2024年12月4日水曜日

Unbound 〜箱天使はなぜ転落するのか?〜

断片0

布や糸、繊維によって作品が作られる展示「糸布=if展」。

イフと読む。

ならば、これは仮定(=if)だが、「畏怖」も含意しているとしたらどうだろうか?ー


断片1 

布とはなんだろうか?

布にも心があるだろうか?

「心」の「布」と書いて「怖」という漢字ができる。

ならばあるいは、人は、心の布から逃れて、一糸まとわぬ姿で自由を求めているのかもしれない。


断片2

天使が堕ちると堕天使、すなわち悪魔になるらしい。

が、天地をひっくり返したら、どうなるだろうか?

“The devil’s don’t come from hell, beneath us. No…They come from the sky.” Lex Luther

「悪魔たちは我々の下、つまり地獄からはやってこない。それは違う。空からやってくるのだ。」


断片3

「ところで、何を書きかけていたのだっけ。最後の書きかけは、たぶん「浮」の字の左半分だ。「箱男は浮浪者とは違う」とでも書くつもりだったのだろう。もっとも世間の方では箱男が思っているほど、はっきり区別をつけてはいないようだ。たしかに共通点も少なくはない。たとえば身分証明書を持たないこと、職業に就かないこと、一定の住所を持たず、名前や年齢……」

「それはそうだろう。存在しないも同様の箱男なのだから、いくら殺したって、殺したことにはならないのだ」『箱男』


断片4

天国と地獄

悪魔にとっては天国は神に支配される地獄で、地獄は自分たち自身よって統べる天国、なのかもしれない。悪魔たちを生き生きと描くミルトンの「失楽園」はそれを思わせる。


断片5

こうもり傘はどこまでこうもりに似ているだろうか。


断片6

背後に隠れたあの赤い帽子の意味に気がつくだろうか?


断片7

unbound. 解放

古代ギリシャ悲劇詩人アイスキュロスによるプロメテウス三部作

火を運ぶプロメテウス

縛られたプロメテウス

そして、„Prometheus unbound“「解放されたプロメテウス」

転落なのか、解放なのか、転落こそが解放なのか。


断片8

箱は、創造の種かもしれない。

箱は、記憶を入れておくものかもしれない。忘れられた箱はその口を閉じられてしまう。

箱は、自分だけの小宇宙かもしれない。

箱は、誰かからのお届けものかもしれない。

箱は、秘密を詰めておくものなのかもしれない。

箱は、中身を想像させる物体…

あなたは、これらの箱に何が詰められていると思うだろうか?


映画と悪影響(メモ)

 ジョーカーと事件

ちょっとした系譜がありますね。


1962小説「時計仕掛けのオレンジ」(バージェス)


1971 映画「時計仕掛けのオレンジ」(キューブリック監督)


1971 大統領候補のアラバマ州知事暗殺未遂事件

(事件を起こしたアーサーブレマーは時計仕掛けのオレンジに影響されたと日記に書いている。)


1976 映画「タクシードライバー」(アーサーブレマーの日記に着想を得て作られた映画)


1981 レーガン大統領暗殺未遂事件(タクシードライバーに影響を受けたヒンクリーがタクシードライバーのヒロインのストーカーをした後に、レーガン大統領暗殺未遂事件起こす。)


2019 映画「ジョーカー」(スコセッシとデニーロの映画タクシードライバーとキングオブコメディに多大な影響を受けて作られた映画)


2021 日本では、京王線刺傷事件が起きたが。アメリカはどうか??


ダークナイト三部作は事件につながってますね。


ジョーカーに影響を受けた事件のなかでも特に有名なのが、「オーロラ銃乱射事件」。犯人のジェームズ・ホームズは2012年7月20日、コロラド州のオーロラにあるショッピングモールの映画館で映画『ダークナイト:ライジング』の上映中に銃乱射をしました。


ガスマスクをつけたジェームズ・ホームズは劇場の先頭に立って催涙弾と銃を乱射。結果的に12人が犠牲になり、58人の負傷者が出ています。警察の取り調べに対し、自分をジョーカーだと名乗ったジェームズ・ホームズ。


劇場だけでなく自分の住んでいるアパートにも爆発物を仕掛けており、当時相当パニックになった模様です。ジェームズ・ホームズはこの事件を受けて死刑を求刑されましたが、3,318年の拘禁刑判決を受けています。


ジョーカーにまつわる事件のなかで断トツで有名です。ちなみにこの事件を受けて、2019年映画『ジョーカー』は現場になった映画館で上映されませんでした。

2024年10月29日火曜日

ハマーフィルムの『吸血鬼ドラキュラ(1958)』のあらすじ(ネタバレあり)

