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「ねえ、つれて行って。私も」
「だめだったら」
少年は怒ったような声色だった。
「海は、二人でたのしみに出かける場所じゃない。人間が、一人きりでぶつかりに行く相手なんだ」
「私よりも、海のほうが好きなの?」
少年はいらだち、神経質に眉をよせた。
「君といっしょにいると、僕は、ときどきもう一人の自分が、ひどく遠いところに置き去りにされているような気分になる。
僕は、そのもう一人の自分を取り戻すために海へ行くんだ。
・・・海は、人間を本当の一人きりにしてくれる場所だからね」
「どうして一人きりになりたがるの?」
「女にはわからないさ」
少年はきびしい顔で答え、ふいに白い歯を光らせて笑いかけた。そして、いった。
「君を好きだよ」
スナイプはすでに岸を離れていた。
~~~『朝のヨット』山川方夫『夏の葬列』集英社から~~~
孤独哲学
私は一人そこにいた。
私は孤独を感じた。
私はただ漠然と孤独を感じた。
私は一人考え始めた。
孤独とは何だろうか。
孤独... こうしてただ一人でいること。
大抵の場合、ここで、孤独とは何かという問いは終り、孤独になると何を感じるか、あるいはなぜ孤独に感じるのかという問いにすりかわる。
というのも、これ以上どうやって問うたらいいのか、そもそもそれ以上追及することになんの意味があるのか分からないからだ。
そうして、人はただ孤独感を晴らそうとする。
だが、私はこのまま孤独とは何かを問いつづけよう。
孤独の定義内容つまり孤独とは何かが分からないというのであれば、孤独ではないということがいかなることかを考えればよいのだ。
では、孤独ではないとは、どういうことだろうか。
それは誰かといるということであろう。
誰かと居るとは、ただ同一の空間に2人の人がいるということではない。
想像してみよう。
たくさんの人通り、誰も私を振り返ることも無く、それぞれがそれぞれ別々の目的に向かって歩いている。
誰も振り返ることも無く、ましてや話しかけることもなく…。
たとえたくさんの人がまわりにいたとしても、その人とコミュニケーションを取っていないのであれば、彼は孤独だろう?
多くの人と、同一近接空間にいながらにして孤独であることを孤立という。
では、その人たちが彼とコミュニケーションを取っていたとしたらどうだろうか。
コミュニケーションを取っているならば、それは確かに孤独ではないと考えるかもしれない。が…、
例えば、両者の意見の食い違いにより、口論議論をしていたら、
それはあるコミュニケーションの成立状態にあるとは言えるが、
同じ意見をもつ同士のいない彼は孤独ではないだろうか。
では、同じ意見をもつ人間がいるならばどうだろうか。
その人は彼を承認してくれ賞賛してくれる。
確かにそれならば、孤独ではないと言われる。
が、それでも孤独である場合は多々ある。
例えば、著名な作家、アーティストは、人々からしばし賛同を受け、彼を承認してくれる。
ところが、彼らは理解されていないと孤独を感じることが多い。
アーティストは、大衆は我々を理解していないと感じる。
私自身を理解できるのは、私自身であると感じる。
そのことによって孤独なのである。
ただ、これは、たとえ本人以上に彼のことを友人が理解していたとしても、彼が友人の自分への理解を予期していなければ、同じことである。
また、理解していたとしても、彼がその友人を理解していない、信用していない、あるいは、その友人に興味がなければ彼は孤独に感じる。
そもそものところこの孤独を感じる私とは何であろうか。
最後にどれほど以上の条件を満たしていたとしても、哲学的洞察によって、他の誰にも変わることのない「この私」の特殊性を自覚すれば、彼は孤独感を感じる。
以上の考察に共通するのは、彼が意識を自己に向けているということである。
これは意識が他者に差し向けられていないということ、ではない。
遠距離の彼女は、愛する人のことを、意識するほどに寂しさを感ずる、しかし、恋人はそれだけ自分のことをも意識しているので寂しさを感ずるのだ。
逆に、孤独であって良いという人もいる。
「俺はみんなに理解されたくはない。俺はみんなとは違う存在でいたいからだ。」
「俺はみんなとはあえて違うものを選ぶ」
などと主張する人がいる。
しかし、そういう人ほど月並みの凡人だったりするのだ。
実のところ、その主張自体が、世間で言われる「みんな違ってみんなよい」とか「個性を尊重しよう」とか「あなたは特別で唯一の存在」「みんなとはちょっと違った生き方をしよう」といったありきたりな文句に無意識に流されている可能性があるのだ。
