2023年1月29日日曜日

なかなか減らない積読



 本を読もう。


読書だ。


あなたは読みかけの本、途中で挫折した本がありますか?


僕も読破してませんが、それでも楽しいですよ。

読み切ってないのに楽しいとはよくわからないかもしれませんが。


読んでると、この作品は読破しなくても楽しめればそれでいいみたいな気持ちになって、味わうけれど、読み切ることはない。みたいな,感じで読みます。

カフカの「城」とかもそんな感じです。



Bookというのが「予約する」という意味があるのは、家にある時点ですでに読む予約が入っているからだったりして。

そして、何かしらhook(きっかけ)があれば、読み始める。

ただ本はlookしてるだけじゃ始まらない。Readしないと。

さながら、cookされたものはeatしないと。



『積読こそ完全な読書術である』という本がある。

『積読こそ完全な読書術である』を買って積読しておくというのはどうだろうか?w

絶対に読まないと決めてw

ここで、何があっても絶対に読まないぞと決めて、毎日、今日は読まなかったぞ!と、記録をつける。しかし、三日坊主とカリギュラ効果により、三日後から毎日読んでしまうので大丈夫です!

目標をあえて逆に禁止項目にして、「今日も禁止を破ってしまった。今日は禁止を守った」と記録をつけるというのがあるらしいです。

ある本を読破したいけど、なかなか手につかない時に、逆に読んではならないを目標にして記録をつけるという逆の発想。


2023年1月24日火曜日

言の葉


 言の葉

言の葉、言の風、言の雨

言の陽光のシャワーを浴びて

言の霊を感じとる

私の中へと吸い込まれていた言霊達は

私がもともと持っていたものと混じりあい

私の精神となって身体を巡って

フルに私の言葉となって発話され

精神の変容

そしてまた新たな言の葉が生まれていく

午後のカフェ


書の葉、書の森、書の墓場

生み出された言の葉を紙の上に書き留めるなら、

今度は書の葉として、もう一つの変容を遂げる

書は時を得る

言の風(語り草)なら、いつの間にやら、生えたり消えたり

変質するが、書は違う。

書は時を得たから、

書は読まれ解釈され媒介者としてそこに生きる。

否、死者としてそこにある。

[書は話の墓場である。

読み手は息によってそこに眠るその死者を

甦らせる。

書に宿された死者達の言霊が聴こえるか?

眠る日の出前の図書館

そして、最期には祈りのみ


想の道、想の雲、知の光

言の葉の海から私のうちで

綴られる言葉が数珠つなぎ

言の葉の海に秩序(cosmos)を与える理性.

言の葉の海に意味を与える知性

言の葉の海に図像(image)を与える想像力(imagination)

言の葉の海に深み(sense)を与える感性

言の葉の海に神鳴(Metamorphose)を与える霊感inspiration

cogito ergo sum

紡がれる言葉が自らの精神を形造る

まるで呪文のようにそれは精神に作用する

theoria, a poria, epoche

巡るめく思考は袋小路へ

ざわめく 沈黙、沈黙、沈黙

そして、最期には祈りのみ

静なる真夜中の寺院

安部火韻 (〜2016年ごろ)

2022年12月23日金曜日

パリピ文化!? ハロウィンより酷いクリスマスw

クリスマスは厳かに過ごすべき??

クリスマスとは、キリストのミサ(礼拝)を意味している。

イエス・キリストの誕生を祝う日だと。(ただし、よく誤解されるがキリストの誕生日ではない。)

そして、それゆえにクリスマスが世俗的・商業的すぎる、特に日本ではキリスト教徒でもない人がなぜクリスマスを?などと批判されたりする。

そういう人は、最近のクリスマスとは違って、本来のクリスマスはキリスト教徒が厳かに神を讃える宗教的な典礼の日なのだと思っているようだ。

だが、それは本当だろうか??

今日は次の本を読んでおもしろかったところを紹介してみようと思う。

「クリスマスの歴史 祝祭誕生の謎を解く」ジュディス・フランダーズ/伊藤はるみ 訳



キリスト教徒に敬遠されるクリスマス!?

