廣川洋一『ソクラテス以前の哲学者』p. 238
古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスのこの言葉について考えたい。
まず、将棋って古代ギリシャにあるのかな。
ヴァティカン美術館に紀元前530年ごろエクセキアスによって制作されたというギリシャの壷アンフォラに描かれた「将棋をさすアキレウスとアイアス」という作品がある。おそらく、将棋のようなものはあったらしい。
https://shibuhon.at.webry.info/201606/article_1.html
ヘラクレイトス断片52
「人生は遊ぶ小児、将棋遊びだ。王権は小児のもの。」廣川洋一訳
→将棋
「人生は戯れにサイコロ遊びをする子供。王権は子供の手にある。」
→サイコロ遊び
αἰὼν παῖς ἐστι παίζων, πεττεύων· παιδὸς ἡ βασιληίη.
→石の遊び…?
A (whole human) life-time is (nothing but) a child playing, playing checkers: the kingship belongs to a child.
→チェッカー
Time is a child playing draughts, the kingly power is a child's. (Wikipedia)
→ドラフツ
石の遊びとはどんなものなんだろう。また調べよう。
それでは、ヘラクレイトスの思想について解説していこう。
万物は火である。
火とは対立する2つのものを孕んでいる。何かAと非Aの全く逆のものの対立。
火とは、存在しつつ存在しないものであるもの。火は一瞬一瞬火の生成であり、一瞬一瞬その前の火の消滅でもある。生成しつつ消滅するもの。生成と消滅とは同じである。あるものの生成は、もうひとつのものの消滅なのだから。
→この辺りからヘーゲルの弁証法の論理学もできているっぽい。
別の言い方をすると、火とは、絶えず変化し続けるもの。川と同じだ。「人は同じ川に足を二度入れることはできない。」→パンタ・レイ(万物流転)
要するに、火とは、ミレトス派のアルケーとは違い、事物が流転する過程の実相の比喩に他ならない。
しかしながら、火とは、全体としてはひとつの「火」として調和しているもの。ロゴス(理法)によってひとつなのである。
闘いは万物の父である(万物は闘いから生まれる)
対立するもの、Aと非Aの闘いである。
同じことを今度は生命に関してこうも言う。
生命biosは竪琴の弓biosだ。
というのは、弓というのは張る力と戻る力の逆向きに働く力の対立であるが、全体としては均衡しているからだ。
それを、パリントロポス・ハルモニエー(反発的調和)と言う。
なんかライプニッツを想起させる弁神論のようなことも言っている。
人間の目線からは対立ばかり、つまり罪、不正、矛盾、苦悩、が見える。しかし、全体から見渡せる神からの視点では、そのすべての対立は存在しない。
この辺から、ニーチェはこのヘラクレイトスの思想に、何か運命愛的なものを見たっぽい。
結論。
将棋のようなものは、対局者、つまり2人の対立する者の闘いであるが、全体として見るとひとつの無目的な遊びである。
そうして、ニーチェはヘラクレイトスをこう解説した。
「ヘラクレイトスは格闘している各組と審判員とをもはや別々に切り離して考えることができなくなってきた。多数者の争いそれ自体がこの一つの正義なのだ。つまり、一者は多者である。世界はゼウスの、あるいは火の、自分自身と遊ぶ戯れである。」
「私が見たのは生成したものを罰する行為ではなしに、生成を是認する行為であった。」
存在するものは何か? 〜ヘラクレイトス、パルメニデス、そしてヘーゲル〜↓
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