吐き気吐き気吐き気ああ吐き気がするサルトルとは違う吐き気
こんなにも胸糞が悪いのはなぜだ!
俺は何に対して吐き気を催しているのか?
俺は責任に対して吐き気を催しているのだ。
責任とはやらなければならないことをやることだ。
自立・自律するためには責任がまとわりつく。
その吐き気からは他人に頼りたい他人に頼りたいという欲望が出てくる
責任自律めんどうなこと、気持ちが悪い!!
思い出した。幼いころは宿題に対してそんな気持ちをもっていたようにも思える。
他人に対しての配慮や行動が責任を伴って僕を拘束する。
ああ、胸糞が悪い
ああ、胸糞が悪い
僕は前から責任と言う言葉が嫌いだった。
責任なんて虚構だと思っていた。
違った。
責任なんて虚構だと思いたかったのだ。
気分が悪くなってくる。
だから、私はいつまでたっても現に親から自立していないのだ。
心の底では自立したいと思っていないのだ。いつまでも親に甘えていたいのだ。
痛いのだ。痛いのだ。甘えて痛いのだ。
そのくせ、親を親と思わずただの人間他人のうちの一人にしてしまいたがっていた。
自分一人の力でやろうとすることがこれほど大変とは思わなかった。
林田先生の弁論大会への協力がなければ、自分はあれだけできたのか?
憂鬱な日々が続く。
しかし、乗り越えなければ、これこそが成長なのだ。
みづからに責任を負って、やりたいことを成し遂げてやる。そのためにはどんなやらなければならないことからも逃げない心にしなければ!
くそっ!くそっ!
自分は弱いことを知っているつもりだったが自分がこんなにも弱いとは・・・!
何かに押しつぶされるような重圧、ストレス。やらなければならないこと
それが私を押し潰そうとするのだ。
涙を流したい気分だ。解決しても次のやるべきことが来るだけだが、すべてを後回しにすることは何も解決しない。ただ、ほって置けばそれで終わってしまうのだ。
助けを求めたくないと思いたいのだが、私は明らかに助けを求めている。
V.E.フランクルの「<生きる意味>を求めて」を手に取る。
神は、あなたにとって一番親しい、独り言の相手である。あなたが自分自身に向ってこれ以上ない誠実さで語りかけ、本当の孤独の中で語りかける時にはいつも、実はその相手になっている人、その人のことを神と呼ぶのだ。
この定義なら、無神論的な世界観と有神論的な世界観という二分法は意味がなくなる。無神論か有神論かという違いは後になって出てくるだけのことである。違いと言っても、無神論の人なら、独り言をまさに自分自身との対話だというだろうし、また有神論の人なら、その独り言を、誰かほかの人との本当の対話だと解釈するだけの違いである。何よりも大切なのは、これ以上ない誠実さと正直さであると私は思う。98頁
ああ・・・・・。
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