実は驚くべきクリスマスの真実があった。

313年にキリスト教がローマ帝国でコンスタンティヌス大帝によって公認され、その後、ユリウス二世(337~332)がキリスト降誕を12月25日に祝うようにと布告が出る。

これがクリスマスの始まりとされている。

そして、記録では389年に死去したコンスタンティノポリス大司教、ナジアンゾスのグレゴリオスが生前、聖なる祝日にダンスをしたり、過度に飲食したりすることを戒めている。

これは何を意味しているのだろうか?

わざわざ戒めるということは、戒めを受けるほど、人々がダンスしたり過度に飲食して騒いでいたからなのである。

つまり、クリスマスはそれがローマ帝国で制定されてから少なくとも30年以内には、すでに暴飲暴食やダンスにふける世俗的なイベントとして楽しまれていたのである!

その後も、何度も教会はクリスマスの過度な祝宴を戒めようとするが、そのたびに人々が戒めを受けるほどクリスマスに騒いで羽目を外していたというのがわかる。

とりわけ厳しく禁止されたのは、時代は飛んで、16世紀のイギリス、ちょうど清教徒革命の前後のことだった。イングランドやスコットランドの厳格なキリスト教徒、プロテスタントの清教徒(ピューリタン)たちはクリスマスを祝うことを禁止しようとしたのである。

彼らがクリスマスを非難する理由は、

ひとつは人々のクリスマスの祝い方が度が過ぎるし、

もう一つはやはりイエス誕生がクリスマスであることについて聖書にはどこにも記述がないからだ。

それから、クリスマスはカトリックのでっちあげた迷信の行事、元は異教ユールの日だという見方をしていたからとか、

クリスマスは聖人を記念する祝日だが、プロテスタントは聖人を人と神との仲立ちをする役割として認めていないといった理由もある。


16世紀のスコットランドでは、「クリスマスソングを歌うこと、サッカーをすること、仮面劇や無言劇をすること、歌ったり踊ったりすることはすべて不敬だとして禁止された。とはいえ、それらを禁ずる布告がたびたび出されているということは禁を破る者が多かったということだろう。」47頁

実際、1561年、スコットランドの清教徒、長老派教会はクリスマスのすべての行事を禁止し、多くの人がクリスマスを祝った罪で有罪となり、破門されたりしているケースまで存在する。


隣のイングランドの清教徒たちは少数派だったのでクリスマスを非難はするが禁止することまではできなかったが、その多くがアメリカに移住するので、そこで初期のころはクリスマスを禁止しようとしていた。

初期から清教徒が多く入植していたアメリカのマサチューセッツでは、1654年、マサチューセッツ湾植民地裁判所が、クリスマスに仕事を休んでお祭り騒ぎをした者、あるいはどんな方法であれその日を祝った者には5シリングの罰金を科すと定めた。(ただし、実際に罰金を払った例はなかったらしいので、体裁だけだったらしい。)

「清教徒の牧師インクリーズ・マザーは「いわゆるクリスマスというものは、飲酒と賭け事と狂気じみた馬鹿騒ぎのことだ」と教会に集った人々に語り、「飲酒」という言葉を念入りに繰り返した。」74頁

このようにクリスマスに眉を顰めるキリスト教徒も多くいたのである。

続いて、実際にクリスマスにはどのようなパリピたちがいたのかを見ていこうと思う。

2022年12月14日水曜日

外国語学部に行く意味はあるか?

たとえば、

既にスペイン語がネイティブレベルなのに、外国語学部でスペイン語学科に行くのは意味がありますでしょうか?




それは、その意味が何かによると思われます。


例を挙げるとわかるかもしれない。

勉強しなくても、首席で卒業できるという意味とか?

周りの学生や先輩に在学中マウント取りつづけられるという意味とか?

大学によっては飛び級できる。

すでにスペイン語ができるので、スペイン語学習のいくつか授業をとらずに文法など弱いところだけ究め、ゼミでスペイン語を第二言語習得論として、速攻で取り掛かり、ハイレベルのスペイン語の卒論が書ける。


文法というか、スペイン語教師として必要な科目を取ったらかなり意味はありそう。

日本人も日本語はかなりできていても、日本語教師としての科目を勉強しなければ、日本語を外国人に教えることが難しいように。


どういう意味を求めているのか??


