2010年12月22日水曜日

私の哲学

私は自分がどのように生きたいのかを知りたい。
(「私は自分がどのように生きたいのかを知る」とはどういうことなのだろうか?知りえるのだろうか?)
私は本当に「自分がどのように生きたいのかを知りたい」のだろうか?ということを知りたい。

私とは何か?
「私」という言葉を発すると同時にその「私」はすでに過去のものとなってしまう。その中でも今現在あるこの自己意識こそが私なのではなかろうか?という永井均的<私>の考察
私が無ければ時間はない。時間が無ければ私はない。時間に現在などなく過去未来だけがあれば、私など無い

本当とは何か?
すべては単なる主観的なお話に過ぎないのであって、本当は言語(パースペクティブ)の内で生成していくのであるのではないか?
生きるとは何か?存在とは何か?

私は自分がどのように生きたいのかを知りたい、という問いは単なる逃避なのだろうか?
堕落なのだろうか?知りたい。
ただ単にお腹が減っているのだろうか?ただ単に眠いのだろうか?

2010年12月19日日曜日

偽善

新しい出会いはすばらしい
あいつに会って、
自分が贋物だって気がついた。偽物の哲学者・・・
自分は本当は価値相対主義に位置することによって、単に自分の善なる生き方に対して怠惰だったのだ。
ニーチェなんか読んで、あらゆる価値を破壊して、その上で虚無主義に自分の生き方をごまかしてきた。
自分の欲求が常に自分の道徳よりも上に位置している。そして、自分でそれに沿った考え方を採用していたのである。
ラカンを読んで、自分が本当は何を欲望しているのか考えた。自分はいつまでも「自分探し」を続けていたい。それは自分を本当は知りたくない欲望なのである。
先生や他の哲学の友達たちも私に偽物を感じとっていた人は避け始める。

ラカンが言うように、ひとところに固執して、とどまっていないでどんどん考えを先へ進めよう!
もういちど、哲学の基本に戻ろう。
カントをプラトンを読もう!!
マイケルサンデルを見よう!!
自分で考えよう!!
絶望に浸っていないで!やることはあるのだ!!

2010年12月16日木曜日

俺は何やってるんだろう・・・

2010年12月7日火曜日

寝過ごしや堕落したりておひるどき
バラ枯れてなしたることなき人生を想う
俳句読み家にこもりて季語はなし
ピアノ弾き下手の横好き近所の目
休学して学休まず
堕落しても完全には落ちず
固執しても届かず
遅刻してもただでは起きず
やりたいことをやるべきことにしてしまえば苦痛
罪悪感振り払えども抑圧あるのみ

2010年12月4日土曜日

不安定な自分

ただの自己満足か、それとも道化者か。

言いかえればオナニストか、ナルシシストか。

ネクラかネアカか。

手品師と画家

いつの間にか自分の満足いくものより他人の満足いくものを書いていないか

自分が大衆的なものを好んでいることに気づいていたか?

自分が大衆的なものが好きだという事実に耐えられるか?

他人の目を気にして他人と違うようにふるまっているのか?

他人の目を気にしないで行動すると、いつの間にか大衆の一人になっているのではないか?

