モノ化について
人間をモノとして扱う事、モノ化。
「直感的にモノ化はだめっていうのは分かるけど、現実的にはモノ化は不可避だと思うんですよね」という指摘があった。
「同じモノ化でも、(女性が監督やプロデューサーや大物芸人などの立場の高い男性が)有用だから付き合うというのは許されても、(そうした立場の高い男性が女性を)モノとして献上される上納システムは批判される。
ここの道徳的な部分を話すのに、モノ化自体がだめというのは解像度が低いと感じてしまいました。」
確かにモノ化にも確かに程度がありそうである。
上下関係があって立場の低い相手に何かを命ずる時などは、相手をある意味ではモノとして、道具として、手段として、扱っている。
しかし、そうだとしても、モノのように乱暴に扱うのでは非難される。
命令するか、頼むか。
そのときに、役職で呼ぶか、名前で呼ぶか、「おい、雑魚」って呼ぶのか。
相手のミスを否定するのか、人格を否定するのか。
一部モノとして扱っているところがあるのだとしても、相手の人格を雑に扱うのか、あるいはある程度でも相手を尊重しながら扱うのか、という違いだろうか。
これをカントで考えてみる
モノ化というか、「手段として扱うな」というのがカントの道徳論のひとつの要素である。
人間はあくまで目的なので、目的のものを道具(あるいは手段)とすると転倒してしまう。
なぜなら、人間の活動に関して、「それはなぜそうするのか?」と目的を遡っていくと最終的には「人間」にたどり着くからである。
相手の人格を道具ではなく目的として扱えと言う。
しかし、具体的な現実の世界では、相互同意の契約に基づくならば、その限りではないということになる。
例えば、雇用契約とか。
雇用契約は、私を経済活動において会社に貢献するという意味で、一部道具として扱う代わりに、賃金をくれるという相互同意の契約なら、問題ないわけだ。
そこに相互の同意がなかったりする奴隷はダメなのである。
奴隷もまた売買契約によって所有されるものだが、奴隷自身の意志とは関係がないので。
上納もまた、女性本人の意志がどうかというところがカント的には重要になってきそうである。
本人の意志なら、カント的な道具化という視点ではたぶん問題にはならない。
ちなみに、若い頃に枕営業でのし上がった女優たちが、相手(プロデューサーや監督)の権威が落ちかけた時に、もうプロデューサーや監督の使用価値がないので、いまさらながら訴えるということはよくあるらしい。
つまり、逆転してそのプロデューサーや監督が道具として使われているという。
「哲学と紐付けて、性加害ではなく上納システム自体を問題視するロジックは難しいと思いますか?」という問いには
少なくとも、カントでは難しいかもしれない。
逆転して、むしろ上納は問題ないのではないだろうか。
さて、LINEのオープンチャットagoraで道徳哲学に関する読書会を行う。この上納に関係させて考えられるのかどうかはまだわからないが、興味があればご参加下さい。
〈参加(聞き専OK)〉
※匿名OK
書籍『道徳はなぜ価値判断の問題になるのか』冨田絢矢
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