「多様性」についてある哲学カフェで論じられていた。
しかし、なんだか、参加者が「多様性」について、ピンときていない感じがあった。
なぜなら、そこには明確な問いがなかったからだろう。
多様性と言う概念の周りをうろついている感じであった。
公開するものとしては、予習がなされていないようだったが、そういううろつきでも得られるものがあるのだろう。
だが、
それを見て、私は物足りなさを感じた。
それをきっかけにした私の欲は、もっと深く「多様性」について掘り下げること。
そもそも問題は何だろうか?
問題を明確にしたい。
そのために、もう少し深く「多様性」の周りをうろついてみたい。
問題は、多様性についての道徳なのか?多様性についての制度なのか?
多様性についての道徳には矛盾がある。
「多様性を認めよう」という道徳は、それを押し付けることで、「多様性は認めない」という道徳を認めないことになり、結果的に多様性を否定している。
結局のところは、「多様性を認めよう」という道徳は、少なくとも「多様性を認めようを否定するような道徳」だけは認めていないことを自認するしかない。
また、自らの命を危険にさらす人間の多様性を認めようとはしない。殺人鬼が殺人する人生を生きたいと主張し、「ゆえにおまえを殺す」と言われて、それをあなたは多様性として認められるのか?
そのとき、少なくとも多様性など、二の次になるだろう。
そうじゃないほど、多様性を第一に重視するような多様性原理主義者がいたら、本当にこの世界は多様なのだなと私は感じるだろう(笑)
本当にいたら失礼だな。失敬
多様性原理主義者は、自分自身の多様性原理主義を他人には決して押し付けることはない。
つまり、自身に対して干渉してくる他人に対して、自身からは何事も干渉しない。
ある意味では徹底した個人主義者のようになる。
多様性の原理主義をつきつめると徹底した個人主義と通底するのかもしれない。
また、世界に例えば、LGBTが消えていなくなったとしたら、多様性の担保のために、復活させようとするだろう。LGBTの人が世界にひとりもいないことは多様性がないと言えるからだ。
あるいは、世界から殺人鬼が消えてなくなったら、無理にでも、殺人鬼を生み出すことだろう。殺人鬼がこの世界にひとりもいないことは、世界に多様性がないことになるからだ。
あるいは現に今ある多様性だけでは満足せず、永遠にさまざまな存在を、在り方を生み出し続けなくてはならない。
常に、多様性は不十分である。
無限に永遠に多様性へと向かい続けなくてはならない。
いや、
その逆もあるかもしれない。
LGBTが消えようと、殺人鬼が消えようと、人種が消えてひとつしかなくなっても、男女という二種類しか人間が存在するのであれば、それは多様性の担保がなされているのである。
他の多様性がいくら失われようとも、ひとつの多様性さえ残せば、それで十分だ。
これはある意味逆説的に思われるだろう。
しかし、今までは個人主義的な多様性について考えてきたが、世界はそんなに簡単なものではない。
個人主義と民族主義の多様性のぶつかりあい問題もある。
イスラム圏で起こっている問題であるが、イスラム圏においては社会全体でひとつのイスラム世界を作り、それ自体が世界におけるひとつの多様性になっている。
しかし、イスラム世界に住む人でもっと自由に生きたいという思想を持った人もいる。
そして、その人たちの個人の生き方を全面的に認めるということは、イスラム世界というひとつの多様性は崩壊しかねない。
そうして世界が個人主義一色に染まり、結局、多様性は担保されない。
これはある意味では多様性のジレンマとなるであろう。
「俺はみんなに理解されたくはない。俺はみんなとは違う存在でいたいからだ。」「俺はみんなとはあえて違うものを選ぶ」などと主張する人がいる。
しかし、そういう人ほど月並みの凡人だったりするのだ。
実のところ、その主張自体が、世間で言われる「みんな違ってみんなよい」とか「個性を尊重しよう」とか「あなたは特別で唯一の存在」「みんなとはちょっと違った生き方をしよう」といったありきたりな文句に無意識に流されている可能性があるのだ。
これもまた多様性が画一性へと転じてしまう例である。
例えば、購入する傘を選ぶ。
みんなよりちょっと違ったおしゃれな柄を選ぼうとしたり、ほかの傘と比べて機能性が高かったり、最新だったり、ちょっと見られない工夫が凝らしてある傘もある。
しかし、だからといっても、その程度の違い。それはすべて傘なのである。
傘という概念を超えて、
例えば、蓑を選ぶ人はいない。→その発想はなかったw
雨をしのぐものとして蓑を選んでもいいはずだが、誰も選ばない。まあ、売っていないしw
蓑を選ぶ(というかほとんど売っていないので作る?)人がいたら相当変わっていると思われるだろう。
しかし、そんな多様性は最初から無意識に排除されている。
みんな「多様性」といっても傘の柄が違うとかその程度のことが多いのだ。
そこでだ。
「多様性」について論じるのはいいが、まず「画一性」について論じたほうが有益になるのではないか?
