“Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, daß er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.”
「怪物と戦う者は、その際自分が怪物にならぬように気をつけるがいい。 長い間、深淵をのぞきこんでいると、深淵もまた、君をのぞきこむ。」『善悪の彼岸』ニーチェ
ニーチェのこの言葉は、どこかアニメやラノベで使われたのか、なぜか知られている。
この言葉について考えてみようと思う。
これはニーチェ自身の自戒の言葉かもしれないと思う。
ニーチェは既存の道徳がルサンチマン(復讐心)に塗れているものだと指摘した。
しかし、既存道徳の怪物と闘い、糾弾し非難するニーチェ自身がルサンチマンに塗れた怪物だったのだ。
そうならぬよう注意せよということなのだろう。
何かと対立する時には、大抵、自分自身がその何かなのである。
「仏に会っては仏を殺せ」
「では、この中で仏に会ったことあるやつはいるのか?街に出れば仏には会わない。自分自身に出会う。そしたら、自分を殺せ。」岡本太郎
では後半の文章のみに注目するとどうだろう?
「長い間、深淵をのぞきこんでいると、深淵もまた、君をのぞきこむ。」
同じことを今度は深淵という表現に置き換えて考えようとしている。
深淵か…
僕は、哲学を学んでいるからには何かしら深いことを知りたいと思う。
しかし、哲学者はそこで立ち止まって妙なことを問う。
「そもそも深さとはなんだろうか?」と。
「深い」とは、ある空間的な広がり、特に下に向かっての広がりの表現である。
それがなんらかの思想や言説にも比喩的に使われる。
その言説が何かしら深いと感じるとき、そこには単なる理由・根拠があるだけでない。それはより根源的である必要があるだろう。
「深い」ことの条件として、
「真であること」、
「当人にとって重大であること」、
「より根源的な理由・根拠があること」
などが挙げられるだろうか。
だがどうだろう?
深いけどつまらないことはあるか?→ない?
おそらく「深さ」には興味深さの意味が込められてしまっているからだろう。
では、深いけど偽なることはあるか?→ない
それが偽であるならば、浅いはずである。
本当か?それは深いところに真理があるはずだという思い込みかもしれない。
ならば、あると。
深いけど単純なことはあるか?→ある
単純な事柄であっても、その単純な事柄の理由・根拠は、重大であり、より根源的である。
逆に、複雑で緻密だけど浅いことはあるか?→ある
では、最も深いということは、どういうことだろうか?
「もはやこれ以上降りることのできないほど地下に、つまり、その深みの底に降り立つこと」のはずである。
だが、その最も深いところをさらに掘れば、異なる領域や正反対のものに繋がるかもしれない。
というのは、異なる領域は次元が違っている。次元が違っているのにそれを繋げるということは、永遠に到達不可能なものに架け橋をかけようとすることであり、永遠に届かない穴を掘ろうとすることであり、永遠に届かない穴はあまりに深すぎる。
従って、そうしたことを見つけたとき、我々は驚くのだろう。
…それは果たしてどんなことなのだろうか。
「怪物と戦う者は、その際自分が怪物にならぬように気をつけるがいい。 長い間、深淵をのぞきこんでいると、深淵もまた、君をのぞきこむ。」『善悪の彼岸』ニーチェ
それは深淵から覗き返された私自身かもしれない。
それは私を呼び寄せているのだろうか?
そうして、その深淵に吸い込まれ落ちてしまうとどうなるのだろうか?
もちろん、その深淵の穴の底にたどり着く。
…だが、底があればよいのだが。
深い地の底、果てのない向こう、それは底なし沼かもしれない。
地平線や水平線を求めて追いかけるようなものかもしれない。
永遠にたどり着くことがない。
うさぎの穴をいつまでもいつまでも落ち続けるアリスなのかもしれない。
たどり着くことのないはずの底にたどり着く。
それこそが深淵に見つめ返された私自身かもしれない。
そうして、いやはや、真理であるならばそれがつまらぬものだろうと求めようとするのではなく、ただ深くみえるものを求めていた私はなんと浅はかであるということに気がつくのだ。
“– Wer sich tief weiß, bemüht sich um Klarheit; wer der Menge tief scheinen möchte, bemüht sich um Dunkelheit. Denn die Menge hält alles für tief, dessen Grund sie nicht sehen kann: sie ist so furchtsam und geht so ungern ins Wasser.”
「深く知る者は、明瞭であろうとするものだが、大衆に深く見られたい者は、闇に撒こうとするものだ。
というのも、大衆には底が見えないものは全て深く見えるからだ。彼らはとても臆病で、水の中へ入るのを酷く嫌がる。」ニーチェ、拙訳
もう一度問おう。
深いけど偽なることはあるか?
→ない
それが偽であるならば、浅いはずである。
確かに、それは深いところに真理があるはずだという思い込みだろと言われるかもしれない。
だが、深いところで「あることが偽である」と気がついたとして、そのときには、「あることが偽であった」という真理に到達したのである。
そしてまた、ある深いと思っていた命題が偽であると判明したならば、それはもう深いとは感じないのではないだろうか?
そのとき自分が浅はかだったことに気がつくからだ。
したがって、いずれにせよ、根底では真理が露わになる。
そういえば、哲学者ハイデガーによれば、アレーティア(ギリシャ語で真理を意味する)とは、語源的には、隠れたものを露わにするということが含まれているという。
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