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2024年2月7日水曜日

人類の記憶力を衰えさせたのは文字!?

現代の対話篇〜

現代のテウト神ジョブズ「このスマホでなんでも学べます。中国の漢字だって、忘れていたら、すぐに検索できますよ。あなたが記憶するのに役立ちます。」


古代ギリシャ哲学者P「いやいや逆でしょ。むしろ、いつでも検索できるのだから、漢字を覚えなくても良いので、漢字を覚えなくなりますよね?」

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あなたは、何かを覚えておくためには書きとめておきなさいと言われたことがありますか?


2023年12月12日火曜日

メディア(記録媒体)は記憶を退化させるか??

文字は記憶するためにある。文字にして残すことで我々はそんな昔のことまで再び読み返し、何度も書いて記憶することができるのだ!

 ところが、プラトンは逆のことを言っています。

書いたり、読んだりすることで記憶は逆に失われると。


正確にはプラトンのパイドロスを取り上げた「プラトンのパルマケイアー」というデリダの論文で取り上げられてあったのですが。

パイドロスの中では、ソクラテスがエジプトにおける文字の発明について説明します。

発明の神テウト神が文字を発明し、ファラオに渡しこう言う。

「王よ、この文字というのを学べば、エジプト人の知恵は高まり、物覚えは良くなるでしょう。私の発見したのは、記憶と知恵の秘訣なのですから。」

すると、ファラオはこう答える。

「人々がこの文字というものを学ぶと、記憶力の訓練がなおざりにされるため、その人たちの魂の中には、忘れっぽい性質が植え付けられるだろう」

「彼らは書いたものを信頼して、ものを思い出すのに、自分以外のものに彫りつけられた印によって外から思い出すようになり、自分で自分の力によって内から思い出すことをしないようになる」

スマホができて、漢字が書けなくなる現象をこんな時代から予見していたとはw

で私がそれを知ったのは、石田英敬の本。


つまり、

石田英敬の本で紹介されたデリダの論文で紹介されたプラトンの著作の中でソクラテスが紹介したテウト神とファラオとのやりとり。


そしてまた、文字に対して否定的なのにたくさんの文字を残すプラトンw

だからこそ、何も書かなかったソクラテスにそれを言わせると言う装置を設置したのかなw

また、精神分析医ラカンもそれが念頭にあってエクリを書くことに億劫だったのかもしれませんw



現代の対話篇〜


現代のテウト神ジョブズ「このスマホでなんでも学べます。漢字だって、忘れていたら、すぐに検索できますよ。あなたが記憶するのに役立ちます。」


プラトン「いやいや逆でしょ。むしろ、いつでも検索できるのだから、漢字を覚えなくても良いので、漢字を覚えなくなりますよね?」


2022年6月27日月曜日

プラトニックラブとエロティシズム?!ロマンスを求めて。



  プラトニックラブの誤解

「人間は元来球体であったものが二つに分かれて世に解き放たれているものであり、生きるという行為は、本来の自分の姿に戻るための片割れを探す旅なのだ」

プラトンの「饗宴」を読むとこの話は出てきます。
しかし、この記事には誤りがあります。

「饗宴」とは飲み会のこと。

ある飲み会でアリストファネスが次のように述べます。

男女の合体したアンドロギュヌスと、男男の合体したのと、女女の合体したのが神によって別々に別れたから、
いつも片割れであるソウルメイトを求め、出会うと離れられなくなるのだと。

しかし、誤解が多いのですが、これはプラトン的な愛、プラトニックラブとは異なります。

というのは、この後にやってきたソクラテスによってそれは真実ではないと言われるからです。

  プラトニックラブとは何か?

プラトンは自分の主張をソクラテスに語らせます。
ソクラテスは次の話を巫女のディオティマから聴いたとみんなに話します。

実は愛する者は、相手の美を見ているのであって、相手を見ているのではない。
個別的な美しいものは、個別的であるがゆえに完全ではない。個別的なものによって私に思い出させる美そのものに気がつくと、それをこそ追い求めるのだと言います。
なぜなら、美そのものは永遠不滅であるから。

これはプラトンのイデア論に繋がります。
個別的な美は不完全に過ぎないのだ。「美そのものを観るに至ってこそ、人生は生きがいがあるのです。」

ゆえに、アリストファネスに対してはこのように言えるでしょう。別れる前の状態が醜かったら、例え最初は合体していたとしても、片割れを求めることはない。と

ちなみに、美を追い求める過程には段階があるとプラトンはソクラテスを通して語ります。
それは次のような順番です。

①一つの美しい肉体
②あらゆる美しい肉体
③美しき職業活動
④美しき学問
⑤美の本質の認識

しかしながら、プラトンの説よりも、プラトンの説のための前座であったアリストファネスの論がロマンチックだと取りざたにされて、誤解する人が多いようです。
私もまたアリストファネスのアンドロギュヌスのほうがロマンチックでいいのですが。

ともかく、みなさん、「饗宴」を開き、ぜひプラトニックラブが何なのか読んでみてください。

  愛そのものは美ではない?

