前期ヴィトゲンシュタインは確かに書き方や内容としての論理式などが数学を思わせるのかもしれないし、数学の基礎論を扱ってはいるが、全体としては数学的な論証にはなっていない。
むしろ、自然数に関して見ると、直観主義であって、直観主義は数学的とはあまり言えない。
数学の基礎を扱っているというだけなら、フッサールだって入ってくるだろう。
その点で、カントは確かに数学よりも自然科学一般を扱うし、形式的には数学的な叙述がないが、ヴィトゲンシュタインや直観主義者とは違い、無限を扱える。(つまり、直観主義者はカントを誤読しているように私には思える)
カテゴリーにおける単一性(ひとつ)、数多性(いくつか)、全体性(すべて)という純粋悟性概念
ひとつから、いくつかへは簡単に行けるが、それらのすべてをまとめるという全体性が大事になってくる。
ひとつの自然数1. いくつかの自然数1.2.3.4 自然数の全体(1.2.3.4.5....)
ただし、それが直観において適応できなければ、それが自然宇宙(というか自然科学)における現実とは言えないというだけで。
数学という学問内においては全然扱える。
さて、これは数学においてどこまでを認めるかというところが争点になっているが、
今度は叙述の形式を見てみよう。
前期ヴィトゲンシュタインの論考は実はそんなに数学的な形式を使っているとは言えない。
1〜7の命題があって、それぞれに註釈がついて、それぞれの註釈にさらなる註釈をつけるという叙述形式をとっているが、そのような数学的な叙述を私は見たことがないのである。
数学ということから、デカルトの省察を思う人がいるかもしれない。
しかし、叙述の形式だけを見ればスピノザはダントツで数学的な形式を取っている。
スピノザはデカルトを意識していたようだから、デカルトの不完全さを補おうとしていた感じがある。
そして、その叙述は幾何学における証明のように構成されている。内容から言えば、数学とは関係がないが、形式で言えば最も数学的な要素を持った哲学者と言えるのではないだろうか?
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