2024年6月14日金曜日

ニーチェの先延ばし批判と永劫回帰の意味



 

あるところでニーチェの入門書を紹介いただいた。

「ニーチェ入門」清水真木

これがその入門書の一部なのですが、どうにも分かりづらい。

そこで、なんとか読み砕いて、

私の言葉でわかりやすくしてみました。


「人生は無意味で苦しいよ」という知識があっても、それに向き合い、生きたいと思う。それが健康な人間。

一方、「人生は無意味で苦しいよ」という知識に耐えられないから、それに向き合わず、この今の苦しさに耐えればいつか報われるよという希望を信じて生きる。これが弱者。


こんな感じだろうか。


さて、せっかくの機会なので、私のニーチェ理解を付け足してさらに考えてみよう。


ニーチェはキリスト教的な精神を不健康だと批判した。

キリスト教が不健康だと言われるのはなぜか?

キリスト教では、善行と信仰によって、あの世で救われるとか、あるいは審判の日に復活でき、救われるなどと説かれている。(イエスというより、パウロが解釈によって歪めたキリスト教なのかもしれないが)

それは、現世ではなく、来世に目的を据えている。

それゆえ、来世のために現世を犠牲にする態度とも言える。

今ではなく、未来に目的があり、それに向けて、あらゆる快楽を先延ばしにしている。

そして、そのゆえに、その苦痛にすら快を感じているのだ。


ニーチェはそういうところに、そして、それが健全な徳だと説かれるところに不健全さを感じていた。


さて、今世から来世へと目的を先延ばしにすることが不健康さなのだが、

神や死後の精算、そして、来世が存在しないならば、死後に先延ばしにするとは、結局のところは苦しみの人生をただ耐えるだけで報いなしに終わるのにも関わらず、それをごまかし続けた人生ということとなる。

その意味では、究極的な先延ばしなのである。


では、今世に生きて、幸せを掴み取ればいいのではないだろうか?


神が信じれなくなった人の中には、当然そのように考える人も多く出てくることだろう。


しかし、私の考えでは、この今の苦痛を先の幸福のために先延ばしにすることへの批判は、今世と来世との関係だけを対象としているのではない。


ニーチェはキリスト教を否定したと言われるが、それはちょっと違う。

彼の著作『悦ばしき知識』の「神は死んだ」のフレーズがある有名なくだりを読むと、

狂人が「神は死んだ」と言いふらしたとき、市場にいた人々はすでに神を信じない人たちだったと書いてある。

すでに、神は死んでいるのだ。

滴菜収によると、ここでニーチェが言いたかったことは「神は死んだ」ことではなく、むしろ、「神が死んでない」ことを言いたかったのだと見抜く。


神とは、キリスト教の神だけではなく、キリスト教の神的なものに由来するあらゆる不健康なものを指している。

しかし、その根幹はひとつであるように思われる。平等である。


例えば、人類皆等しく価値があるという考えから人権が生まれる。

人権とは未だ死にきれていない神のひとつの形なのだ。

こうした意味で、ニーチェは人権をも否定している。


また、例えば、仏教には因果応報という言葉がある。

善因善果悪因悪果。良い原因には良い結果が、悪い原因には悪い結果が返ってくるというものである。


あらゆる行為には、それに対して見合った評価がつけられて、報いとして実現される。

つまり、なんであれ、した行為に対して等しくなるように調節がなされる。


「何か悪いことをしたら、その報いが必ずある」という考えはキリスト教も同じものであり、ニーチェも嫌ったものなのである。


これもまた、ひとつの等式であり、平等というところからやってきている。

(たとえニーチェがスッタニパータを愛読していたとしても、ニーチェが聖書を幼い頃から愛読していたのと同じように)

(たとえニーチェが仏教を多少は評価していたとしても、ニーチェがイエスに対して多少は評価をしていたのと同じように)


あらゆるところに平等という観念はあり、それは次のような場面でもありうる。


例えば、仕事など何か嫌なことがあったとき、家に帰ってかわいい子どもたちの顔を見て、あるいは、美味しいご飯や美しい奥さんを見て、「苦労したのは、このためだった」と思うとき。

苦労とそれに見合うだけの対価がイコールで結ばれている。(もう”平等”から飛躍してると思われるかもしれないが、その通り、その飛躍がなされているのだ。)


人生の労苦が救われるような感じがある。

労苦を労苦として捉えず、労苦の後にくる対価のための犠牲として見ている。

それゆえに、労苦を楽しむことさえある。

これはニーチェの言う不健康な人間ではないのか?


しかし、それならば、それ以後に仕事で嫌な思いをすることがあるときには、「あのとき幸せだったせいで今はこのような苦しみを味わう羽目になった」と思うのだろうか?

同じように、すべての幸福が労苦によって相殺されるのではないのか??


だが、そうではない。そう思わずに、やはり、「この後に良いことがあるためだ」と思いたがる。


だが、それは、真実が見えてないことの証左ではないのか??


ニーチェが提唱する徹底的なニヒリズムとは何か?


現実は見合うだけの対価などとは関係がなく、「ただそれが無意味に起きたのだ」ということだ。

因果応報や来世への期待やあらゆる先延ばしは否定され、この瞬間をこの瞬間に帰させしめる。


ここでようやくあの有名なニーチェの提唱が意味を持って現れてくる。


永劫回帰である。


永劫回帰とは何だろうか?

永劫回帰は、因果関係の否定に関わっている。

確かにこの世界はさまざまに因果関係が絡み、めぐっているように見えるし、実際にそうかもしれない。

しかし、永劫回帰はそれを無効化する。


〇〇ということがあって、それが原因で✖️✖️という結果が引き起こされるとしても、再び〇〇と✖️✖️ということが無限回にわたって起きるならば、そこに因果関係があったとしても、関係は薄まり、〇〇と✖️✖️という出来事のみが強調され浮かび上がる。


何か嫌なことがあったときに、これは試練だとか、これを乗り越えたら、良いことがあるとか、生きていればいいことがあるとか、ここをがんばれば成功があるとか、そういうことは一切考えずに、この嫌なことが嫌なことそのままで、これが人生だと肯定する。


逆に幸福や快楽を感じるときはどのようにその現実に向き合うのが健康的だろうか?

何かのおかげで幸福を得られたのだと思うことなく、ただ幸福を感じること。今のその幸福のみに意識を集中すること、である。

(これは、マインドフルネスにも通ずるかもしれない。)


それこそがニーチェが提唱した倫理なのではないだろうか?




蛇足ではあるが、ヴィトゲンシュタインの論考に次のような文章があったことを思い出す。




行為とその報いは同時でなければならないのではないか?ということをヴィトゲンシュタインが考えていた。


この観点は、行為とその報いとを関係させまいとするニーチェとも近い感じがあり、


ニーチェとヴィトゲンシュタインとは、ともにショーペンハウアーの影響を受けたくらいしか共通点がないと思っていたが、ちょっとおもしろいと思った。



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