2010年12月3日金曜日

吐き気

吐き気吐き気吐き気ああ吐き気がするサルトルとは違う吐き気
こんなにも胸糞が悪いのはなぜだ!
俺は何に対して吐き気を催しているのか?
俺は責任に対して吐き気を催しているのだ。
責任とはやらなければならないことをやることだ。
自立・自律するためには責任がまとわりつく。
その吐き気からは他人に頼りたい他人に頼りたいという欲望が出てくる
責任自律めんどうなこと、気持ちが悪い!!
思い出した。幼いころは宿題に対してそんな気持ちをもっていたようにも思える。
他人に対しての配慮や行動が責任を伴って僕を拘束する。
ああ、胸糞が悪い
ああ、胸糞が悪い
僕は前から責任と言う言葉が嫌いだった。
責任なんて虚構だと思っていた。
違った。
責任なんて虚構だと思いたかったのだ。
気分が悪くなってくる。
だから、私はいつまでたっても現に親から自立していないのだ。
心の底では自立したいと思っていないのだ。いつまでも親に甘えていたいのだ。
痛いのだ。痛いのだ。甘えて痛いのだ。
そのくせ、親を親と思わずただの人間他人のうちの一人にしてしまいたがっていた。
自分一人の力でやろうとすることがこれほど大変とは思わなかった。
林田先生の弁論大会への協力がなければ、自分はあれだけできたのか?
憂鬱な日々が続く。
しかし、乗り越えなければ、これこそが成長なのだ。
みづからに責任を負って、やりたいことを成し遂げてやる。そのためにはどんなやらなければならないことからも逃げない心にしなければ!
くそっ!くそっ!
自分は弱いことを知っているつもりだったが自分がこんなにも弱いとは・・・!
何かに押しつぶされるような重圧、ストレス。やらなければならないこと
それが私を押し潰そうとするのだ。
涙を流したい気分だ。解決しても次のやるべきことが来るだけだが、すべてを後回しにすることは何も解決しない。ただ、ほって置けばそれで終わってしまうのだ。
助けを求めたくないと思いたいのだが、私は明らかに助けを求めている。

V.E.フランクルの「<生きる意味>を求めて」を手に取る。

神は、あなたにとって一番親しい、独り言の相手である。あなたが自分自身に向ってこれ以上ない誠実さで語りかけ、本当の孤独の中で語りかける時にはいつも、実はその相手になっている人、その人のことを神と呼ぶのだ。
 この定義なら、無神論的な世界観と有神論的な世界観という二分法は意味がなくなる。無神論か有神論かという違いは後になって出てくるだけのことである。違いと言っても、無神論の人なら、独り言をまさに自分自身との対話だというだろうし、また有神論の人なら、その独り言を、誰かほかの人との本当の対話だと解釈するだけの違いである。何よりも大切なのは、これ以上ない誠実さと正直さであると私は思う。98頁

ああ・・・・・。

2010年12月1日水曜日

私の孤独について

孤独感とは何であろうか。
私は私の孤独感をコミュニケーションを求める欲望との対比で明らかにしたい。
単に一人でいることが孤独感の条件ではない。孤独感とは人間関係或いは他者との関係の断絶なのである。たとえば、一人でTVを見ているとき、私は孤独感をもたない。ところが、そのTVでの笑えるシーンで笑い、思わず「これおもしろいね」と口に出した瞬間、そこにその気分を共有すべきだれもいないことに気づき、孤独を感じるのである。
あるいは一人山に登り、夜空いっぱいの星星を眺めているとき、わたしは孤独感を持たない。この世界いっぱいに自分の存在が広がる思いである。しかし、ふと、この気持ちを誰かと共有したいと考えたとき、自分が一人でいることに気づくのである。

孤独とはなんであろうか。
孤独感とは私は今実感している世界とその外側に、今実感しない世界を想定したときの二つの世界の境界である。
例えば、一人山に登り、小鳥のさえずり、すがすがしい空気を感じているとき、私は世界と一体となったような気分に襲われ、満足感に満たされる。ところが、この光景や気分を誰かと共有したい、あるいは誰かに伝えたいと考えたとき、私の実感している世界のようなものが突如として小さくなり、自分の実感できない外にある大きな世界を想定あるいは、別の場所にある世界を想定してしまうのだ。そのとき孤独を感じる。

孤独とは何であろうか。
孤独感とは、自分が一人でいることに気づくことである。
TVで笑えるところで笑い、無意識に「これ面白いね」と言って、隣にだれもいないと言うことに気づくとき、そんなときには自分が一人でTVを見ているということを別の視点から眺めている感じがする。

孤独とは何であろうか
孤独感とは、例え人々と一緒に居ても、気持ちがいっしょにいないことである。周りの空気に合わせていても本当に心で思っていることとはまったく違う。自分が他人に向って言っていること、自分のいる場所や何もかもに違和感を感じる、この世界が非現実的な、夢のようなものに見える、異質なものに見える。

