2022年11月30日水曜日

表現の自由と政治性 〜コピによる「エビータ」の日本初公演より〜





 エリザベス女王 の死、安倍晋三 の死、

権力者、権威者の死に際してあなたは何を思うのか??


そして、権力者は何を残すのか?

壮麗な 国葬 を行うのか、銅像やモニュメントを残すのか、大きなピラミッドを建てさせるのか?あるいは??


いずれにせよ権力者が残そうとする永続的な権威。




アルゼンチン🇦🇷で、多くの人々に愛された大統領夫人エヴァ・ペロン、愛称 エビータ。

彼女は死後、その遺体を防腐剤処理(エンバーミング)され、棺に入ったまま永遠にその姿を残す。


エビータになりたいという密かな望みを持つ女や、エビータの背後にある金を狙う女。

象徴としてのエビータはいつでもどこでも群衆が見上げた空の彼方に偏在しているのだ!


神は死んだ。しかし、人々は神を求めている。

だからこそ、権力者は容易に神になれてしまう時代。

彼女は、神、あるいは女神なのか、それとも??!


日本で上演されたことのないアルゼンチン🇦🇷の戯曲家コピの言葉を今まさにこの時代だからこそ俳優の身体に再生させる!


「エヴァ・ペロン、もしくはエビータの棺」

乞うご期待






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今回、日本で初めて紹介され、上演された「エヴァ・ペロン、もしくはエビータの棺」、無事終演いたしました。


この朗読劇では、アルゼンチン出身の戯曲家コピの脚本を日本で初めて西村和泉先生が翻訳し、榊原忠美、深澤伸友が演出しました。

しかし、朗読劇ではあっても、その俳優の身体は見逃せない。いわば、台本を持った演劇でした。


今回、安部火韻は協力として参加しましたが、見てさらにアフタートークを聞いて感じた不思議や疑問、意見などを記録しておきます。


・なぜエビータという女性の役を男性が演じたのか?

私には次のように見えました。まずは男性が演じることで権力的で暴力的な面が見えると言うこと。


実際、今回の公演のパンフレットを見ると、コピはインタビューで次のように答えています。

「エヴァ・ペロンはマリリン・モンローとスターリンをミックスしたような人と言えるでしょう。」「エバを男性に演じてもらうことは企画段階から決まっていました。…『ブエノスアイレスの街にそびえ立つ歴史的建造物の上で死んでいくエバを演じる男性』…にはキングコングの次元があるのです。」


もうひとつは、これは私だけかもしれないが、女性を男性が演じていることの違和感から「これは芝居である」ということを何度か意識させられた。特に「もうお芝居は終わりよ」というセリフもあり、演出意図とは関係ないのだが、私はどうしてもメタ芝居的なものを感じてしまうのだ。


三文オペラで有名な戯曲家ブレヒトの「異化効果」を知っているだろうか?


通常、舞台やドラマを見ると人は主人公や登場人物に感情移入することで同化するが、それをあえて俳優の演じる役に同化(感情移入)させないように演じることを異化効果という。


それに近いものを感じた。何度もこれが舞台であることを改めて思わされる。そのことで、よりこの舞台による政治的批判は感じられた。

実は台本やセリフからはあまり感じられないため、私の知識がそうさせるかもしれないのだが、誰もがエビータを知っているアルゼンチンの人が見ればそう感じざるを得ないのではないだろうか??


そして、まさにそこが俳優の身体を通して表現されるものと、書かれた台本を黙読することの違いの強調なのではないだろうか?


特にそのシーンでは大統領婦人専属のナースが無理矢理エビータの服を着せさせられエビータとして殺されるというところで、

エビータを演じる男性が、エビータになりたい女性を無理矢理にエビータにして殺したというようにも見える。

しかもエビータ自身は直接手を下さないのが政治的に感じる。


そのナースはまるで、自分が支持する権力者に虐げられる、名も名乗らない民衆を象徴しているかのようだった。


私の中では、エビータの母親は国家、エビータ(男性が演じる女性)は権力者、ナース(女性)は民衆、エビータと共謀する男イビサは軍隊をそれぞれ象徴しているかのように見えました。


・タイトルにもあり実際にも舞台道具として出現する「棺」にはどのような演出的なこだわりがあるのか?