 1958年のイギリスのハマーフィルムの映画『吸血鬼ドラキュラ』

この映画ではドラキュラをクリストファー・リー、ヘルシングをピーター・カッシングが演じ、ヘルシング教授の強い印象を強く残した。カッシングはどう見てもイギリス紳士。他の映画ではホームズやフランケンシュタイン博士も演じている。


ルーシー・ホルムウッドと婚約しているジョナサン・ハーカーはルーマニアの都市クルジュ=ナポカ(映画ではドイツ語読みKlausenburgクローゼンバーグ)にあるドラキュラ伯爵の屋敷の図書室に司書として仕えにくる話だった。

ドラキュラ伯爵はルーシーの写真に目を止め、ハーカーに「果報者だな」と言う。

艶かしい女吸血鬼が「私はここに囚われているの。助けて」と言いながらハーカーを襲う。後にドラキュラの棺を発見し心臓に杭を突き立てようとするが…。

そして、消息の絶えたハーカーを追って、ヘルシング教授がやってくる。近くの酒場でハーカーの日記が預かられていた。

ヘルシングはドラキュラ城へ行き、吸血鬼化したハーカーを発見する。


ヘルシングはドイツのカールシュタットに戻る。

ルーシーはアーサーの妹、そして、アーサーはミーナと結婚しているという設定になっている。

ルーシーは10日ほど前から貧血症状で寝ているが、首筋に傷が。すでに毒牙にかかっていたのだ。

ヘルシングは首の傷を発見し、ルーシーはハーカーの死を直感する。

ヘルシングは窓を閉じ、ニンニクの花を添えるよう指示するが、お手伝いゲルダが退けてしまい、ルーシーは死ぬ。


ところが、ゲルダの娘タニアがルーシーに会ったという。

アーサーは墓にルーシーが眠っていないことを発見する。

タニアは毎晩ルーシーに呼び出され、アーサーが跡をつけ、ルーシーに襲われる。しかし、ヘルシングが十字架で撃退。

アーサーを説得してヘルシングは日中ルーシーを杭で打ち、安らかな眠りにつかせる。


アーサーとヘルシングは棺の移動記録からドラキュラの住む場所を割り出そうと調査に出るが、その間に、留守番していたミーナは、ある場所に来てくれというアーサーからの伝言を預かる。行くとそこには棺が。

ミーナの異変に気がつき、夜中見張ろうとするも失敗し、ミーナも毒牙にかかり、ヘルシングによって、アーサーから輸血する。

実は、ヘルシングはドラキュラがアーサーの家のワインセラーに棺を置いていたことに気がつくが、ミーナが誘拐される。


アーサーとヘルシングはミーナを誘拐したドラキュラを追って、ドラキュラ城へ。

アーサーはミーナを助け、ヘルシングはドラキュラと一騎打ち。十字架と日光を駆使して倒し、終幕。

2024年10月25日金曜日

汎人形論

 


●汎人形論

変なことを言うが、たとえば、人間の創り出す全てのものが人形だと考えてみたらどうだろうか?

目の前にあるこのスマートフォンも、ペンも、コップも、着ている服も、ゆで卵も、書籍も、今いるこの喫茶店も、そして、この手帳に書きつけた文字も。

あらゆるものに人形を見出してみる。

ある精神病棟の患者に人形に取り憑かれた狂人がいた。そう、彼にはなんでもかんでも人形に見えてしまうのだ。出される食事も人形に見えてしまって、気味が悪くて食べられない、といった塩梅である。


闇と沈黙…どこからか娘の歌声が聞こえる


●人形論考導入

人形について話してみたいと思う。

ある知り合いの少女は、人形をなおみと名付け、とても大切にしている。長いことかわいがられたためか、なおみはもうひどく汚れ、あちこちが擦れている。しかし、少女にとってはきれいでピカピカの美しい友達、なおみ。少女はいつもなおみと一緒にいたがり、どこに行くにも連れて行く。一度、旅先で置き忘れてしまったときなど、大泣きして大人を困らせる。そして、同じメーカーの同じ型の人形を買おうとしても「それは違う。私の友達、なおみじゃなきゃ絶対ダメ!」と大泣きして駄々をこねる。(ヤンシュヴァンクマイエルのアリスのイメージ)

子供にとってのそれはぬいぐるみや怪獣やヒーローのフィギュアなどの場合もあるようだが、幼少期にそんな存在と過ごした人はいるだろうか?

ところが、ある日、自分が愛していた大切なもの、なおみと名付けていたそれが何でもない薄汚れたただの物体、空虚で意味のないものだと知る。

まあ、そう明確に意識したわけではないかもしれない。が、なぜか突然、興味がなくなる。

一歩、彼女は大人になったのだ。

しかし、それだけではない。珍しいことだが、その子は人形に不気味さを感じ、ひどく恐れるようになった。理由を聞いてもよくわからない。なんとなく怖いという。あれほど可愛がっていた人形なのに。一体なぜなのだろうか。


●生と非生の狭間にある恐怖

では、そもそも人形とはどういうものだろうか?