孤独とは何であろうか
孤独感とは、他のあらゆるものを対象化させて、突き放して見るということである。
「私とは誰かと問う私とは誰かと問う私とは誰か・・・」
上記のような無限の問いは「私」なるものを無限に対象化する。このような堂々めぐりに陥るとき、本質的には自分はたった一人しかいないと感じる。
誠実に哲学するものは孤独からは逃れ得ないのである。

2010年11月30日火曜日

探し物2

「探し物」と書こうとして
「探す」と入力してから、おっと間違い、一字消して「しもの」と入力
変換すると「死もの」と出てきた

「・・・・・!」

探死者・・・・。



君は何かお探しかな?

探し物

図書館で探しているものが見つからない
彼はまるで自分を捜しているようだった
おどおどしているような
何か抜けているような
話しかけても聞いているけど聞いていないような

「あいつに会ったけど、何か探しておどおどしていたな。」
そして、あいつとは私だった。
2009年冬

不吉なカラス―ある日の夢―

始め3人いた。わたしと2人の友達。私たちは講義を受けるために、急いでいる。時間がない。裏側へ行き、そこで3階に上がるのだが、あるはずの場所にエレベータがない。階段もない。私たちはうろつく。ある部屋に入ると、そこは研究所だった。科学か或いは家庭科のような匂いがする。白いカーテンが下がっていた。ここにあるのではないかと、その中をうろつく。白いカーテンに人影が見えた。1人の老人の姿が見え、彼は言う「やっと来たか」彼は紙を取り出し、私たちに名前を聞く、どうやら研究員か何かと間違えているらしい。私たちは、訂正し、どうしたら上にあがれるのかと聞いた。その人は顔が皺くちゃで背が低く、よく見ると、老婆だった。いつの間にか私の二人の友人は老婆の肩をもんでおり、彼女はその二人を上へ連れて行った。友人はなんと老婆を担いで上がって行った。しばらく待つと、老婆が下りてきて、今度は私が彼女の肩をもんだ。しばらくして、外から雨の音がするので、私は洗濯物を取り込もうと、ベランダへ寄った。見ると、洗濯物にカラスが留まっていた。私は戸を開けると近くに会った棒でカラスをつついた。洗濯物が汚れている。カラスは去ろうとしない。一羽見慣れない鳥が留まり、その横の洗濯物には2羽留まってベランダは糞尿でとても汚い。わたしはそれを見て、寒気がした。不吉だ。

2010年11月29日月曜日

孤独の穴



心のなかに穴が空いている
大きくて深くてまっくらな穴
わたしの気という気を全て吸い込んでしまう穴
船酔いしているような悪い気分
悲しくてたまらないのに涙が出ない
わたしは恋に破れたわけではない
お金に困っているわけではない
身体に障害があるわけでもない
人間関係に何か悩みがあるわけでもない
友達が、仲間がいないわけでもない
いまもさきも過去も明るいはずなのに
なぜかわたしの心は暗いしかなしい
ああ、孤独
なぜこんなに孤独を感じるのか
外はこんなにも晴れているのに
鳥は歌い人々は楽しそうにしているのに
わたしはなじめない
わたしは世界のなかにいるはずなのに
わたしは世界から切り離されている
2010年3月3週間目Dusseldorfにて


孤独の矛盾
穴がぽっかりあいているのに、その穴が閉ざされているのはなぜ?
熱さが渦巻いているのに、とても寒いのはなぜ?
空虚なはずなのに、何かがいっぱいいっぱい詰まっているのはなぜ?
外は晴れているのに、私の内はじとじと雨が降っているのはなぜ?
中身は空っぽなのに、非常に重たいのはなぜ?

