前提としてこの問いは人間であるあなた(私)に向けられている。ゆえに、人間とは、常に”我々”のことである。つまり、”あなた(私)とあなたがた”である。
彼や彼女や彼らはどうなのか?
人間は彼でも彼女でも彼らでもありうるはずだが、それは未だ可能性に留まっている。すべては”我々”に組み込めるかどうかに掛かっている。
しかし、”それ”では決してない。
人間に黒人が入っていないことに気がついた者は、黒人が人間の範囲に入るよう政治的な運動をしてきたし、人間に女性が入っていないことに気づいた者は、女性が人間の範囲に入るよう政治的な運動を繰り広げてきた。
では、動物はどうか?動物愛護を擁護するとき、そして、明らかに我々が動物を仲間に入れようとする。つまり、動物たちを少なくとも幾らかは人間的な存在として見てしまっているのだ。しかし、微妙なところではある。だから未だ議論は続く。
しかし、個人の家族においてはペットを家族の一員として迎えることもあるだろう。そのときはやはりペットを人間的なものとして扱っているのではないだろうか?
「中国人は、我々日本人とは違う」と言いつつ日本人を称賛しようという時もまた、表向きは「日本人」を我々の側に添えていて、人間よりも狭い範囲で扱っているように見えるが、実は、人間が見え隠れするのは感じられないだろうか?我々日本人こそが人間であるというニュアンスが…!
それは”我々”を拡大することであり、翻って、他者、異邦人を消し去り、我々の理解できる常識を共有した一員にすることである。
これは常に我々の常識(人間性についての思い込み)との危うい関係がある。とにかく「私」をそこに入れて欲しい。排斥しないでほしい。人間性についての既存の思い込みを打破し、そのための闘いが繰り広げられてきた。
他者とは、未だ我々の一員ではなく、人間ではないものの、しかし、人間に近い者ではある。他者が他者として認識されるには、人間にとても似ている部分がどうしても必要だからである。それがなければ、そもそも他者としても意識が差し向けられない。
似ているがゆえ、人間は、他者によって揺るがされる。
人間は、人間である者に対して、それitなどと呼ぶことによって、あえてその尊厳を奪うことでいじめが行われてきた。
いじめは、いじめの対象に尊厳があることによって成立する。我々は石をいじめない。相手に人間的な何かを感じるからこそ、それに石を投げることに快感を持ち、いじめてしまうのだ。
いじめとは人間を他者にしてしまうことだ。
それは、彼らが人間に似ているのではなく、我々が人間に似ているだけかもしれない。我々のほうが他者かもしれないという不安に駆られさせるからしてしまうのかもしれない。
他者は我々にこう主張する「我々こそが人間だ」と。
自己意識同士の闘争である。
そして、そうした他者に応じる仕方が問題になる。他者を受け入れて人間にするか、他者を排除あるいは祭あげて他者のまま保つか、あるいは、自らが人間ではないことを認めるかを選択しなければならない。
しかし、あなた(私)は自身が人間ではないことを認めることによって、再びあなた(私)は人間になり、我々は自身の存在そのもの(つまり、人間性)をこのように守るのだ。
というのは、人間ではない可能性に気づく者は人間になることを求めるからだ。人間的であろうとするからだ。
「誰かこの中で一度も人間でなかったことがない者ならば、彼女に石を投げるが良い」
それはまるでレプリカントを狩る純人間のブレードランナーよりも、人間に似たレプリカントのほうが人間的であった、というようなものだ。
人間性は常に既に失われる。それは、ただのヒト(世人)になることかもしれない。
ただ、それに気づくことでその回復ができる。
絶えず人間は人間化することによって、人間であることを保ち続けている。
それでは、私がたったひとりでいるとき、人間であれるのだろうか?
追記: 「人間とは何か」と問われる時、すでに問いの内容は変化している。生物学的な人間について問うているのではないのだ。人間的な性質、人間性について問うているのだ。
3時間半程度
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