人形とはまず人の形をした物体である。

「生きて話して何か考えや意志や感情がある人間というものに、形だけが似ている。

しかし、それは、生きていないし、話さないし、考えも意志も感情もなく、中身のない空虚で意味のない、ただの物体なのである。

そして、生々しければ生々しいほど、不気味に見える。

そう、もちろん、人形は最初から魂のない、生命のないものだと分かっている......はずである。なのにそうとは言い切れない。見れば見るほど、魂があり、生命がある可能性を強く感じてしまう。

だが、そのことがさらに一層、人形の空虚さを強める。

なぜ人形は怖いのか?

人形は生きていない。

無表情な人形はいかにも生きてないふりをしている。

だからこそ、その人形の顔の向こうに、我々は生きているかもしれないという可能性を見る。

生きていることと、生きていないこととの矛盾したところの何か神秘的な印象に、怖さを見るのだ。

生者、死者、そのどちらでもない不死者。

それらは生きてないふりをしている。

「ふり」をしている。

つまり、生きているのだ。

いや、人形は、生きているわけではない、だが、死んでいるわけでもない。

生にあらず、死にもあらず。

そこに何か怖さを感じる。

怖いものの代表には死者がある。

だが、実は我々は死者が怖いわけではない。そうではなくて、我々の生きている世界に生きていない者が侵食することが怖いのだ。

死者は我々の生きている世界に最も近そうな生きていない者である。

死者の弔い、葬儀はなぜ行われるのか?

我々の生きている世界に、生きていない者が侵食してこないようにするためである。

死者の世界と生者の世界の境目、そこに恐怖が存している。

幽霊と、ゾンビとが死者に関する怖いものの代表格としてあるのだろう。

ゾンビは死体で魂がない。しかし、死に切れていないから歩く。魂がなくて身体だけ。

幽霊には身体がない。しかし、死に切れていないから、魂だけが残っている。身体がなくて魂だけ。

それらは死んでいるのに生きていて、生きているのに死んでいる。生死の世界の境目を侵すのだ。

リビングデッドドールズを知っているだろうか?

リビングとは生きている。デッドとは死体。ドールズとは人形たち。リビングデッドドールズ。

矛盾に困惑するかもしれないが、つまり、それは生きており、死んでおり、しかもただの物体でもあるのだ。

人形には何かそういうところがある気が私にはする。


•恐ろしい愛

人形は、生きているこの我々の世界の向こう側からこう呼びかけているのかもしれない。

「空虚で無意味なこの私には、知恵が、心が、意志が、魂がない」

この空虚さを満たして、人間にして欲しい」と

この人形はドロシーの仲間かピノッキオか。

そして、人形への愛が人形を生き生きとさせる。なおみのように。

少女はその意味のない空虚な物体を生きた人間、友だち、つまり、なおみとして扱い、なおみとして存在せしめ、なおみとして愛する。それが少女にとっての人形の意味である。

この世界にあるあらゆるものもまた意味なんてなく、 すべて空虚である。そして、我々はそうした空虚な物体に何か自分にとっての意味を見出してしまう。

それが愛である。否、我々はそうした物体を愛してはいない。むしろ、そうした物体が我々を愛してくれるよう求めているのだ。

そして、それならば、我々もまた"人形なのかもしれない。

正確には我々の肉体も、と言うべきか。

私のこの身体が私に向かって意志、心、魂、つまりは何か精神的なもので満たすよう私に求めてくる、というように考えてみる。

すべては人形のようなものなのだ。

少女は人形をなおみとして扱うが、なおみが話す言葉を自分で代弁する。

そのとき、人形なおみは少女自身でもあるのだ。

少女自身が人形に投影されている。

そうして、少女自身はそこに見出した人形の自我によって自分自身の自我をも獲得する。

少女のこころは人形の中になおみの心として存在しており、それがわかるのだ。

だから、自分でなおみと喧嘩することだってできる。

このことは、我々のこころはどこにあるのか?と考えてみるとわかるかもしれない。

科学医学によって心は頭にあるだろうと考えている人は多いようである。しかし、心が痛むと言って頭を指す人は少ない。我々は胸のあたりに心があるようにふるまい、実際にそう感じている。

