても、自分が説得され断念しても、どちらも暴力的に理解による支配をせしめているという現実があります。

レヴィナスはこれを解消することを目的とはしていません。

理解できないことを自覚的に受け入れ、それでも他者と応答しつつ共に生きていくことを考え続けました。


ヘーゲル的な進歩的コミュニケーション
一方で、ヘーゲルはこうした葛藤や闘争にこそ次への進歩があるのだと捉えていました。

つまり、ある人の主張Aとある人の主張Bとの対立。

それは互いに自分の主張のみに拘り、固執している間にはなんの進歩もないが、それが対立し合うとき、初めて互いに理解しなければ越えられない壁が現れます。

ある意味では妥協点を探ることですが、新しい次元へと進むことなのです。


先ほどの親と子の対立で言えば、その子供が法学部で法哲学を目指すことがひとつの妥協点となりえます。

あるいは、深く親と子が議論した結果、親はあくまで子の将来を心配しているだけならば、将来の展望について子は明確にプランを話す。

そのことで、子は単に自分が好きなものを得るだけでなく、親を安心させ、将来の自分について考えるということまでできるようになるのです。

「私は私だ。自分勝手にやりたい」から、「私もまた家族の一員だ。

自分勝手にやる部分と、家族のことを考える部分とが必要だ」へと意識は普遍的な意識へと変容します。

「自分が、自分が」と言っている次元から、「あなたは何を考えているのだろうか」へ、さらに、「あの人とわたしとを含めた私たちはどうすべきなのか」

今はそうでなくとも、今までの過去の対立を省みることが理性ある人間にはできるはずなので、相互に理解しようという次元に至ったほうが共によいということに気がつけるはずだと。



それが大人になるということかもしれません。


しかしながら、私自身は変化し得ても、相手が理解しようという姿勢でなければ難しいところはありますよね。

双方が理解しようという姿勢にならなければいつまで経っても平行線であり、アウフヘーベンなど起こらないのではないか?まさに現代はアウフヘーベンなど不可能だと思われているようです。

まあ、ヘーゲルも、いつも必ずアウフヘーベンが起きるとは考えていないと思います。

しかし、過去を決して忘却せず、かつ、時間が無限にあれば、いつかは気がつき、アウフヘーベンせざるをえないと考えていたようです。

なんらかの危機的な状況をきっかけにそれではいけないと考えて、双方が理解しようと歩み寄り始める、というような。

だから、有限な個人からもっと長期的な歴史に繋げ、壮大な歴史哲学になっていくようです。

例えば、長い時を要した30年戦争が終結したのは、さまざまな経過もあったのだろうが、互いに宗教的な立場に拘泥していては、拉致があかず、歩み寄りを始めたひとつの例かもしれません。(違うかもしれませんが)

あるいはある国において、イスラム教徒とキリスト教徒と無神論者が対立していても、では、政治においては国の機構はその誰にとっても善いものであるべきだとして、それを目指そうとします。そのとき、意識は変わっているのです。

「私は〇〇教徒である」から「我々は〇〇国民である」と。

そうして、それは「我々は人類だ」「我々は動物だ」「我々は生きとし生けるものだ」と意識は発展していくのです。


こうして、長い時間の闘争において、理性的なものが現実的なものとして次第に現れていくのです。

もちろん、そこにはレヴィナスが見出したような他人との差異の無限性は、暴力的に無視される可能性を秘めています。


しかし、ヘーゲルならば、「ならレヴィナスの視点も取り入れようじゃないか。

その他人との差異にも自覚的にもなり理解の暴力性に気がつくこともまた、普遍的な意識への変容の経過である」と、言いそうです。






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7月26日15時~古代ギリシャ哲学
8月22日15時~カントの認識論
8月23日15時~カントの倫理学
9月27日15時~サルトルの実存主義
10月18日15時~論理哲学(アリストテレスとヘーゲルの論理学の違い、入不二、マクタガート)
11月8日15時~キルケゴールとハイデガー(前期)
11月22日15時~時間を哲学する(中島義道、マクタガート)
12月20日子供とは何か?「子供」を哲学する
12月13日フロイトとユング

2021年 純粋哲学から批評系哲学へ
1月24日フランケンシュタインとその系譜(仮)聖書やギリシャ神話からSFまで。
2月21日ドラキュラとその系譜(仮)ゾンビとヴァンパイア

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