まず、愛と友情とは理性的な部分がいくらか見られます。愛する人と朋友は「eye」で相手をしっかり見て「共」に生きるからです。
しかし、恋は故意ではありえず、矛盾します。何かを意図するもの、理性的なものではないのです。
ヨーロッパでもamor(アモル、恋)とはamoral(無道徳、超道徳)なのです。日本でも、男女関係において親密な仲(=恋仲)を古語で「わりない仲」と言いますが、「わりなし」とは「理(ことわり)+なし」=理屈や分別を超えているということを意味するのです。
恋は異質な他者への切望です。決して得られそうもない真なる知への切望、つまり、哲学も同じです。
一方、友情は同門、同志の者とのある相互承認関係です。
友情は同じ門、同じ志の者とのある相互承認関係です。ただし、その承認がむしろ相手への甘えとなると互いを腐らせる馴れ合いとなり、その承認そのものが崩れると互いの生存を脅かす敵と化します。
友情を保つことは意外にも難し
く、適切な距離と互いの敬意を保つ必要があります。
ニーチェに言わせれば、「人は己の友をも敵として敬うことができなければならぬ」のである。
最後に愛情とは何か。これが一番難しい。
愛には、プラトンに始まるプラトニックな愛と、ロマンティックな愛、そして、エロティックな愛というものがあると言われます。
私は、どれが欠けても足りなくなり、愛、恋といえなくなってしまうと思います。というのは愛にも恋にもその側面があるからです。
しかし、この三つに決定的に欠けているものがあります。それは、その愛は、愛される他人の性質ではなく、愛される他人そのものを愛するのです。
しかし、現実には、そのものを愛すると言うことは、自分の愛がほんものなのかどうかを知ることは不可能だし、その意味を確定しようと考察するどの哲学者も失敗しており、存在するとは思われません。
以上は思弁的な私の恋愛観です。ただ、思弁的なので理想論かもしれません。経験的な恋愛観は別にあります。
私自身の経験的恋愛観
1.自分自身は当てにならない。
私の心は秋の空。はじめはその人に対する小さな気がかり。そのなんでもないような気がかりを大事にしていたら、それはだんだん膨らんで胸いっぱいいっぱいになっていた。そうして、それをそのままにして三ヶ月から半年ほど置いたら、いつのまにかまた、それはしゅくしゅくと萎んでいく。小学校のときには、学年があがる度に好きな人が変わってしまった。そのことに気がついてから、私は私自身のことが信じれなくなった。私は私自身ではなく、他人の心を信じようと思っていた。自分のことを好きになってくれる人を好きになろうと思った。
それはできた。そう、誰でも好きになることができたのだ。それは最初の気がかりを育てるか、捨てるかを選ぶだけでよい。私は誰を好きになるかを自分で選べるということだ。この自由ゆえに、私はさらに自分が分からなくなった。いったい誰を好きになったらいいのか。でも、寂しさゆえに、誰かを好きになりたいと思っていた。そうして、なんとなく自分のことを好きそうな人を好きになろうと思った。それは恋ではない。ましてや愛ではないと思った。
2.すべての人は美しい。
最初の小さな気がかり。それを育てると暴走し始め、制御できなくなる。最初は何らかの好感である。ちょっと笑顔がかわいかったり、ちょっと言葉遣いが気になったり、気になりはじめると、その人をさりげなく見るときにも、今までと違ったポイントを見るようになる。例えば顔。今までは、ブスだと思っていたその顔の中にも、ある美しさを見出すことができる。
どんな顔もその全体から秩序だったあるパターンの関係を見出すことができれば、美しさを見出すことができるのだ。そうして私はいかなるものにも美を見出すことができる。いかなるものにも美は潜んでいることに気がついた。そうしてだから、様々な人が様々な人を好きになることができるのだとわかった。しかし、世の中には多くの人が美しいと認めるものも存在する。これはなぜか。これはただその人の中の美は発見されやすいというだけの話だと思った。
愛は盲目ではなく、愛は潜んでいた美を発見させるのだ。
3.好きという感情が恋愛を破綻させる。
好きという感情には隙がない。気づいたときには膨らみすぎてもはやぱんぱんである。そんな状態のまま相手に接しても、相手がよほどの心の広さを備えた人でない限り、離れて行ってしまう。想いは重いのだ。その重さを相手に渡そうとしても、相手が拒否するだけである。結局は、通常みんなそんなに求めておらず、ライトな愛がお手ごろなのである。しかし、私はうそをつくのがへたくそである。そのため、自分の重くなった気持ちを相手のことも考えずに、渡そうとしてしまうのだった。だから大抵うまくいかなかった。最初の気持ちはなんとかなれども、一旦好きになりはじめると、制御できないのだった。
タルコフスキー監督の映画「ストーカー」 |
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