安部火韻

2010年11月27日土曜日

実在妖精報告。

昨日、その子を見た。その子は地面をうろつきまわって、たまに何度か羽をばたばたさせていたけど、飛べないみたいだった。その子はたった一人でよたよたとあるきまわっていたが、そこはアスファルトの道の真ん中だったので危ない。僕はその子を隅のほうへ追い立てた。そのとき、大きな声で怒鳴られた。上を見ると親がいた。その両親は僕に向かって威嚇し、その子に構うなと警告を立てた。僕は安堵した。「ちゃんと両親が見守っていたんだ。」僕はカメラもスケッチブックも時間もなかったのでノートを取り出すと時間の許す限りスケッチした。両親はまだ僕に向かって威嚇する。その子はよたよた歩きだしたり、立ち止まってじっとしたりしている。でも何かがおかしい、親と体格が違う。何だか不格好だ。よく見ると羽はあるのだが、尾羽が見当たらない。尾羽がないから飛べないのだろうか。それとも隠れていて見えないだけなのだろうか。巣から落ちてしまったのだろうか。そしてその時になんらかの傷を負ってしまったのだろうか。その不格好な幼いカラスはいつ飛ぶのだろうか。
そして、僕らはいつ飛び立てるのだろうか。2010.6月

2010年11月24日水曜日

講演の教訓

ある講演会を聴いて得たこと
教訓1、時間内に収めよ。時間をオーバーする人は内容をしっかりと理解していないから、短くできないのである。
教訓2、自分でもわけが分からないところは引用しない。
教訓3、少なくとも論点をしぼって見つけ、掘り下げるべきである。でなければ、ただの情報整理とその説明に終わってしまう。
教訓4、以上のような教訓は反面教師によって得られる。優秀な反面教師を探せ!

2010年11月10日水曜日

私の無意識探究1

僕が人々を恐れるのにはどんな意味があるのだろうか?
人々の作る世界から疎外されているという孤独感→奴との関連 ?
僕が奴を避けるのはなぜだろうか?
気持ち悪いというのは直接的な原因ではない
精神的に傷つけられたことか?
どうして奴の発言や行動が私の心を傷つけたのだろうか?
劣等感?奴の軽蔑したような目。
私が奴より劣っているということになぜ固執しているのか
本当に劣等感なのだろうか?元々奴に対する劣等感だってあったはずであるのにそのころはなぜうまくいったのか?
いらっとくる瞬間「ちょっとくらい多めに見ろよ、すぐに感情的になりすぎ」エゴイズムそしてエゴイストであることの開き直り。

静的な感覚を求めて

どこへ逃げても不安からは逃げられない
誰もいないという感覚がきえない
一人になりたいのだ
夜の街なのに何かが騒がしい
夜の街なのに誰かがいない
星も少なくなったものだ
昔は天上にあったのに、今は皆地上にある
一人になりたいのだ
静かなる一瞬を感じたい
全てがキリコの絵のように
無機物的に
死的というものはそういう味わいをもっている
(2008年)

2010年11月3日水曜日

判断

机に触って冷たさを感じるとき、「冷たさ」は手(自分)の方にあるのか、それとも机の方にあるのか?

私は机冷たいと感じ、彼は暖かいと感じるから冷たいのは私の方にあるというのは妥当か?

机にはなんらかの温度があってそれを私や彼が判断しているのだから、やはり温度という意味では冷たさは机の方にあるのではないか?

絵を見て面白いと感じるのは私だが面白いのは絵であって、私ではない。それとも面白いのは私であって絵が面白いのではないのか?

絵を見て面白いと感じるのは私だが面白がらせるのは絵であるのか?やはり面白いのは絵なのか?単に判断主体と被判断対象との違いか?

私は絵を面白いと感じたのか、それとも面白いとみなしただけなのか?