エビータは33歳で癌で死んだのちにエンバミング(防腐処理)され、身体を剥製としてとどめたまま棺に収められる。


そうして、その棺はペロン大統領が大統領を辞め、亡命するとき、棺も一緒に連れていかれる。飛行機でいろんな国に運ばれるのである。


最初、演出家の深澤氏はこの印象的な出来事を表現するため、棺を舞台上で吊るし、空を飛ばし、民衆がそれを崇め追いかけるように見せたかったと話している。また、タイトルも最初は「エヴァ・ペロン、もしくはエビータの空飛ぶ棺」という題で考えていたそうだ。

そこに深澤氏が棺に拘る理由がある。


棺は、人々が崇高なものだと思って崇拝してしまう空虚なもの、アガルマなのだ。

そして、コピが明らかにしたように常にそれは空虚な嘘なのである。棺の中身はすでにもうエビータですらないのだ。


もしも、棺を舞台上の空に飛ばすことができたら、私ならスーパーマンを思い出す。

かつて、「スーパーマン対バットマン」という映画では、スーパーマンは現代に蘇る神の象徴として描かれていた。

赤や青に彩られたコスチュームの彼はアメリカ国旗にも見え、世界の警察としてのアメリカ合衆国という神にも見えただろう。




民衆が見上げる現代の神、国家。そして、曖昧な国家などというものはひとりの権力者に象徴化され、スーパーマンやエビータ、エリザベスや天皇という英雄的な象徴として、民衆に分かりやすくされ、偶像崇拝となるのが常だろう。

これは政治においては、常に念頭に置く必要がある。

カエサルの名前がそのままカイザー(帝王)へと普通名詞化したように。




・コピやエビータの祖国アルゼンチンはスペイン語が公用語なのに、なぜフランス語で書かれたのか?

サミュエル・ベケットも英語圏が生まれなのに、フランス語で書いていたが。

それを考えることはひいては日本語で上演する意味に繋がってくるようにも思える。


・この脚本はアルゼンチンで人気だった実在の大統領夫人エヴァ・ペロン(エビータ)を扱っている。そのため、内容が政治的でなかったとしてもどうしても彼女を題材に取り上げるだけで観客は政治的に捉えてしまいやすい。しかも、戯曲家コピはエビータを好意的には描いていない。


それはエビータに馴染みのない日本人で言えば、安倍晋三の死を安倍晋三の醜い面を取り上げて舞台化するようなもの。


コピが書いたこの脚本と当時のアルゼンチンはどのような状況だったのだろうか?

やはりコピは歓迎されずに炎上したのではないだろうか?


今、仮に「安倍晋三」というタイトルで舞台をやるなら、海外でせざるを得ないのではないだろうか?


それほどセンセーショナルなことなのではないだろうか??


今回の舞台に協力として関わっていた知識人の西園氏に聞いたところ、

実際、今でもこの戯曲をアルゼンチンで行うことは難しいようだ。


しかし、他の国では難しい表現でも、フランスにはそうしたものであれ、自由に表現できる土俵があるようだ。それがフランス語であることの理由の一つだろうと西園氏は言う。もちろん、コピの両親が反ペロンであったことやフランスで活躍したサミュエル・ベケットの演劇にコピが学んでいたことも考慮に入れるべきでもあるが。


とかく今の若いアーティストたちは表現の自由より人を傷つけ怒らせ炎上させてしまうことを鑑みて表現を萎縮させてしまいがちである。

せめた表現には勇気がいる。

それは場合によっては人を傷つけてしまうからだろう。


暴力的な表現は、その暴力を批判する意図で作られたものであっても、諸刃の剣になりかねない。

批判するはずのものを逆に助長してしまうのだ。ミシェル・フーコーなどはそれを見抜いていた。


あいちトリエンナーレの表現の不自由展のことを再び考えるときがきているのではないだろうか?(少なくとも、私に)

会田誠なら、そうした萎縮してしまった表現者に「檄」を飛ばすかもしれない。



芸術は常に脚本家や演出家の意図とはまた別に政治的なものなど想定外の他のものを多分に含んでしまう。
深く読み込んで、そこに映り込むのは読者自身の思考だからだ。

2023年6月このエビータが再演されます。ぜひお越しください。私も協力で舞台に関わります。
6/9 14:00〜、19:00〜
6/10 11:00〜、14:00〜
名古屋市伏見駅から8分の劇場G pitにて。





次のリンクは主演、榊原忠美さんのブログ↓

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