2015年9月3日木曜日

映画「トライアングル」と永劫回帰のパラドックス

「トライアングル」という映画を観た。



バミューダトライアングルの話はご存知ですか??
三つのある島、半島にはさまれたバミューダ海域では、超常現象が起きるといわれていて、昔から、奇妙なことが起きていると言われている。
突然、無風になったり、突然嵐がやってきり、飛行機が行方不明になったり、人が一人も乗っていない大昔の船が現れたり、しかも、さっきまで人がいたかのような雰囲気で、食事の途中そのままにしてある、まったく腐っていないなど。




この映画はそういう超常現象の話をうまく活かして作られている。

船の中でその船の名前、アイオロスにまつわる話、つまり、ギリシャ神話の「シーシュポスの受けた罰」の話がなされていた。

原典の話を調べてみたのだが、あれも非常にうまく掛け合わせている。

映画の中でも説明していたように、シーシュポスの神話とは、死の神との約束を破ることで、岩を頂上まで運ぶという何の意味のない労働をさせられたという話である。
しかし、何度岩を頂上に運んでも、頂上ぎりぎりのところで再び岩は下に転がり落ちて、永遠に再び運ばなくてはならないという。
死の神との約束と言うのは、映画では約束と言っていたが、正確には約束と言うより単なる詐欺。
1つは自分を神のもとに連行しようとする死の神タナトスを封じ込めた。
そして、死を封じ込めたので、誰も死ななくなってしまった。

もう1つはむりやり死の国に連れてこられた黄泉の神の女王ペルセポネに三日間だけ生き返らせてくれと頼んだが、三日たっても、黄泉の国にもどろうとしなかったこと。
要するに、ギリシャ神話では、何度も死に連れ戻そうとする神に抵抗した挙句に、死よりもひどいことになるという。

映画でも「死に返せ」「死に返さなければ帰れない」と言っていたね。
だから殺すんだ。

ちなみに、シジフォスはそうした事件よりも前に自分の子供も殺している。



でも、もっと気になることがある。

それが手塚治虫にはできなかった無間地獄を描くということ。
この映画は、手塚治虫の描いた無間地獄よりより徹底的で、最後まで楽しめるように作られていてかなりおもしろかった、評価できる点だ。

手塚治は、火の鳥のどれかだったか、過去に殺人を犯した男が、最後に誰かに殺される。
しかし、その誰かとは若いときの自分だった。つまり殺人という罪は自分自身に永遠に帰ってくる。
永遠に自分自身を殺し続ける、という話を描いている。

火の鳥 異形篇



ところが、何度も殺されているように見えて、実際に殺されるのはその人生で1回だけだ。
だから徹底されていない。(このあたりは永井均の「マンガを哲学する」で言及されている)

哲学者、永井均

以下
トライアングルの
ネタバレ

トライアングルという映画は、何度も何度も時間がループしてしまうというSFループものの映画である。
主人公の女性が謎の難破船にたどり着くが、そこでは、なんども時間が巻き戻され、主人公の女性がなん度も難破船にたどり着く。
そして、主人公の女性は自宅に戻って子供のもとへ帰ろうとするのだが。
トライアングルが非常にうまくできていたのは、彼女が船から海に落ちて再び自宅に戻って、子供を叱る自分自身を殺したということ。

そのことによって、再び船に乗り込むのは、船でのあの経験をすでにしている自分ということになる。
夢で見てはじめて船に来たとかではなくて、実際に経験したことを本当に繰り返しているというのがおもしろい。

ところが、もしもまったく同じことが回帰しているならば、そのことによって1つSF的なパラドックスが生じている。

それは主人公の彼女はいつ生まれたのか?ということだ。

生まれてから、子供を育て叱る彼女は船から戻ってきた彼女に殺されているのだから。

その船から戻ってきた彼女も、その前の船から戻ってきたのであって、常に何度も、生まれてから子供を育て叱る彼女は殺されていて、船に乗ることができない。

そうすると、船から戻ってくる彼女は、何からも生まれていないどころか、彼女自身とも関係のない誰かということになるのだ。

この映画だと、パラドックスは簡単に解決できる。
ただ最初は違った、最初は殺されなかったと考えればよい。

この映画では何もかも元通りではなく、何回繰り返されたのかは死体の数を数えることができるから。

しかし、私はもともとこの問題はかなり時間をかけて考えたことがあるんだ。

昔、ドラエモンにこういう話があって、

ある漫画家が漫画を書かなくてはならないんだが、思いつかない。

そこでドラエモンのびたに相談して、タイムマシンで未来にさかのぼって、
自分が未来に書く漫画を取り寄せて、それをうつしちゃうという話。

漫画家が書き写した漫画は確かに漫画家が書いているんだけど、いったい誰が考え出した漫画なのかという問題が残る。

漫画家は何も漫画を思いついていないはず。

ただ書き写したのだから。

誰も考え出していないのに存在する漫画、これは本当にSFパラドックス。

ニーチェという哲学者は、永劫回帰という思想を提唱した。

永劫回帰とは、あらゆるすべてのものはすべてまったく同じ歴史を永遠に繰り返すという想像である。

この思想では、例えば、一人の人間の一生が永劫回帰しているとすれば、生まれたものが死ぬと同時にもう一度生まれまったく同じ一生を繰り返すというものである。

このこと思想自体はSFチックなのだが、
科学的に考えるとすべての物質は原子などの単なる組み合わせであり、
時間を無限の直線と考えれば、
その組み合わせがあるときまったく同じ組み合わせになる可能性は必ずあるといわざるをえない。

というのも、組み合わせは有限であり、時間は無限だからだ。


そういう意味では全宇宙はなんども同じことを繰り返しているのかもしれない。

宇宙60億年の歴史といわれるが、なんどもビッグバンは起こっており、何度も私は映画を初めて観て、なんども私はこうしてブログで「トライアングル」について話しているのかもしれない。
それも、10の100000000000億乗年ごとに。

あ、計算はしていないので数字は適当ねw(計算できるのか知らないけど)

そう考えると、時間はむしろ円環しているのかもしれない。
と考えるようになってくる。
そうして、もしも神なんてものがいるとすれば、それはその円環の外で、いわば誰も思いついていないはずの漫画家の漫画を思いついているのだろう。
それこそが神であるのだと。




中世の神学者トマス・アクィナスは「神は事物に対し三とおりの原因として関係する。
すなわち、作出因、範型因、目的因である。
そして、ある固有性により、
事物の存在性は作出因としての神に、
真理は範型因としての神に、
善性は目的因としての神に
関係付けられる」と言った。

これは「我々はどこから来てどこへ行くのか」という古来からの哲学的問題だ。
作出因とは世界が初めて作られた第一原因を指し、
範型因とは、世界を正しく認識することが可能であることの原因を指し、
目的因とは今後世界が向かっていくべき方角の指示を指すのだが、
それぞれ、過去、現在、未来という時間が割り当てられている。

そうして、神は1つであるにも関わらず、まったく異なる三つのものの原因となるという矛盾が生じる。

時間が円であると考えれば、そうした三つのものに対する考え方はがらりと変わる。
現在は何度も繰り返された過去であり、
そして今後何度も繰り返される未来であると言えるからだ。
したがって、神は1つであるにもかかわらず、世界の円環そのものを作ったと言える。
そうすれば、神はひとつであるにも関わらず
現在であり過去であり未来であるということが矛盾せず言えるのだ。


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