心は胸になどないのに。それなら、人形にだってありそうなものだ。こころはなんにでも投影することができるのだ。

しかし、あるとき無意識にそれに気がついて、人形や他人の心はわからないものだと気がつく。

それが大人の始まりであり、彼女が人形を理解できないものとして怖がるようになる最初だったのかもしれない。


●理解できないもの、他者の顔

人形の顔には、もちろん、いろんな顔があるが、中でも、何を考えているのかわからない、無表情な顔がいい。虚空を見つめる瞳。そして、無言。

顔とは無限なものである。そうフランスの哲学者レヴィナスは考えた。

人間は、あらゆるものを飲み込み理解し尽くそうとし、自己において完結、自己完結させてきた。これを全体性という。

例えば、自然を実験や観察や分析によって理解できるものにして、自分達が加工し支配しやすい都合の良いものにした。

例えば、我々に理解できないような人間を「狂人」というレッテルを貼って、精神病院に入れてしまう。「この人間は壊れているので治療して治すべきものです」とわからないものにも病名をつけて理解した気になってしまうような。

しかし、あなたは相手を理解した気になっても、未だ理解できていないところが必ずあり、あなたの理解から必ずはみ出てしまう。自然も想定外の災害が起き、狂人の心は心理学によって完全に解明されたとは言い難い。そして、出会う他人は常に想定外の可能性を備えている。

我々に理解し難い存在を他者と言う。我々とは常識や前提や見ている世界がどこかしら違う者、他者。

レヴィナスはどうやっても相手(他人)の存在は自分には到達できないものであるとして、「無限」と言い、「顔」という言葉で象徴した。

そして、人形という《他人》は、《他人》というものの本来の在り方を思い出させてくれる。人形は、我々にはとうてい到達できないような無限の顔を備えているのである。

理解できなさを肌で感じる時、あなたは恐怖を感じるかもしれない。

そして、人形は無言なのだ。

無言であるが故に、我々はその無表情な顔からいろんなものを読み取ってしまう。いや、自分自身の不安や恐怖すらも映し込んでしまう。


そんな感じがする。


そして、そんな理解できない怖さを乗り越えると、不思議と再びなおみを慈しめるようになり、我が子に託すこともできるのだ。

絵本「なおみ」を読む


宮本美代子 球体関節人形 造形展 考察↓

https://iranaiblog.blogspot.com/2024/04/blog-post.html

2024年10月1日火曜日

カント哲学 否定と無限!

否定判断と無限判断

ジジェクはカントのこの区分けをユーモアを伴って説明していました。

単に否定命題でHe is not dead.「彼は死んではいない」と言うときと、he is an undead.「彼はアンデッドだ」というのとでは意味が違う。


カントは、人間が考える時に使っている思考(悟性)の形式をカテゴリーに分けて整理しました。


カテゴリーには4つあり、そのうちの「質」がありますが、今回は質を取り上げます。


悟性のカテゴリーの質はさらに3つに分かれます。

(カントは判断の形式を悟性の形式を導くための手引きとしていますので、判断を3つ取り上げます。)


ひとつ目は肯定判断。例えば、「これは長い」とか、「これはりんごである」とか。


ふたつ目は否定判断。例えば、「これは長くない」とか、「これはりんごではない」とか。


最後に無限判断。例えば、「これは長くないものである」とか、「これは非りんごである」とか。


この最後のものは、内実は否定判断なんだけれども、それを無理に肯定判断にしたもので、一見したところ否定判断と違いを感じないように見える。

私も最初読んだ時には、「何が違うのか?」と疑問に思ったものです。


しかし、カントは否定判断は単にひとつの「長い」という性質を否定したのに対し、無限判断とは、長くないすべてのものが可能性として含まれてしまっていることに留意する。

つまり、長くないものには、短いもの以外にも、空間的でないものやら、丸い四角やらも含まれてしまっているのです。そうしてカントはこれを「無限判断」と呼ぶのです。


(ただ、この無限判断から導かれたカテゴリーは制限命題とも名づけられています。それは「長くない」という一点において制限されているのみとも言えるかららしいです。)


そして、私の読みではこれがカント哲学のひとつの根幹でもあるのかなと。


例えば、世界の限界について考えるときでも、

(カントは世界は有限であるということの証明と世界は有限ではないことの証明を両方することによって、それら証明そのものが有効でないことを示し、それをアンチノミー〈二律背反〉というのですが)


「世界は時間的に有限である。」

「世界は時間的に有限ではない。」

このどちらか以外の方法として「世界は非=有限である」を考慮に入れていた節があります。


そう考えると、実はあの「世界は有限である」の反対は「世界は無限である」というのは言葉としては翻訳は正しくとも、正確には無限を積極的に提示しているというより、有限の否定についての話なのかもしれないと。すると、この命題はカントの真意にそうなら、「世界は有限ではない」と訳すべきであって、積極的に無限を証明したわけではないと言えるかもしれません。


そして、アンチノミーのあとで、それらの問題は不定であるとしてある種の結論めいたものを出しますが、そのときでもこの第3の判断のことを思わずにはいられないのです。

2024年8月7日水曜日

Zweifel dass ich bin

 “Ich denke also bin ich” hat Descartes gesagt.


