2021年9月13日月曜日

世界は複雑だってことを理解しているか?

 世界は複雑なのだ。


しかし、人間はすぐに問題を単純化しようとしてしまう。


例えば、「読書か、人間関係か?」


すぐにこういう問いを発する。


どちらかに拘泥しなくとも、読書しつつ人間関係にも目を向けることだってできるし、読書の量を減らすことだってできるし、人間関係の中でも、自分にとって煩わしい人間関係だけを断ち切って、その隙間に読書を入れたり、あるいは新しい人間関係を築いたりすることだってできる。


また、読書ばかりに精出していて、人間関係をなおざりにしていると思っていて、それを自問自答する場合はともかく、


一般的な問いとして多くの人に尋ねる場合には、これは問いそのものがおかしいだろう。


「ゲームか、人間関係か?」という問いや、「仕事の成果か、家庭の人間関係か?」という問いは暗黙のうちに排除されている。それは問う人に固有の問題だからなのだ。


また、読書によって、人間関係が深められる場合も多くある。中身のない浅はかな人間関係を作るよりも、教養のある人と深い話をするほうがよいと思う人もいる。まあ、教養があるからといって必ずしも深い話ができるとは限らないが。


また、読書といってもいろいろありすぎて一元化できないだろう。


趣味を実行するために読んだり、仕事や企画のために読んだり、単なる暇つぶしで読む人もいる。


そもそもなんの本なのか?ライトノベル?推理小説?古代ギリシャ悲劇?


しかし、問いを発する人がなんとなく、物語や小説を趣味で読むことの一択に絞っていたりする。視野と言うのは言葉によってごまかされてすぐに狭くなってしまうのだ。


また逆に人間関係と言っても、これまた千差万別。家庭に仕事に恋愛、親類、すれ違いざまの人や、その中でも、価値観の違いによる軋轢や、共同で行うプロジェクトやイベント、旅行の計画や、出会い系サイトやSNSなどの書き込み、オフ会、孤立、いじめ、あるいはなんとなく社会一般のような抽象などいろいろある。


そういうことを含めて考えての問いなのかどうか?


普段、何かしら疑問を抱いたとき、その疑問、問いそのものに目を向けてみるのはどうだろうか?


「読書か、人間関係か」という問いが分かりやすいので取り上げたが、「生きるか、死ぬか」とか「人間は愛か金か」「あなたはAさんの味方か?Bさんの味方なのか」といった問いでもよい。


抽象的な問いには、具体例を挙げた時に、その多様性の幅から、自分の視野と了見が分かるだろう。

自戒



追記 いろいろとご指摘いただきましたので、お答えいたします。


指摘1:敢えて言うと、いろいろあるとすると、イエスともノーとも何とも言えないということになってしまう恐れがあります。

→それでいいのです。世の中は簡単にイエス/ノーで割り切ることはできないということを自覚し、しっかりと真実を見るのがよい。そう思います。

行動するときにはそれをわかっていながら、悩みながら、選択したらよいのです。

それを自覚せずに選択して行為すれば、それこそ危険です。

「読書か人間関係か」これに対してイエスノーの答えしかないのならば、読書にイエスと答えるならば、人間関係をすべて切り捨てることになり、人間関係にイエスと答えるならば、読書をすべて切り捨てることになります。

それが正しいとは到底思えない。

もっとたくさんの可能性に気がつくべきです。


指摘2:現実はどちらか選択しないと前進できません。

→それほどひどい思い込みはありません。

もちろん、そういう問いもありますよ。冷蔵庫の中に卵が一つ入っている。

「その卵をゆで卵にするか、別の料理にするか」これはどちらか選ばなければ、食べることができません。

しかし、「その卵をゆで卵にするか、目玉焼きにするか」という二項対立なら違います。

卵焼きという選択肢、だし巻き卵と言う選択肢、スクランブルエッグや、卵かけごはん、オムレツ、オムライス、フレンチトースト、卵納豆ご飯、たまご丼などたくさんの選択肢を安易に排除しているわけです。

ブログ記事の前半、「読書か人間関係か」という事例で考えていたことを思いだしてください。

どちらかを完全に切り捨てることが前進ですか?

私がここで言っているのは見せかけの二項対立なのです。

それを暴くことは多くの選択肢と可能性を見いだす結果に続くため、むしろ、視野が広がり、前進できるようになるでしょう。

読書と人間関係、どちらかを選ぶのではなく、むしろ、もっとさまざまな可能性に気がつくこと、「読書と人間関係とのバランスをとる」や「スポーツをする」ということや「料理を作る」といった可能性にも目を向けてみることの重要性を説いているのです。


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1 件のコメント:

  1. テレビ番組で見かけるディベートでは、我々は「AかBか」と問われ、どちらか一方の立場を選ばされます。そして、基本的には自分が選んだ立場を曲げることは許されません。ディベートでは自分が選んだ立場が相手の立場よりも優れているか、相手の立場が自分の立場よりも劣っていると、外部に印象付けたものが勝利します。つまり、論破です。しかし、その問には、あたかも2通りしか無いように誘導しているように見えるし、そこで目指されるのは、その2通りのうちのどちらが優れているか、という二重の視野狭窄を含んでいるように見えてしまいます。そういった点で、相手を論破することは不毛であると考えられます。
    なぜなら「AかBか」という問の答えには、単純な論理学ですら、4通りあり、そのひとつひとつの程度の差を考慮に入れるのならば、両手両足では到底間に合わないほどの可能性が考えられてしまうからです。
    とはいえ、これはほぼほぼ『哲学ディベート』の受け売りですが。それはさておき、ディベートを行う時我々が目指すものは論破ではなく、新たな可能性(選択肢)の発見ではないかと、考えました。

    個人的に、人はなぜ心と身体を分けたがるのかという問いに立ち向かいたいと思っていたので、良いきっかけになったように思います。とても、興味深い文章を書いていただきありがとうございます!

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