そこからわかること、それは孤独とは、これはナルシシズムの可能性を秘めているということだ。
いや、むしろ、
ナルシシズムこそが孤独の根源、なのかもしれない。
ナルシシズムとは自己を愛することなのだが、正確には自己のイメージ、自己像を愛すること。
人は自己それ自身を見たり聞いたり愛したりすることはできない。
そもそも、自己それ自身が存立しているのかどうかも分からない。
だが、創り上げられた自己像、生まれた自己イメージは、自己に関する過去の断片と感じることを集めて「私」という概念にまとめあげた像のこと。
「私とは何か」などと問うとき、人はナイーブにこうした自己像に頼りがちだが、実際は、私が持っているある感じとして、断片的なものがあるだけである。
私というものは、
特に、鏡に映して、あるいは他人という鏡に映してはじめて存在せしめるものなのです。
ゆえに、精神分析医ラカンが言うように本当は鏡像のようなものに過ぎない。
それは他者像に似せて作られた像なのだ。
そうした自己像と他者像、その間の感覚的な距離がさみしさの発生源かもしれない。
しかし、ここで次のように問えると気付くだろう。
すなわち、はたして寂しさと孤独とは同じものなのかと。
寂しさと孤独とは異なる。
恋人を待つ少女は寂しくはあるかもしれないが孤独ではないはずだ。
その少女が孤独になるとき、それは恋人が結局連絡なしにとうとう来なかったときである。
孤独とは、私の居場所の確定とその外部への私の意識で生じる。
私の居場所とは文字通り私が居る場所のことである。
それは私の世界とでもいえるだろうか。
私の力の及ぶ同一性の及んでいる世界である。
私の意識と認識の及ぶ世界である。
私が「こうである」と思いこんでいる世界である。
あの人はこう思っているに違いないとか、普通こういうときはこうするものだという推察や推測から、
ここは夢ではないとか、ここには酸素があるとか、私は生きているとか、物理的な力が働いているといった当たり前だという感じがかなり強いものまで含めて、
私は「これこれのことはこうである」と思っている。
その世界のことだ。
「だれもが自分の視野の限界を世界の限界だと思っている。」ショーペンハウアー
レヴィナスはこれを「totalité(全体性)」と呼んだ。
ではその外部とはなんだろうか?
想定外の世界という可能性を多分に含んだ領域である。
その想定外の可能性とは、
起こるとは思えないほどの大きな地震が起きたり、信じきっていた人が裏切ったり、こうだろうと思いこんでいた街角から自転車が突っ込んできて事故したり、思わぬ憧れの人から告白されたり、末期ガンが奇蹟的に治ったり、
死人が生き返ったり、未開の地の奇妙な風習の民族とであったり、未知なる惑星の思いがけない不思議な現象を見たり、究極的には、数学や物理学、論理学さえもが私が知っていることが通用しない世界に至るまで。
しかし、そんなことを今、可能性として、当たり前の想定になってしまったり、あるいは出会って知ってしまうと、想定外の世界は、今後想定内となり、全体性へと帰す。
しかしまた、新たな想定外に出会うだろう。
それは限りがない。
レヴィナスはこうした運動性を「infinite(無限)」と呼んだ。
孤独は(他人との)無限という関係において生まれる。
常に、相手の意外なところを知り続ける、しかし、常にまだ、知らない一面も生産され続ける。
相手のことを知って、この人ってこういう人だよねという了解のもとで生きる。
しかしまた、それは覆される。
それを肯定的に捉えられるか?
肯定的に捉える精神は新たな一面をおもしろいと思う好奇心。
一方、否定的に捉える精神は、壁である。
相手のことに永遠にたどり着けないという絶望、それが孤独に通じる。
それは相手をすべて知りたい、という飽くなき欲望に基づいている。
そしてまた、人は常にすべての人を意識しつつ生きているわけではない。
恋人を待つ少女は、恋人がやってきつつあるという世界を生きている。
しかし、とうとう恋人が来なかったとき、その連絡なき恋人がどうしているのかわからないという不安な状態にあって、その恋人の世界と、少女の世界とが分断されてしまっているのだ。
そのとき、彼女は想定外の可能性の世界に向けて、その真っ只中にいるのだ。
こんなとき、自分の世界を超えた外部へと意識が差し向けられやすくある、のではないだろうか?
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