判断されるには少なくとも何らかの判断対象がなくてはならない。

言葉で表されうる「冷たさ」は私にあって個別の「その冷たさ」は机の方にあるのかもしれない。

その個別の「その冷たさ」でさえも私の方にあるのだろうか。

2010年10月30日土曜日

さみしさ

夜の都会、栄、

人がたくさんいる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・さみしさを感じる

楽しそうにしているグループがたむろっている・・・・・・・・・・・・・さみしさを感じる

楽しそうにカップルが通り過ぎる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・さみしさを感じる

無言で黙ったまま疲れたような顔で歩いている人がいる・・・・・さみしさを感じる

誰かを待ち続けている人がいる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・さみしさを感じる

急いでいる人がいる・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・さみしさを感じる

酔っぱらいがふらついている・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・さみしさを感じる

何かに取りつかれたように電柱をじっと見つめている人がいる
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・さみしさを感じる

歌を大声で張り上げて歌っている人がいる

ギターを弾いている人がいる

通り過ぎる人がいる

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・さみしさを感じる

待ち続けていた人が待っていた人にようやく出会えたようだ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・でもやっぱりさみしさを感じる

なぜさみしいのだろうか?

自分には親友がいないから?

自分には自分を分かってくれる人がいないから?

自分には恋人がいないから?

自分には助けてくれる人がいないから?

違う!!例え、恋人や親友がいなかったとしても、それが理由ではない

100年後には自分は死んでいるかもしれないから?

100年後にはすべて無くなってしまうから?

何億年か後には本当に地球ごとすべて無くなってしまうから?

違う!例えそうであっても、それが理由ではない。

ではなぜ?・・・・・・・・・・・・・・・・・・

都会全体がさみしさを叫んでいる

それが聞こえてくるのだ

僕の心の奥の方にそれが響いてくるのだ

でも実際は
たぶんただお腹が減っているだけなのさ
だって昼食も食べていないもの

2010年9月14日火曜日

ヒーローの在り方(ヒーローズを観て)

スパイダーマンは「大いなる力には大いなる責任が」という言葉に代表されるように友情や愛情や家族愛などの個人的な感情と正義との葛藤を描いている。
一方で最近見た「ヒーローズ(アメリカのテレビドラマシリーズ)」のヒーロー達は全く自分勝手だ。自分の個人的個別的感情や野望から動いている。ただし、善と悪の違いは悪は「一番になりたい」というエゴに基づき、善は「家族を守りたい」という家族愛に基づいている。その点からみれば、家族愛とエゴとの対立であるとも見られるが、ヒーローは家族愛よりも正義を優先しなければならないのではないのか?
その点で唯一ヒロだけがその正義の自覚をもっているように思われる。
ところでアメリカ映画は家族愛に基づくものが多い。恋愛映画でさえ、最後には家族愛につながってしまうようである。個人主義であるだけに、重要なのだろうか。日本ではその逆である。ただし、日本の方が家族愛を描くのがうまい。

無の存在

もし私が失踪したら・・
死んでいるのか生きているのかよく分からないという不安
死んでいるのか生きているのかを誰にも知られずにいなくなってしまうのは恐ろしい
失踪・・・。

恐怖小説を読んだ後にその絵を描く。
それも描くものは見ないで描く。
自分の背後に見えるはずのものを描く。
そこに何かが存在していると言う感じを描く。
その際、音楽は要らない。
気がまぎれるものは何も要らない。
得体のしれない何かを見つめ続ける恐怖。
得体のしれない何かから逃げない強さ。
死と闘う恐怖。
死を見つめ続ける恐怖。
恐れず立ち向かう恐怖。
静寂と闘う恐怖。
静寂の中に浸る。だが、緊張は解けるような状態ではない。
感覚を研ぎ澄まし、あらゆるものをその存在に結び付ける創造力。
そう、それはもともと存在しなかったかもしれないが、知覚することによって存在するのだ。
絵にかくことによって存在してしまうのだ。
描かなければよかったと思える絵を描こう。
背筋のぞくぞく感や違和感のある気分。
何かの存在を知覚すると言う感じ。
最初から孤独なはずがそれがいることでより孤独に。
圧迫感。
意識。
無意識。
感覚を研ぎ澄まそう。
見えないところに何かがいると言う感覚。
例えば、この机の下に・・・!
現れるまで、現れるまで、そこに居つづける何か。
音楽つけたら消せなくなってしまうじゃないか。
消したらいろんなものが聞こえそうで。
はっとした気配。それに気づいて振り向いてしまう。
振り向く前に隠れてしまうのに・・。
誰かに見られているという感じ。
ストーカー。わたしを気にする者。わたしを愛する者。わたしにとっては愛されたくないもの。
私に偶然ばったり会った時のMのあの驚いた表情。あれはやはり、僕に対して何か得体のしれないものに出くわした時のような感じがしたのかもしれない。
無いところに存在を感じる