多様性を認めるからと言って、ルールを逸脱する多様性を認めてしまうと、みんな困ってしまうだろう。
単純に「多様性」だけではなんでも含んでしまう。
人間社会は常に多様な人がいる。
まず理解してほしいのは認めてしまうと困る多様性の制度と言うものがある。
日本で、車の運転において、左側通行だけでは、多様性がないからといって、右側通行も認めたら道路は大混乱に陥る。
制度と言うものはどちらかに決めるということに意味があったりするものだ。
右側通行でも、左側通行でも、別に対した差はない。車のハンドルをつける位置が変わるくらいのものだ。現に、アメリカでは逆だし。
しかし、それが決まっていないとなると、これは大問題である。
運転するときに、常に逆走してくる車について配慮しつづけなくちゃならないからだ。
男女の風呂の問題もである。
LGBTへの配慮から、お風呂をどのように区別するかという問題なんかも掘り下げていくと興味深いだろう。
性的犯罪の問題や、性自認の問題などが複雑に絡んでいるため、一筋縄ではいかないからだ。制度となると、予算などの条件を含め、どうしても妥協点を探って決めるしかないという部分が必ず出て来るからだ。
その意味では、多様性と制度とは相いれない領域、つまり限界が必ず出て来る。
あくまでも、どの程度までなら許容できるか、というのが制度なのである。
最後に、多様性の問題において、
問題の一つは、多様性をどのような形で認めるかということなのである。
お風呂の例にとろう。
ノーマルな男と女とLGBTとそれにも属さない人たちの全員を同じひとつの風呂に入れる。
これが多様性を素朴に認めたものだろう。
しかし、これではおそらくみんなストレスが溜まってしょうがない人が多く出てくる。
逆に、男は男用と女は女用、LはL用、GはG用、BはB用、TはT用とに区別する。
しかしそれでは、本当に多様性は保たれているのか?
昔、アメリカ南部では、バスにおいて、黒人は黒人用の席、白人は白人用の席に分けられていた。
昔、ドイツでは、公園のベンチにおいて、ユダヤ人はユダヤ人用の席、アーリア系ドイツ人はドイツ人用の席に分けられていた。
それぞれの席は確かにある。しかし、それで多様性は保たれているのか?
黒人であれ、白人であれ、同一の席に座れること、それが多様性の担保ではないのか?
ドイツ人であれ、ユダヤ人であれ、同一の席に座れること、それが多様性の担保ではないのか?
そうでないのなら、簡単に、今国内にいるすべての外国人は自分の国に返すことだって強制できる。
それは、アメリカ人なら、アメリカ合衆国に帰りなさい。
そうしたとして、日本における多様性はなくなれども、世界においては多様性は維持されるではないか!?
女性専用車両や男女別のトイレや風呂もそうなる。
しかし、なぜか私は、トイレや風呂は男女別にしておいたほうがいい。
そのように感じている。
それは性犯罪についていくらか記事を読んで知っているということもある。
いろいろとめぐってしまった。
問題の観点がありすぎて混乱したことだろう。あるいはあなたの中で整理できていたらすばらしい。
私は混乱の内にいる。
多様性の問題は本当に難しい。
しかし、
一概に「これだ」と決めつけるような問題ではないということだけはとてもよくわかる。
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