Echt?


Existiere ich hier wirklich?

Wie kann man die Wirklichkeit des Ich erstellen?


Das ist vielleicht ein Schein, also Fantasie.

Nirgendwo gibt es der Sicherheit des Existenz von ”ich” wie eine Seele.


Mit der Struktur der Sprache: “Subjekt und Verb und so weiter” hat sich mein oder „dieses“ Denken möglich getäuscht, als ich also dieser Subjekt wahrlich hier bin. 


Philosoph Kant hat gedacht dass wir die Wirklichkeit der Seele zweifeln können. 


Und Husserl hat die ursächliche Unterschiede zwischen “cogito(ich denke)” und “sum(ich bin)” gesehen. 


Es gibt meinem Denken, also es meinem Denken gibt. Doch bin ich nicht sicher. 


Also habe ich gedacht.

Nein!

Um genau zu sagen, also hat „dieses“ Denken gedacht.


#phylosophy #phylosophy #kant 

2024年7月26日金曜日

初の海外公演、スペインへの旅

今回、初の海外公演にて、スペインへ行ってまいりました。

あまりに日差しが強いのでサングラス必須です!


今は帰国し、帰りのバスの中ですが、日記のような記録として書き残しておきます。


海外へは大学時代にドイツへ短期留学で二度、行ったことがあるので、今回で三度目です。

名古屋には、クセックACTという老舗の劇団があり、私は四年前から出演を予定していましたが、コロナで四年間延期しており、今年にようやく名古屋公演とスペイン公演に辿り着けました。


2024年7月14日日曜日

人間とは何か?

前提としてこの問いは人間であるあなた()に向けられている。ゆえに、人間とは、常に我々のことである。つまり、あなた()とあなたがたである。

彼や彼女や彼らはどうなのか?

人間は彼でも彼女でも彼らでもありうるはずだが、それは未だ可能性に留まっている。すべては我々に組み込めるかどうかに掛かっている。

しかし、それでは決してない。

人間に黒人が入っていないことに気がついた者は、黒人が人間の範囲に入るよう政治的な運動をしてきたし、人間に女性が入っていないことに気づいた者は、女性が人間の範囲に入るよう政治的な運動を繰り広げてきた。

では、動物はどうか?動物愛護を擁護するとき、そして、明らかに我々が動物を仲間に入れようとする。つまり、動物たちを少なくとも幾らかは人間的な存在として見てしまっているのだ。しかし、微妙なところではある。だから未だ議論は続く。

しかし、個人の家族においてはペットを家族の一員として迎えることもあるだろう。そのときはやはりペットを人間的なものとして扱っているのではないだろうか?

「中国人は、我々日本人とは違う」と言いつつ日本人を称賛しようという時もまた、表向きは「日本人」を我々の側に添えていて、人間よりも狭い範囲で扱っているように見えるが、実は、人間が見え隠れするのは感じられないだろうか?我々日本人こそが人間であるというニュアンスが…!


それは我々を拡大することであり、翻って、他者、異邦人を消し去り、我々の理解できる常識を共有した一員にすることである。

これは常に我々の常識(人間性についての思い込み)との危うい関係がある。とにかく「私」をそこに入れて欲しい。排斥しないでほしい。人間性についての既存の思い込みを打破し、そのための闘いが繰り広げられてきた。


他者とは、未だ我々の一員ではなく、人間ではないものの、しかし、人間に近い者ではある。他者が他者として認識されるには、人間にとても似ている部分がどうしても必要だからである。それがなければ、そもそも他者としても意識が差し向けられない。

似ているがゆえ、人間は、他者によって揺るがされる。


人間は、人間である者に対して、それitなどと呼ぶことによって、あえてその尊厳を奪うことでいじめが行われてきた。

いじめは、いじめの対象に尊厳があることによって成立する。我々は石をいじめない。相手に人間的な何かを感じるからこそ、それに石を投げることに快感を持ち、いじめてしまうのだ。

いじめとは人間を他者にしてしまうことだ。


それは、彼らが人間に似ているのではなく、我々が人間に似ているだけかもしれない。我々のほうが他者かもしれないという不安に駆られさせるからしてしまうのかもしれない。


他者は我々にこう主張する「我々こそが人間だ」と。

自己意識同士の闘争である。


そして、そうした他者に応じる仕方が問題になる。他者を受け入れて人間にするか、他者を排除あるいは祭あげて他者のまま保つか、あるいは、自らが人間ではないことを認めるかを選択しなければならない。