蛇にピアス ―神はサディスト―

「俺は神の子かもしれない」
 無表情で、シュールギャグをかますシバさん。
「カミノコ?何かノコギリみたい」
「人間に命を与えるなんて、神は絶対サディストだ」
「マリア様はMだった?」
もちろん、シバさんは呟いてまたラックに向き直った。
金原ひとみ『蛇にピアス』p47

アマがアマデウスでシバさんが神の子なら私はただの一般人で構わない。ただ、とにかく陽の光の届かない、アンダーグラウンドの住人でいたい。子供の笑い声や愛のセレナーデが届かない場所はないのだろうか。
(中略)
私はアマの寝顔を眺めながらビールを飲んだ。私がシバさんとセックスした事を知ったらアマはあの薄汚い男にしたように、私をたこ殴りにするだろうか。どちらかと言えば、私はアマデウスより神の子に殺されたい。でもきっと、神の子は人を殺さない。p49

大丈夫、大丈夫だってば……。私は自分に言い聞かせた。舌ピをした。刺青が完成して、スプリットタンが完成したら、私はその時何を思うだろう。普通に生活していれば、恐らく一生変わらないはずの物を、自ら進んで変えるという事。それは神に背いているとも、自我を信じているともとれる。私はずっと何も持たず何も気にせず何も咎めずに生きてきた。きっと私の未来にも、刺青にも、スプリットタンにも、意味なんてない。p80

全体の印象として主人公の女性であるルイが同棲しているスプリットタンの男アマに対して抱いている感情がだんだん観念的になっていき、アマの友人でルイのセフレであるシバに対する感情の方がリアルな気がする。ルイのアマに対しての感情はアンダーグラウンドな世界への憧れから、アマは自分の物という意識への変移かもしれないと思わせられる。もしそうなら、この話は彼女がアマへの不安定な感情を捨てて現実へ戻ろうとする話として読み解く事が出来る。

聖書で読み解くなら、この話はエデンの園から追放され、アンダーグラウンドの世界へといざなわれるという話にも解釈できる。蛇の舌をしたアマは蛇であり、シバは神の子であるアダムであり、ルイはもちろんイブである。アマがルイを誘惑し、シバに会わせ、ルイはシバを誘惑するのである。

「蛇にピアス」 ―所有―

 龍と麒麟は最後のかさぶたを作り、それも完全にはがれ、完璧に私の物となった。所有、というのはいい言葉だ。欲の多い私はすぐに物を所有したがる。でも所有と言うのは悲しい。手に入れるという事は、自分の物であるということが当たり前になるという事。手に入れる前の興奮や欲求はもうそこにはない。欲しくて欲しくて仕方なかった服やバッグも、買ってしまえば自分の物で、すぐにコレクションの一つに成り下がり、二、三度使って終わり、なんて事も珍しくない。結婚なんてのも、一人の人間を所有するという事になるのだろうか。事実、結婚しなくても長い事付き合っていると男は横暴になる。釣った魚に餌はやらない、って事だろうか。でも餌がなくなったら魚には死ぬか逃げるかの二択しかない。所有ってのは、案外厄介なものだ。でもやっぱり人は人間も所有したがる。全ての人間は皆MとSの要素を兼ね備えているんだろう。私の背中を舞う龍と麒麟は、もう私から離れることはない。お互い決して裏切られる事はないし、裏切る事も出来ないという関係。鏡に映して彼等の目のない顔を見ていると、安心する。こいつらは、目がないから飛んでいく事すら出来ない。金原ひとみ「蛇にピアス」p82

