2022年11月12日土曜日

理性から出てくるカントの道徳論、解説

 ドイツの大哲学者イマヌエル・カント。

彼の道徳論は定言命法「汝の意志の格律が常に同時に普遍的立法に妥当するよう行為せよ」というもので有名ですが、批判ばかりで、その内実を理解している人は少ないように思います。

そこで、わたしが読み解いたカントの道徳論を解説してみたいと思います。


彼の道徳論は認識論である「純粋理性批判」から地続きになっている。


まず因果関係の系列の話がある。

あらゆる科学的な言説が前提としている「すべてのものにはなんらかの原因(あるいは根拠)がある。」というものがある。

「量子力学において、不確定性原理が働いており、すべては確率的に決定されるので、ラプラスの悪魔のような想定は正しくない」ということが真だとして、しかし、それがなんの原因も(あるいは根拠も)なしにということはあり得ない。


それは

「〇〇ならば✖︎✖︎である」というような概念(今風に言えば言語だが)、それは我々の悟性が持っている純粋悟性概念の仮言的判断によってなされている。


そうして、あらゆる現象にこの仮言的判断を適応すれば、すべては原因結果(または根拠と結論)の系列として扱われうるからなのだ。


そして、そこには善も悪もない。単にさまざまなことが生起しているだけである。

ある人が誰かを刺したとしても、そこにはさまざまな要因(社会的要因や親からの影響やその相手の反応などなど)が絡んで、刺したのだとすれば、その人には責任はない。すべては、彼によって刺されたのではなく、外的要因によって、彼が刺すように強要されたような形で理解されるのだから。

我々はそのような悪事を見たときでも仮言的判断を行い、なぜそのような犯罪が起きたのかという原因を探る。


しかし、人間は因果関係の系列から自由でありうるという可能性を秘めている。だから、彼自身の責任でもある。

と、カントはそう考えている。と、私は考えている。


人間は、自分にとって殺したいくらい大嫌いな男が溺れているのを見た時、助けたくないという気持ちもあるかもしれないが、助けなくては!!という気持ちもいくらかは起きてしまう。

そのとき、助けないのが自然界での普通であり、自然であるにも関わらず、どうしてそんな気持ちが起こったのか?(もちろん今では動物行動学において、動物は仲間を助けようとすることも認められてはいるが)

そんなとき、それは人間が自然界の法則を離れて自由になれる可能性を秘めているからだ。

とカントは思ったのかもしれない。


そこでまずは「〇〇ならば✖︎✖︎だろう」という仮言的判断ではなく、(「〇〇ならば✖︎✖︎せよ」という仮言的命法でもなく)、「無条件に(無制約に/無制限に)〇〇せよ」という定言的命法を提唱する。

仮言的判断だと、最終的にすべては因果関係の系列に還元されていってしまうからだ。しかし、無条件に「○○せよ」という定言命法は違う。「(いつであれ、どこであれ!例外なしに)○○せよ」ということであれば、あらゆる仮言的なものから、離れているからだ。


また、そのためにマクシム「格律」というものを置く。これは自分で作った自分自身のための法律、あるいは、座右の銘みたいなもので、「わたしはいついかなるときも例外なく○○することにしている」というものだ。人間は弱くすぐに外的要因によって自分で立てた格律を守ることはできなくなってしまう。しかし、これを外的要因とは全く無関係に守ることによって、その人間の人格というものは形成される。

具体的には「嘘はつくな」「生命を大切にせよ」とかそういう感じのものだ。


これによって、なんらかの行為を行うとき、動機が外的要因などから無関係であって、自分自身の意志で立てた格律に基づいているということが少なくとも可能性として担保される。


では、続いてそもそも自分の立てた道徳法則という格律は本当に正しいものかという疑問がある。

格律そのものもまた外的要因に縛られずに規定しなくてはならない。

そこでその格律がいつでもどこでも例外なく妥当するものかどうかを判断しなくてはならならない。これが普遍的立法と言われる。


ちなみに、無制約なものを規定して法則を立てようとするのはそもそも理性の能力とされている。

行為の動機も理性のみに基づき、道徳法則の立法も理性のみに基づき、最後に道徳の目的も理性のみに基づくことが必然とされる。

なぜなら、仮言的なものから無制約でいられるためには、そうしたものから無関係でなくてはならず。それができるのは普遍性を備えているものしかないからだ。


最後にその道徳の達成によってなされる目的は、それ自身、それはつまり、理性自身であって、理性的な存在者そのものだとされる。つまり、人間の尊厳が目的とされるのだ。

これはアリストテレスから来ている。理性が理性そのものを目的として働く。そうすれば、人間は完全に仮言的なものから自由になれるのだ。


とはいえ、現実には難しい。カントもそう考えていた。

ほとんどいつも、なんらかの外的な要因に動かされて人間は行為してしまうものだ。

しかし、それとは違った行為を行える可能性を人間は想定できる。カントはそれをもって、人間には責任があると考えた。

人間もほとんど動物だが、動物とは「(いつもいかなるときでも例外なしに、つまり、どんな外的要因があっても)○○せよ」を守ろうというふうには行為しない。そして、その意味では責任は問われない。理性を持った人間だけが責任を問われうるのである。


カントの道徳論は、動物の理解について誤っているし、人間中心的であり、理性信者であり、善悪については説明がなされていないなど言われるが、ここまで読み解けば、その思考を学ぶ価値はあるようにわたしは思う。

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