しかし、あなた()は自身が人間ではないことを認めることによって、再びあなた()は人間になり、我々は自身の存在そのもの(つまり、人間性)をこのように守るのだ。


というのは、人間ではない可能性に気づく者は人間になることを求めるからだ。人間的であろうとするからだ。


「誰かこの中で一度も人間でなかったことがない者ならば、彼女に石を投げるが良い」


それはまるでレプリカントを狩る純人間のブレードランナーよりも、人間に似たレプリカントのほうが人間的であった、というようなものだ。


人間性は常に既に失われる。それは、ただのヒト(世人)になることかもしれない。

ただ、それに気づくことでその回復ができる。

絶えず人間は人間化することによって、人間であることを保ち続けている。


それでは、私がたったひとりでいるとき、人間であれるのだろうか?


追記: 「人間とは何か」と問われる時、すでに問いの内容は変化している。生物学的な人間について問うているのではないのだ。人間的な性質、人間性について問うているのだ。


3時間半程度

2024年6月14日金曜日

ニーチェの先延ばし批判と永劫回帰の意味



 

あるところでニーチェの入門書を紹介いただいた。

「ニーチェ入門」清水真木

これがその入門書の一部なのですが、どうにも分かりづらい。

そこで、なんとか読み砕いて、

私の言葉でわかりやすくしてみました。


「人生は無意味で苦しいよ」という知識があっても、それに向き合い、生きたいと思う。それが健康な人間。

一方、「人生は無意味で苦しいよ」という知識に耐えられないから、それに向き合わず、この今の苦しさに耐えればいつか報われるよという希望を信じて生きる。これが弱者。


こんな感じだろうか。


2024年5月17日金曜日

破滅へいそぐドン・ファン ~フロイトの人間像とドン・ファン像、そして過剰なもの、表現~

「死に直面したときこそ、生の歓喜がぞくぞくっとわきあがるのだ。血を流しながらにっこり笑おう。」岡本太郎


●快についての疑問とドン・ファン

結局、人間は本能だ。などとよく言われる。

愛だの恋だのといっていても、結局はそんなものは性欲にすぎないとか、

男は結局のところみんなドンファンと同じようなものだ、とか。

……ドンファン。

あなたにとって《ドンファン》という男はどんなイメージだろうか?

ドンファンとは、次から次へと女性をヤリ捨てし、まさに性欲で生きている男というイメージがあるかもしれない。

しかし、そのイメージは適切だろうか。

そして、「人間とは結局、本能によって生きている」というイメージは適切なのだろうか?


 

2024年5月12日日曜日

人生は短いの??長いの?


 人生は長いのだろうか?それとも短いのだろうか?


詩人ハイネは得意の皮肉でこう言う


人間よ、悪魔を嘲るなよ

短いものは人生だ

永劫の罰というのは

夢愚かな迷信じゃないぜ

人間よ、借金を払っておけよ

長いものは人生だ

すでに度々の経験だが

今後も借金は免れないぜ

「帰郷」


しかし、人生には長いも短いもない。

何かと比較して長い人生や短い人生があるだけで。

巻尺は長いのか?短いのか?と聞かれて、何と比べて7日、その巻尺は何メートルの巻尺なのかすら知らずに答えられるのだろうか?

人生は長い、人生は短い

と言うときは何との比較なのだろうか。

例えば、80年生きた男がいる。

彼が末期に「人生は短かった」とひとりごつ時、それは何を意味しているのだろうか?

それは客観的な時間80年と人生として生きたこの80年とを比べて言っているのだろう。

普段、熱中していた2時間をいつもの2時間と比べて短いと感じるのと同じである。

しかし、客観的時間もまた主観で測るしかない。それも、熱中していない時間を気にしている時の時間を基準としている。

つまり、人生80年が短いとは、普段時間を気にしている時の時間感覚を延長したものとして80年の空想と人生として生きたこの80年とを比べて「短い」と言っているのだとわかる。

2024年5月4日土曜日

人は仮面(ペルソナ)を被らざるを得ない。




 人は仮面を被らざるを得ない。

SNSであれ、リアルであれ

なんであれ、最初は自由に感じる。

私がこうありたいからこうある。

しかし、多くの人と付き合っていくうちに、いつの間にか、ペルソナ(仮面)を被らされている。

女性の前では、男というペルソナ

海外の人たちの前で、日本人というペルソナ

新人の前で、先輩というペルソナ

上司の前で、部下というペルソナ

自分で作り上げたキャラもまた、ペルソナだし、

自然だと思っていたあり方も、誰かが「君は〇〇だね」と言い当てられると、ペルソナ化する感じがある。

過去の自分に縛られることもある。

一度、俳優として出てしまうと、人々からそう思われてペルソナ化し、絵を描いても、「絵も描く俳優」と思われる。


そして、また、我々は相手のことをすぐにペルソナで見てしまう。

「あの人はこうだから」というように固定化する。


だが、ペルソナの向こう側に、捉えきれない無限の顔を見るのがレヴィナスという哲学者が示唆したこと。

2024年4月19日金曜日

宮本美代子 球体関節人形造形展 考察

 



