以下、私の勝手な想像を綴ります。
ギャラリーに入ると奇妙な妖怪たちが出迎えてくれる。
妖怪のようなこの人形たちは何かの動物ににているし、顔は三角で、脳が潰れてしまっている。
妖怪たちは、どこか戯けたような印象がある。
彼らは狂ってしまったのか。
彼らはもともと妖怪だったのだろうか?
一体、どうしてこんな妖怪が誕生してしまったのか?
次の人形を見る前に、もう少しだけよく見てみる…
よくよく見ると顔顔顔…
《顔》がところどころ身体から頭まで散りばめられている。気味が悪い。
反対側には、真っ黒な背景の前に、大きな人形たちがいる。
人形たちのお腹にはまた顔顔顔…(模様のように見えるところが実はびっしりと顔が貼り付けてあります。)
無表情の人形たち。
怖い。
腹の中にうじゃうじゃいる顔たちの多くは笑っていたりするし、有名人の顔も多い。
お腹から、顔たちに蝕まれて、無表情な人形たちは感情も感覚もないはずなのに、苦しそうだ。苦しさをこらえて、無表情を取り繕っている、というようにも見える。
もしや、彼らが顔たちに蝕まれて耐えきれなくなり、妖怪になってしまったのではなかろうか?
むかつくやつ、いらいら、多くの問題事は人間関係、夢にまで出てくる憎いやから、うらぎり、陰口、笑顔の向こう側
職場やなんらかのグループなど、人の集まるところで、どうしても気になってしまう。
その思いは表情に出さなければ、腹に溜まる、ぐるぐるぐるぐる腹に溜まって、出てこない。だから、《腹が立つ》のだ。
こちらの人形の頭には、顔は貼られていない。
まだ《顔》は頭にまでは侵食していないようだ......が、気持ち悪いぶよぶよと増殖したものがある。
しかし、彼女らも少女の頃は純粋だった。
頭につけたヘルメットから、受信したゴミのような情報が流されて、溜まってきたのだ。だから、ヘルメットを外し、成人となり腹に顔たちを抱えた彼女らの頭は情報で膨らんだ細胞が増殖している。
当時の彼女らはそれらをゴミだとは思わない。互いのコミュニケーション、交流だと思っているのだ。
繭の中で育まれる赤ちゃんは希望を胸に何を夢見ていたのだろうか。
赤子の繭の後ろには壁一面の顔、顔、顔
これは赤子が歩む可能性を示しているのだろうか。
・顔とは何か?
フランスの哲学者レヴィナスによれば、顔とは無限なものである。
人間は、あらゆるものを飲み込み理解し尽くそうとし、自己において完結、自己完結させてしまう。これを全体性という。
例えば、我々に理解できないような人間を「狂人」というレッテルを貼って、精神病院に入れてしまう。「この人間は壊れているので治療して治すべきものです」とわからないものにも病名をつけて理解した気になってしまうような。
しかし、あなたは相手を理解した気になっても、未だ理解できていないところが多くあり、あなたの理解から必ずはみ出てしまう。
レヴィナスはどうやっても相手(他人)の存在は自分には到達できないものであるとして、「無限」と言い、「顔」という言葉で象徴した。
では、この無表情な人形とはなんだろうか?
人形はやはり怖い。人形らしく無表情なほど怖い。
なぜ人形は怖いのか?
人形は生きていない。
無表情な人形はいかにも生きてないふりをしている。
だからこそ、その人形の顔の向こうに、我々は生きているかもしれないという可能性を見る。
生きていることと、生きていないこととの矛盾したところの何か神秘的な印象に、怖さを見るのだ。
生者、死者、そのどちらでもない不死者。
それらは生きてないふりをしている。
「ふり」をしている。
つまり、生きているのだ。
そして、人形という《他人》は、《他人》というものの本来の在り方を思い出させてくれる。人形は、我々にはとうてい到達できないような無限の顔を備えているのである。
そのような気がしてならないのである。
汎人形論↓
https://iranaiblog.blogspot.com/2024/10/blog-post_25.html
宮本美代子球体関節人形造形展
-心の細胞 人形開眼譚-
2024年4/17 (水) ~ 4/26(金)
ギャラリー彩 4階
11:00-18:00
休廊日 4/22(月)
最終日 15:30 closed
GALLERY彩
〒460-0003名古屋市中区錦三丁目25-12 AYA栄ビル
4/20(土) 16:00 ~オープニングパーティ
↑被ってみることもできます。
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