愛するとは、美を求めるということ。

知恵を十分に持っている(と思っている)者が知恵を求めるだろうか?求めない。
ゆえに、それと同じで美を求める者は美を持っていないからだ。

しかし、だからといって醜いわけではない。
完全に無知なもの、つまり自分が無知だと自覚すらしない者が知を求めるだろうか?求めない。
ゆえに、それと同じで美を求める者がまったく美を持っていないというわけでもない。

ソクラテスが話したディオティマから聞いた話にはこういう感じのところもあります。
美そのものを求めようとする神霊はエロースという神霊であり、これがエロいとか、エロティックの語源となっています。

美を追い求める段階を読んでください。

プラトンの著作を読むと、エロいことと、プラトニックラブとは両立しているのです。

それは…
肉体から始まる愛でもよい。しかし、肉体だけで終わる愛はよくない。

という感じでしょうか。
ちなみに、この逆を行くのがバタイユのエロティシズムです。エロいので詳細は省きますが。
イメージ的には

プラトニックラブは、
地上から、天上の美そのものへの憧れを目指して浮上していく。

地上の私→天上の美へ

バタイユのエロティシズムは、
宙に浮いたがごとくに美しいものを暴力的に地獄に引きずり下ろして瀆すことにより感じる官能。

天上の美→地下の私に

しかし、両者には共通点があります。

①どちらも、個別的なものは見ていない。美そのものを見ている。天に向かうか、地に引きずり下ろすかの違い。

②どちらも死に近い。
天国か、地獄かの違い。
死後にいたれるようなイデアの世界と、オーガニズムの短い死のような法悦。官能。

③どちらもいわゆる社会的なルールからの逸脱としてのエロース。
恋する者は一見、社会的な規範を破る狂気に見えても、実は神的なものに取り憑かれている良いものだというプラトン。ルールは破って官能を感じるために作ったのだというバタイユ。


プラトンとバタイユ
もちろん、時代も違い、それぞれ独自に考えてるフシはあるので、両者を合わせるのは暴論かもしれませんが、私にはこのように見えました。
どちらも、恋愛論としてはロマンティシズムが欠けている。
そのあたり竹田青嗣がさらに補足して恋愛論を論じてた気がします。

  ロマンティシズム

先ほど私はアンドロギュノスの話をロマンチックと言いました。

ロマンティシズムとは、自分の中にある大切な人生の物語に陶酔することだと思われます。
※竹田青嗣の「エロスの世界像」参考

僕にとっては、いつか冒険に旅立ち、悪を倒し、財宝とお姫様を獲得すること。
私にとっては、今の悪い状況にいつか王子様が現れ、悪い状況から私を助け、幸せになること。

そういう感じの物語がそれぞれ各個人にあり、大人になる過程で、その物語にぴったりなお姫様や王子様と出会い、運命、この人しか自分にはいないというロマンを感じる。

もちろん、様々な出会いとともに成長して知っていくので、子供の頃のままの物語ではないし、プラトン的なものとバタイユ的なものとが合わさった複合的な物語になるのだが。

少なくともこの人でなければだめだ!というのはそういう物語のようなものが恋愛が成立するには必要条件と思われます。

2022年1月21日金曜日

本当の三角形はどこにあるのか? ~フッサールの現象学は数学の不思議から始まる??~

 三角形とは何でしょうか?

みんな慣れ親しんだ図形ですが、言葉だけで説明しようとすると詰まる人もいるかもしれません。


数学では、

〈同一直線上にない3点とそれらを結んでできる三つの線分からなる図形〉

と説明されたりします。


このとき、実は、この数学における三角形とは、目の前の黒板に描かれたこの三角形のことではありません。


目の前の黒板に描かれたこのひとつの三角形は、確かに

〈同一直線上にない3点とそれらを結んでできる三つの線分からなる図形〉

のひとつではありますが、

〈同一直線上にない3点とそれらを結んでできる三つの線分からなる図形〉"そのもの"

ではないということです。


地球上に存在しているすべての三角形の寄せ集めでもありません。


それは、どういうことでしょう?


例えば、三角形の内角の和は180度だと証明されていますが、

このとき、この世界にある三角形に見えたものの内角の和を実際に測って

そのすべてが180度ではなかったとしても、

そんなこととは関係なく、三角形そのものの内角の和は180度なのです。

むしろ、すべての三角形が180度ではなかったとしたら、

この世界にある三角形に見えたものはすべて歪んだ三角形だったか、

測ったときに何か間違えたか、何かしら実物のほうが誤っていたことがわかるのです。


三角形ではわかりにくいなら、2億38角形ならどうでしょうか?