昨日は、宮本美代子球体関節人形造形展に行ってきました。

以下、私の勝手な想像を綴ります。





人形の向こう側には何が見えるのか。


ギャラリーに入ると奇妙な妖怪たちが出迎えてくれる。





妖怪のようなこの人形たちは何かの動物ににているし、顔は三角で、脳が潰れてしまっている。



妖怪たちは、どこか戯けたような印象がある。

彼らは狂ってしまったのか。

彼らはもともと妖怪だったのだろうか?

一体、どうしてこんな妖怪が誕生してしまったのか?


次の人形を見る前に、もう少しだけよく見てみる…


よくよく見ると顔顔顔


2024年2月23日金曜日

1番数学的な要素を持つ哲学者は?

数学的な要素とは何か?ということが難しいですよね。 数学における業績で考えると、ライプニッツやデカルト、フレーゲ、ホワイトヘッド、ラッセル、ピタゴラスも??などを思い浮かべる人がいるかもしれない。 

前期ヴィトゲンシュタインは確かに書き方や内容としての論理式などが数学を思わせるのかもしれないし、数学の基礎論を扱ってはいるが、全体としては数学的な論証にはなっていない。
むしろ、自然数に関して見ると、直観主義であって、直観主義は数学的とはあまり言えない。 数学の基礎を扱っているというだけなら、フッサールだって入ってくるだろう。 

その点で、カントは確かに数学よりも自然科学一般を扱うし、形式的には数学的な叙述がないが、ヴィトゲンシュタインや直観主義者とは違い、無限を扱える。(つまり、直観主義者はカントを誤読しているように私には思える) カテゴリーにおける単一性(ひとつ)、数多性(いくつか)、全体性(すべて)という純粋悟性概念 ひとつから、いくつかへは簡単に行けるが、それらのすべてをまとめるという全体性が大事になってくる。 ひとつの自然数1. いくつかの自然数1.2.3.4 自然数の全体(1.2.3.4.5....) ただし、それが直観において適応できなければ、それが自然宇宙(というか自然科学)における現実とは言えないというだけで。 数学という学問内においては全然扱える。

 さて、これは数学においてどこまでを認めるかというところが争点になっているが、 今度は叙述の形式を見てみよう。 

前期ヴィトゲンシュタインの論考は実はそんなに数学的な形式を使っているとは言えない。 1〜7の命題があって、それぞれに註釈がついて、それぞれの註釈にさらなる註釈をつけるという叙述形式をとっているが、そのような数学的な叙述を私は見たことがないのである。 

数学ということから、デカルトの省察を思う人がいるかもしれない。 しかし、叙述の形式だけを見ればスピノザはダントツで数学的な形式を取っている。

 スピノザはデカルトを意識していたようだから、デカルトの不完全さを補おうとしていた感じがある。 そして、その叙述は幾何学における証明のように構成されている。内容から言えば、数学とは関係がないが、形式で言えば最も数学的な要素を持った哲学者と言えるのではないだろうか?

2024年2月16日金曜日

「猿の惑星」シリーズについて

 猿の惑星についての昔のメモが残っていたので、紹介します。


さて、猿の惑星シリーズを順に見ていこうと思います。


「猿の惑星」

口の聞ける猿が口の聞けない人間を家畜として扱っている惑星に来てしまった男の話。



「続 猿の惑星」

猿にも人種ならぬ猿種があり、また、口の聞けない人類とは別の人類の成れの果て、原爆を神として崇めるミュータントがおり、ミュータントと猿とが戦争する話。


人間の別の成れの果てであるミュータントは、核兵器を神と崇め奉りながら、平和を愛しますが、人間に対しては超能力で人間同士に殺し合いをさせて自滅させ、自分では手を下さないから平和主義だと言っており、米ソ冷戦の代理戦争に対してかなりの皮肉になっています。



「新 猿の惑星」

猿の惑星の話す3匹の猿は、過去へタイムワープし、猿の惑星と反転した人の惑星を知る。人類を恐れ、未来のことを隠す猿たちだったが、、



「猿の惑星 征服」

猿が奴隷化した時代、未来から来た話す猿のひとり息子シーザーは生き延びていた。こき使われる猿たちの中で、シーザーは立ち上がる。



「最後の猿の惑星」

猿と人類との戦争で、ついに核爆発で都市が壊滅してしまったら後、生き延びた人類と猿とは立場が逆転していた。だが、壊滅した都市には他にも生き延びたミュータント化しつつある人間もいた。