私は欠けた歯をかみ砕いて飲み込んだ。私の血肉になれ。何もかも私になればいい。何もかもが私に溶ければいい。アマだって、私に溶ければ良かったのに。私の中に入って私のことを愛せば良かったのに。そしたら、私はこんなに孤独を味わう事はなかったのに。私の事を大事だって言ったのに。何でアマは私を一人にするの。どうして。どーして。p101

私はリビングでビールを飲んで、あのアマがくれた愛の証を、また眺めた。私は物置になっている玄関脇の棚をあさってトンカチを手に取った。二本の歯をビニールとタオルにくるみ、トンカチで砕いた。ボス、ボス、という鈍い音が胸を震わせた。粉々になると、私はそれを口にふくんで、ビールで飲み干した。それはビールの味がした。アマの愛の証は、私の身体に溶け込み、私になった。p120

所有の究極の形である「私になった」とは自分の手で消してしまうこと。そして、それと同時にそれがほしいという感情が薄れていくのが常である。この作品を「所有する」と言うものさしで読むのもおもしろい。

2010年6月20日日曜日

掃除

深夜コンビニのバイトで掃除をしていてふと思った。
確かあれは母親がしてくれた話だっけ、
在るところに5人の兄弟がいて、彼らは皆、立派なお坊さんを目指して仏門に入った。上の4人はバリバリ勉強して立派なお坊さんになったが、末っ子はできが悪く怠け者で、周りからもあきられていた。師は言った。「おまえはしかたがないから毎日掃除でもしていなさい。ただし、床を磨くときは心を磨くつもりで、磨きなさい。」その末っ子は、やがて精進し、立派なお坊さんになったという話だ。怠け者の僕もその話を思い出すと、しっかり掃除しようと思うのだった。

あるとき、僕は或る人に傷付けられた。そしてその晩はコンビニのバイトだった。

黒い吐き気

大鴉がいる
私はそれをみた
サッ・・・
突如、わけのわからない不安が襲う
教室にはたくさんの人々
生徒二人は前でプレゼンテーションをしている
しかし、私は見た
窓の外に大鴉を
 ばたり ばたり
「・・。」
私にはやらなければならないこと、やりたいことがたくさんある
しかし、それらは頭の中をぐるりぐるりとのたくりまわし
私を押し潰そうとする
ピキッという音がした
私が押し潰された瞬間だ
「無い」が生まれた瞬間だ
そして私はそれを見た
真っ黒な大鴉が
真っ黒な大鴉が
そこにとまっている
「・・・・。」
私以外は誰も気づかない
そいつは私の心の穴に
首を突っ込み
中にいる生まれたばかりのひなに
虫を与える・・ウジ虫を
心がひなの糞で埋まっていく
底が臭く腐っていく
ああ厭だ
「・・・・・・。」
だが私は黙っている
大鴉がせっせとウジ虫をひなに与えるのを
私はただそれが来るのを待つしかないのだ
闇が来るのを
闇が全てを飲み込むのを
闇が無でさえ飲み込むのを
ひながなきわめいている
ひぎやあひぎやあひぎやあひぎやあ
「・・・・・・・・・・・・・・う・・っ・・・。」