私も、見たことはありませんし、そうした図形のものが何か存在しているのかどうか。おそらく存在していないでしょう。しかし、それがどんなものかを考えることはできます。

2億38個の角に囲まれた図形で、これはおそらくほとんど円に近いような形をしているけれど、よくよくみると、たくさんの角がみえるような図形かと。

2億38角形がこの世界に存在しなかったとしても、その内角の和は計算により原理的に割り出せることになります。

つまり、その図形が実際になんらかの物として存在していなくても、その図形の性質の正しさについて私たちは判断することができるのです。

不思議じゃないですか??


あるいは「無限」「永遠」とは何でしょうか?

直線とは、〈長さはあるが幅も厚みもなく無限にまっすぐ伸びる線であり、その上のどの二点に対しても、それらの間の最短路となっているようなもの〉

なのですが、誰もそんなものは見たことがありません。

しかしながら、我々は一度も経験したことのない、そして、今後も経験することのない無限な線とか永遠の時間ということを(それが真の理解かどうかはおいておいて)理解している。


どうしてだろうか??あなたは不思議に思いませんか??


そうしたことを不思議に思っていた古代ギリシャの哲学者プラトンは、次のような感じで答えました。

実は、我々は生前に直線そのものや三角形そのもの、無限な時間そのものを経験していたんだ、そして、今の現実世界でそれを理解したと思ったときには生前のことを思い出しているのだ、と。

それら直線そのものや三角形そのもののような「〇〇そのもの」のことをイデアとプラトンは名付けました。観念とか、アイデアとか、理念はこのイデアideaから来ています。

おもしろい考え方ですね。


さて、時は19世紀後半のドイツ。

同じようなことを不思議がった哲学者がいました。


それが現象学を提唱したフッサールです。

彼が生きた当時、心理学や大脳生理学から数学上の難問が解決できるのではないか?ということが言われていたときがあったらしいです。

それは、数学というのは現実に物質的にあるわけではない。

ならば、心の方に、脳の側にあるに違いない、というわけです。

しかし、脳を解剖したら、心理学を駆使すれば、数学のすべてが本当に解明されるのか?

とフッサールは疑問を投げかけます。


一方では、ヒルベルトが数学の形式主義、公理主義を提唱しました。これは、すべての理論は、基礎となる公理群を出発点とし、厳密な推論によって打ち立てられなければならないという主張です。

ここでは、難しいので、誤解を招くかもしれないけど、簡単にイメージしてもらいます。(私も間違っているかもしれませんが。勉強中〜)

完全無欠の論理の体系というひとつの世界があり、それを数学における基礎になる公理をもとにすべて解明していく

というイメージです。

これはプラトンのイデアの世界のようなものに近く感じられるかもしれません。

フッサールはそのような見たことも経験したこともない世界のようなものを現実の世界の背後に想定すること自体が間違っているのではないだろうかと疑問を投げかけます。


そこでフッサールが考えたのが現象学というわけです。

現象学とは、単に目の前にある具体的なひとつの三角形の絵について探求したものではありません。

確かに目の前にはひとつの具体的な三角形の絵がある。しかし、例えば数学者はこの図形に三角形そのものの定義をなんとなくかけ合わせて見てしまったりする。

そのとき、目の前にある具体的な図形を見ながら、同時に「三角形」という概念によってこの具体的な図形を捉えてしまっている。

それが意味しているのは、我々はなんとなく三角形の本質について知ってしまっている。つまり、三角形の本質を直観しているということです。

それを見ようというわけです。

そうして(あれこれ考えているうちに?)定義を知らなかった者も〈同一直線上にない3点とそれらを結んでできる三つの線分からなる図形〉というこの三角形の定義にまで至ることができる。


しかし、一体いつどうやってその三角形の定義に至ったのか?


目の前にあるのは、レアルなもの(物的なもの)です。しかし、それを捉えるときに作用しているのがなにかイデアルなもの(観念的なもの)です。

その時々で異なっているレアルなものとすべてを同じものにしてしまう抽象的で普遍的なイデアルなものとはあまりにも違いすぎている。

その2つのものの間には飛躍があるのではないか?

レアルなものとイデアルなものとの架け橋がどのようにかかっているのか?


フッサールが始めた現象学とは、少なくとも初期においては、三角形の本質が何なのかを探求したものではなく、我々は具体的な三角形を見ながら、そこに三角形の本質をすでに直観してしまっている、それはいかにしてかを知りたいということなのです。


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