キラーエイプ仮説というものがあります。

人間とは、同種の生き物を殺すようになった「殺す猿(キラーエイプ)」であると。これは今では疑似科学だとして退けられていますが。


実は、古き猿の惑星シリーズの最後、「最後の猿の惑星」ではまさにこれがテーマとなっています。


この映画では、猿たちが革命によって人間を奴隷にして、猿たちの国を作る。そのときに猿たちは自分自身の存在をこう定義づけた。

「人間は人間を殺す」。しかし、「猿は猿を殺さない」

ところが、、というお話です。

2024年2月9日金曜日

孤独とは、だれも手を下して自分を殺してはくれないということの認識ではないのか??

 べつに、彼の自殺が恐かったのではない。くどくどと思いつづけながら、突然、それとは無関係な、全身のひきしまるようなある理解がきた。そうだ。孤独とは、だれも手を下して自分を殺してはくれないということの認識ではないのか。・・・そうして、ぼくはぼくの孤独だけを感じた。
 そのとき、やっとぼくに恐怖がきた。それは山口という一人の他人には無縁な、ぼくだけの恐怖だった。いわばぼく自身の生命を、最後までぼく一人の手で始末せねばならないという、冷厳で絶対的な人間のさだめへの恐怖だった。
『煙突』山川方夫『夏の葬列』集英社より


サルトルは正反対のことを言っていた。
むしろ、死は突然、何の前触れもなく、私から全てを奪う。
死は絶対的な他者である。
私が私の命の始末をする前に、私からすべてを取り去りうるのだ。

ところが、死が巧妙に隠蔽される現代においては、基本的には自分は国家によって生きながらえさせられるように思わされる。

2024年2月7日水曜日

人類の記憶力を衰えさせたのは文字!?

現代の対話篇〜

現代のテウト神ジョブズ「このスマホでなんでも学べます。中国の漢字だって、忘れていたら、すぐに検索できますよ。あなたが記憶するのに役立ちます。」


古代ギリシャ哲学者P「いやいや逆でしょ。むしろ、いつでも検索できるのだから、漢字を覚えなくても良いので、漢字を覚えなくなりますよね?」

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あなたは、何かを覚えておくためには書きとめておきなさいと言われたことがありますか?


2024年2月6日火曜日

神と芸術 ~アングライベント劇怖からif糸布展へ~




先日、劇怖という恐怖をテーマにしたアングライベントに出演しました。

愛知県瀬戸市のりんごスタジオで行われたイベントで、血で絵を描く呪術師のライブペイントや緊縛やゆる怪談師が出演するショーケーススタイルのイベントです。イベントそのものは四度目、私の出演は二度目でした。

今回、安部火韻(アベカイン)はユニット愛蘭珈琲(アイリッシュコーヒー)として出演しました。


愛蘭珈琲は、《神様の死あるいは変容》をテーマに午前はどちらかというと日本の、午後はどちらかというと西洋よりのパフォーマンスを行いました。


午前における愛蘭珈琲の演目は主に他称魔女であり怪談師でもある白山葵が怪談を中心に行い、午後は私、安部火韻が好きなフランケンシュタインやニーチェをモチーフに身体パフォーマンスを中心に行いました。

愛蘭珈琲は、互いに思い付いたものを投げ合いながら創っていくスタイルです。

ところで、先ほど神様の死と変容についての表現を行ったと話したが、それについて話してみたいと思う。

2024年2月5日月曜日

ストア派とエピクロス派の微妙だが、最大の差異

 確かにストア派と、エピクロス派はかなり似ている。

しかし、情念が無いこと(ア無+パトス情念)と、平静な心という精神的快楽(アタラクシア)に至ることとは微妙に異なる。

ストア派は、自然の理法たるロゴスに従うために、情念を滅する。ストア派にとっては、情念は、ロゴスに従うのを妨げる障害となっている。

エピクロス派は、例えば死への恐怖という情念を滅して動じない心に至るために、理性たるロゴスによって、原子論に至り、死によって動じない心に至る。

つまり、ストア派は情念を滅して、ロゴスに至ろうとし、

エピクロス派はロゴスによって、平静な心アタラクシア以外の情念を滅するに至る。

2024年2月2日金曜日

2種類の愛

 愛には、2種類あるかなって思っています。

「殺したいほど愛してる」という場合と、「愛してるからこそその人に触れることさえ許されない。傷つけてしまうから」という場合とがあって、


この2つの側面を含んでいるものが同じく「愛」という言葉で表現されているのがおもしろいなって思います。


前者は、「良いと思い、それを求める」

 好きの極大表現のような

後者は、「それを大切にしたい」

 慈しむ。相手を尊重する。というような。


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