2010年6月14日月曜日

黒きコロッケの悩み

父が材料を買い母がそれを料理した
「あら失敗」真っ黒コロッケが誕生した
真っ黒コロッケはぼくに「まずそうだ」と言われる
真っ黒コロッケは「自分はまずそうなのか」と自問する
答えは見つからない。コロッケは不安でたまらない
真っ黒コロッケは妹に「捨てたほうがましだ」と言われる
真っ黒コロッケは「自分はいないほうがましなのか」と自問する
答えは見つからない。コロッケは不安でたまらない
真っ黒コロッケは弟に「おはぎみたいだ。はっはっはっは」と笑われる
真っ黒コロッケは「自分はそんなにこっけいなのか」と自問する
答えは見つからない。コロッケは不安でたまらない。
真っ黒コロッケは父にちらりと一瞥を向けられると、その後は無視される
真っ黒コロッケはいよいよ不安で死にそうになる
死にそうになりながらもやはり自分の姿を見たいと思う
父はコーヒーをいれ、コップに注ぐ
真っ黒コロッケはそらとばかりにのぞきこむ
だが何も見えない。コロッケはやはり不安で不安でたまらない
弟に写真を撮られる。コロッケはそらとばかり写真をのぞくが
ピンボケしていてよく分からない。
父が立ち上がり、コロッケを台所へ皿で運んだ。台所の少し濁った生臭い水にコロッケは自分の姿を見て思った。「なんてまずそうなんだろう。なんてこっけいなんだろう。」そして恥ずかしさのあまり「捨てられた方がましだ」と思った。思いは父に通じたらしく、父はコロッケをゴミ箱の上へ、まさに捨てられようとしたそのとき。
「それ捨てないで、食べるから」 母だった。「だって焦げてるよ。」
「外側は真っ黒でまずそうだけど中身は他のコロッケと同じでおいしいから」
コロッケは救われた。「たとえ見かけが悪くても僕の中身はおいしいんだ。」
母は包丁でコロッケを真っ二つにすると、中身をスプーンでほじくり口に入れた。
「・・まずっ!」
だが、そのときすでにコロッケの息は絶えていた。
これ、幸か不幸か
(2010、1月)

青い夜

夜になって雨がやんだ
ふと足をとめ、時をとめる
家路の途中、静かな夜
午前2時ごろ、暗い夜
だが決してまっくらではない夜

青い夜

電燈が一つ二つ三つ四つ
ずっと向こうまで並んで
その美しさにわたしは思わず時をとめた
雨がやんだ後だから
うすぼんやりと光って
あたりは霧がかかっている。

アスファルトの表面のキラキラ光る水滴
もう少し遠くで静かにチカチカ光る信号
道の向こう側のしずまりかえったマンション
こちら側の公園の微かに揺れるブランコ
人一人いない美しい夜
すべてぼくのものにしてしまいたい

そんな美しい夜
雨はやみ僕は病む
心にたまった水たまりの中に
あの人をうかべていた

雲に浮かんだあの月もぬれている

そしてぼくは墜ちつづける

穴の中に墜ちた
くらいくらい穴の中に
ひとり独り絶望の中
こんなときこそおもいっきり笑ってみよう
なにもかも わすれてしまうほど...
光がみつかるかもしれないから

穴の中に墜ちた
深い深い穴の中に
寒い寒い絶望の中
こんなときこそおもいっきり泣いてみよう
なぜ泣くのか わすれてしまうほど...
その穴が反対側に続いているかもしれないから

貴女(アナタ)の心(ナカ)に墜ちた
キラキラ輝く貴女の心に
それはまばゆい太陽の光
そんなときはおもいきって抱いてみる
でもそっと包み込むようにね
夢が醒めてしまうといけないから

そしてぼくは墜ちつづける

ねむれない ねむい よる

ねむってはいけないときには、ねむってしまうのに
ねむりたいときには、ねむれない
そんなときの 空白... 空白... 空白...
ふいに虚無が襲ってくる。わけもなく...
眠りへいざなう虚無は心地がよい
眠らせない虚無は心苦しい
何もない空虚な宇宙
それでいて、ものすごく大量につまっている宇宙
地球上のひとりひとりがそんな宇宙をかかえているのだ―
だから幸福なのだ―だから不幸なのだ―
さびしく笑って しあわせに泣く
なぜ?何に対して?
               ...なんにも

孤独であって孤独でないそういうのが人間だ
何もない空虚な宇宙
それでいて、ものすごく大量につまっている宇宙
広すぎる宇宙は狭すぎたんだ
大宇宙のひとつひとつが また、そんな宇宙をかかえているのだ
ぼくには重すぎる

眠りへいざなう虚無は心地がよい
意識まではが虚無化していく
透明な虚無..
重すぎる宇宙は軽すぎた
もう何も感じない
ぼくの 存 在 すら...
きみの 存 在 さえ...
お・や・す・み