狙いは、スペイン語がうまくなりたい女子大生かもしれないしw

外国語学部に入った理由がそれの男性はまあ正直いると思うw


逆に、それ以外の人にとっては本当に意味があるのだろうか?


大学に学びにきてる人少ないから、ほとんどの人は大学そのものがあんまり意味がないように思われる。

大学でスペイン語を専門的に学んでそれを社会で活かす人もかなり少ない。


そういうわけで、

ある意味、意味はあるし、ある意味、意味はないw


ここから、個人的な話をしますが、

2022年12月13日火曜日

ニーチェの深淵と怪物、そして私

 “Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, daß er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.”


「怪物と戦う者は、その際自分が怪物にならぬように気をつけるがいい。 長い間、深淵をのぞきこんでいると、深淵もまた、君をのぞきこむ。」『善悪の彼岸』ニーチェ





ニーチェのこの言葉は、どこかアニメやラノベで使われたのか、なぜか知られている。


この言葉について考えてみようと思う。

これはニーチェ自身の自戒の言葉かもしれないと思う。

ニーチェは既存の道徳がルサンチマン(復讐心)に塗れているものだと指摘した。

しかし、既存道徳の怪物と闘い、糾弾し非難するニーチェ自身がルサンチマンに塗れた怪物だったのだ。

そうならぬよう注意せよということなのだろう。

何かと対立する時には、大抵、自分自身がその何かなのである。


「仏に会っては仏を殺せ」

「では、この中で仏に会ったことあるやつはいるのか?街に出れば仏には会わない。自分自身に出会う。そしたら、自分を殺せ。」岡本太郎


では後半の文章のみに注目するとどうだろう?

2022年11月30日水曜日

表現の自由と政治性 〜コピによる「エビータ」の日本初公演より〜





 エリザベス女王 の死、安倍晋三 の死、

権力者、権威者の死に際してあなたは何を思うのか??


そして、権力者は何を残すのか?

壮麗な 国葬 を行うのか、銅像やモニュメントを残すのか、大きなピラミッドを建てさせるのか?あるいは??


いずれにせよ権力者が残そうとする永続的な権威。




アルゼンチン🇦🇷で、多くの人々に愛された大統領夫人エヴァ・ペロン、愛称 エビータ。

彼女は死後、その遺体を防腐剤処理(エンバーミング)され、棺に入ったまま永遠にその姿を残す。


エビータになりたいという密かな望みを持つ女や、エビータの背後にある金を狙う女。

象徴としてのエビータはいつでもどこでも群衆が見上げた空の彼方に偏在しているのだ!


神は死んだ。しかし、人々は神を求めている。

だからこそ、権力者は容易に神になれてしまう時代。

彼女は、神、あるいは女神なのか、それとも??!


日本で上演されたことのないアルゼンチン🇦🇷の戯曲家コピの言葉を今まさにこの時代だからこそ俳優の身体に再生させる!


「エヴァ・ペロン、もしくはエビータの棺」

乞うご期待






2022年11月12日土曜日

理性から出てくるカントの道徳論、解説

 ドイツの大哲学者イマヌエル・カント。

彼の道徳論は定言命法「汝の意志の格律が常に同時に普遍的立法に妥当するよう行為せよ」というもので有名ですが、批判ばかりで、その内実を理解している人は少ないように思います。

そこで、わたしが読み解いたカントの道徳論を解説してみたいと思います。


彼の道徳論は認識論である「純粋理性批判」から地続きになっている。


まず因果関係の系列の話がある。

あらゆる科学的な言説が前提としている「すべてのものにはなんらかの原因(あるいは根拠)がある。」というものがある。

「量子力学において、不確定性原理が働いており、すべては確率的に決定されるので、ラプラスの悪魔のような想定は正しくない」ということが真だとして、しかし、それがなんの原因も(あるいは根拠も)なしにということはあり得ない。


それは

「〇〇ならば✖︎✖︎である」というような概念(今風に言えば言語だが)、それは我々の悟性が持っている純粋悟性概念の仮言的判断によってなされている。


そうして、あらゆる現象にこの仮言的判断を適応すれば、すべては原因結果(または根拠と結論)の系列として扱われうるからなのだ。


そして、そこには善も悪もない。単にさまざまなことが生起しているだけである。

ある人が誰かを刺したとしても、そこにはさまざまな要因(社会的要因や親からの影響やその相手の反応などなど)が絡んで、刺したのだとすれば、その人には責任はない。すべては、彼によって刺されたのではなく、外的要因によって、彼が刺すように強要されたような形で理解されるのだから。

