単に一人でいることが孤独感の条件ではない。
孤独感とは人間関係あるいは他者との関係の断絶なのである。例えば、一人でテレビを見ているとき、私は孤独感を持たない。ところが、そのテレビでの笑うべきシーンで、笑い思わず「これおもしろいね」と口に出した瞬間、そこにその気分を共有してくれる誰かがいないことに気づき、孤独を感じるのである。あるいは、一人山に登り、夜空いっぱいの星を眺めているとき、私は孤独感をもたない。この世界いっぱいに自分の存在が広がる思いである。しかし、ふとこの気持ちを誰かと共有したいと考えたとき、自分が一人でいることに気づくのである。
孤独感とは何であろうか
孤独感とは、私が現に感じている世界とその外側に今実感しない世界を想定したときのこの私の世界イメージの境界である。例えば、一人山に登り、小鳥のさえずり、すがすがしい空気を感じているとき、私は世界と一体となったような気分に襲われ、満足感に満たされる。ところが、この光景や気分を誰かと共有したい、あるいは伝えたいと考えたとき、私の実感している世界のようなものが突如としてひどく小さくなり、自分の実感できない大きな世界を想定あるいは、別の場所にある世界を想定してしまう。そのとき孤独を感じるのだ。
孤独感とは、自分が一人でいるということに気づくということである。例えば、一人でテレビを見ているとき、私は孤独感を持たない。ところが、そのテレビでの笑うべきシーンで、笑い思わず「これおもしろいね」と口に出した瞬間、そこにその気分を共有してくれる誰かがいないことに気づき、孤独を感じるのである。そんなときには幽体離脱をして自分ひとりでテレビを見ているということを別の視点から眺めている感じがするのである。
孤独感はたとえ人々と一緒にいても襲ってくる。周りの空気に合わせていても、本当に心で思っていることはまったく違う。自分が他人に向かっていっていること、自分のいる場所、何もかもに違和感を感じる。この世界が、非現実的な夢のようなものに見える異質なものに見える。
孤独感は、他のあらゆるものを対象にさせて突き放して見るということである。私とは誰かと問う私とは誰かと問う私とは誰か…このような堂々巡りに陥るとき、本質的には自分ひとりしかいないと感じるとき。
コミュニケーションは、コミュニケーションを切望することによって始まる。
コミュニケーションは。コミュニケーションの可能性を信じることによって成立する。
また、(対人コミュニケーションと対物コミュニケーションにおいて)対人コミュニケーションの場合
相手もこちらに対しコミュニケーションを意志することによって始まる。
また、相手やこちら側が、コミュニケーションは究極的には相手と通じえないということや
コミュニケーションは幻想に過ぎないという考えを持っているとしたら、
コミュニケーションは完全には成立しない。
コミュニケーションは「好き」(相手のことを知りたいor一緒にいたい)から成立する。
コミュニケーションの極限で人はコミュニケーションの不可能性を知る。
コミュニケーションは甘えによって成立する(人は相手のことを知りたい以上に、相手に自分を知られたい)。
例、相手に話しかける=相手に何らかの反応を求める=相手への要求、つまり相手に認められたいという甘え
対人コミュニケーションは、相手と自分の双方が切望することによって始まりを(第三者が)見る。⇔拒否によって終わりを見る。
対物コミュニケーション(神や憧れも)は自分と自分を対象化した何かに意味づけすることである。究極的には対人コミュニケーションも単なる意味づけに過ぎない。
自己満足は、究極的にはコミュニケーションを成立させる。
自己満足はコミュニケーションを必要としない。それは一方的コミュニケーションを必要とする。
したがって、自己満足は対人コミュニケーションより対物コミュニケーションを必要とする。
人は誰か(何か)を愛することがある。
ある人の愛する対象とその愛する対象の愛する対象が食い違っているために、孤独が生まれる。
嫉妬は孤独感の上に打ち立てられる。
孤独から生まれた愛とは、愛されることを愛することである。
それは自己愛に起因する。
孤独感とは、コミュニケーション感が欠けた状態のことを言う。
コミュニケーション感とは何かに肯定的な意味のある関わりを持っている感じである。
なおかつ、コミュニケーション感は実在感(それ(対象、他者)が実在している感じ)の上にのみ打ち立てられる。
コミュニケーション感には、二種類ある。
一つは、他人とのコミュニケーション感(対人コミュニケーション感)
一つは、事物(事柄)とのコミュニケーション感(対事物コミュニケーション感)
したがって、孤独感は何の事柄とも関わっていないとき、あるいは 憂鬱、空虚
他人との距離(疎外感)を感じるときに前提条件が揃う。 疎外感
あるいは、他人や事柄と距離を置きたいとき 恐怖等
コミュニケーションと孤独について
われわれの特権とは、第一にその自己中心性にある。第二に他者への気づきにある。
他者への気づき。異界への気づき。絶対的にわかりえない何かへの気づき。それが翻って自己自身の世界の狭さ、自己自身の高慢さ、自己中心性に気がつくきっかけとなる。
自己中心性への気づきがコミュニケーションの可能性を作る。しかし、自己中心性を越えて、人を観れるようになったら、今度はれその心を支配しようとしていく。
営業はその人の個別性に合わせて、人の心一般に対する理解と常識というもやもやしたコ・モ・ン・セ・ン・スに訴えかける技術を磨くことで、その人の心に働きかける。
しかし、どれほど他人の心を操作しようとも、いや、むしろ操作するほど、その操作、つまり他人を道具として扱っていることに気がついたその瞬間に、私自身の心の中にあるこの相手を道具として扱っていると言う秘密をうちあけられないという孤独。その秘密を抱えた私の孤独。他者は私を理解しないという孤独。それはうちあけることによって超えられる他者との境界。
逆に、操作しても、しきれないもの。どうしても残る不可解性、理解を超える他者、それこそが他者の他者性である。理解を深めれば、深めるほど新たに分からないものが見えてくる。
知れば知るほどにより謎は深まっていく。
全体性と無限。
1つの観念がそこにある。全体性とその超越。自分の意識していた世界を超越したものに出会うときに現れる超越。他者性。
Idee, Norm, Sollen, Tatsachen(Interpretation)
Sollen(Pflicht, Wille, Akt, Ergebnis)
私に向かって立ちはだかる空気。空気とはいったい何なのか。
その空気に対して私はどう接したいのか。どう生きていけばいいのか考える。
「空気読め」と第一声を発した人は空気が読めているか。
空気は権力の強いほうにある。
空気は多数にある。多数を味方につけた方が空気である。
多数がその人がKYであるという空気を作る。
関連ブログ→孤独から世界を超えるところまで哲学する
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