我々はそのような悪事を見たときでも仮言的判断を行い、なぜそのような犯罪が起きたのかという原因を探る。


しかし、人間は因果関係の系列から自由でありうるという可能性を秘めている。だから、彼自身の責任でもある。

と、カントはそう考えている。と、私は考えている。


人間は、自分にとって殺したいくらい大嫌いな男が溺れているのを見た時、助けたくないという気持ちもあるかもしれないが、助けなくては!!という気持ちもいくらかは起きてしまう。

そのとき、助けないのが自然界での普通であり、自然であるにも関わらず、どうしてそんな気持ちが起こったのか?(もちろん今では動物行動学において、動物は仲間を助けようとすることも認められてはいるが)

そんなとき、それは人間が自然界の法則を離れて自由になれる可能性を秘めているからだ。

とカントは思ったのかもしれない。


そこでまずは「〇〇ならば✖︎✖︎だろう」という仮言的判断ではなく、(「〇〇ならば✖︎✖︎せよ」という仮言的命法でもなく)、「無条件に(無制約に/無制限に)〇〇せよ」という定言的命法を提唱する。

仮言的判断だと、最終的にすべては因果関係の系列に還元されていってしまうからだ。しかし、無条件に「○○せよ」という定言命法は違う。「(いつであれ、どこであれ!例外なしに)○○せよ」ということであれば、あらゆる仮言的なものから、離れているからだ。


また、そのためにマクシム「格律」というものを置く。これは自分で作った自分自身のための法律、あるいは、座右の銘みたいなもので、「わたしはいついかなるときも例外なく○○することにしている」というものだ。人間は弱くすぐに外的要因によって自分で立てた格律を守ることはできなくなってしまう。しかし、これを外的要因とは全く無関係に守ることによって、その人間の人格というものは形成される。

具体的には「嘘はつくな」「生命を大切にせよ」とかそういう感じのものだ。


これによって、なんらかの行為を行うとき、動機が外的要因などから無関係であって、自分自身の意志で立てた格律に基づいているということが少なくとも可能性として担保される。


では、続いてそもそも自分の立てた道徳法則という格律は本当に正しいものかという疑問がある。

格律そのものもまた外的要因に縛られずに規定しなくてはならない。

そこでその格律がいつでもどこでも例外なく妥当するものかどうかを判断しなくてはならならない。これが普遍的立法と言われる。


ちなみに、無制約なものを規定して法則を立てようとするのはそもそも理性の能力とされている。

行為の動機も理性のみに基づき、道徳法則の立法も理性のみに基づき、最後に道徳の目的も理性のみに基づくことが必然とされる。

なぜなら、仮言的なものから無制約でいられるためには、そうしたものから無関係でなくてはならず。それができるのは普遍性を備えているものしかないからだ。


最後にその道徳の達成によってなされる目的は、それ自身、それはつまり、理性自身であって、理性的な存在者そのものだとされる。つまり、人間の尊厳が目的とされるのだ。

これはアリストテレスから来ている。理性が理性そのものを目的として働く。そうすれば、人間は完全に仮言的なものから自由になれるのだ。


とはいえ、現実には難しい。カントもそう考えていた。

ほとんどいつも、なんらかの外的な要因に動かされて人間は行為してしまうものだ。

しかし、それとは違った行為を行える可能性を人間は想定できる。カントはそれをもって、人間には責任があると考えた。

人間もほとんど動物だが、動物とは「(いつもいかなるときでも例外なしに、つまり、どんな外的要因があっても)○○せよ」を守ろうというふうには行為しない。そして、その意味では責任は問われない。理性を持った人間だけが責任を問われうるのである。


カントの道徳論は、動物の理解について誤っているし、人間中心的であり、理性信者であり、善悪については説明がなされていないなど言われるが、ここまで読み解けば、その思考を学ぶ価値はあるようにわたしは思う。