「もし活動としての哲学が、考えること自体に対して考えるという批判的作業でないとするなら、今日、哲学とはいったい何であろうか? 別の仕方で考えるということが、いかに、どこまで可能なのかと知る試みに哲学が存立していないとするなら、哲学とはいったい何であろうか?」 ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅱ―快楽の活用(原著14-15頁)』
2023年2月27日月曜日
きのこ・たけのこ戦争
2023年2月26日日曜日
人生は無駄か?
「 私にとって哲学とは娯楽です。」
-ある人がそう語った。
-それに対して、すかさず掘り下げようとする私
具体的には、娯楽とはなんでしょうか?
芸術とは違う、極めることがなく楽しむのみという意味での娯楽のことなのか?
金を稼ぐ仕事とは違うという意味での娯楽のことなのか?
苦悩してる人が手を出すのとは違う苦悩を解決するということはないのでという意味の娯楽なのか?
「もうゲームと同じです。」
-彼は一言で答える。
そこでまた掘り下げようとする私
どの程度同じなのかもう少し語ってみると?
想定しているゲームがファイナルファンタジーなのか、マインクラフトなのか、どうぶつの森なのか、双六ゲームなのか、夜逃げをかけた麻雀なのか、カイジのハマった地下のサイコロなのか、名誉をかけた将棋なのか、遊戯王なのか、すべてかなり違っていますが。
「人生って娯楽じゃないですか。
いつか死んじゃうから、無駄の塊。
そういう意味の娯楽です。」
-彼は掘り下げる気はあまりないらしい。
-そこで彼の言ったことを解釈して私の方から掘ってしまおう。
つまり!人生という娯楽、この世界を生きるゲーム、あるいは人生ゲームと哲学とが似ている、と?!
ただ無駄と娯楽はちょっと違うと思いますよ。
無駄とは「何を?」無駄にしたのか?ということが問われるので。
「長い目で見ると人生は無駄じゃないですか」
では、仮に、人生が無駄でないとしたらそれはどういう状態のことを指しますか?
「え?」
発言から、「永遠に生きるとしたら、無駄ではない」ということが前提されてるなと。
「確かに…
でも今のところ確実に生き物は死にますよね?」
原始的な単細胞生物は全く同一のものが分裂し続けているため、どれかは必ず生き残り、死なないですが。
まあ、それはともかく、
単に哲学は娯楽、人生も娯楽。
哲学終わり。
…ではなくて、それが哲学の始まりで、掘り進めていかないと、それだけで終わっちゃうと、哲学が娯楽としてあまり楽しめないかなって。
永遠に生きたとして、無駄ではないと言えるのかどうかを探求していったり、先ほどの具体的にはどのゲームに人生や哲学は似ているのかや、娯楽とはそもそも何かを考えたりなどするというのは娯楽(=哲学)として楽しいですよw
さて、少しズレますが
一方では、遺伝子を残していくことで、そこに意味を見出せば、私の人生は無駄ではないということになります。遺伝子でなくても、意味があると思うものなら、何でも良いから残すわけです。
もう一方では、私はこの自我ただひとり。いくら遺伝子を残しても、私が死んだらあらゆるすべて意味がないと考えることもできます。
例えば、祖母に喜んでもらうために手紙を出すとします。
外が寒いためにとても家を出たくないなぁと思いながらも、便箋と封筒を買いに行きます。
この行為は、祖母に喜んでもらうためには無駄ではないですが、
便箋と封筒を買ったことそれ自体はその時それ自体にとっては無駄とも言えます。
むしろ、遺伝子を永遠に残すというのは、母子家庭の母親が愛する娘に思い出を残そうとすることの大切さに比べたら、全く無駄だと思います、たとえ、そのお母さんの娘さんが次世代を残す、つまり、子供を産まなかったとしても。
それだけ、娘を愛する母親にとって意味のあること。それは他人から見て無駄でも、その母親にとっては全く無駄ではない。そう私は考えました。
無駄とは、それよりも大切にしていることがあるのに、その大切にしたいことを疎かにして他のことをしてしまったとき、無駄なのではないかなと。
ゲームをして無駄だったなと思うのは、受験勉強でもしてたほうが良かったと思うから。
受験勉強など無駄だと思うのは、稼ぐ能力でも身につけとけばよかったと思うから。
仕事ばかりして無駄だったなと思うのは、家族との時間を大切にしたほうがよかったなと思うから。
生きてきて無駄だったなと思うのは、何かを誰かに残して、自分を必要としてくれたり、大切にしたい何かを守ったりして人生を過ごさずに、自分のことばかり大切にしていたなと思うから。
…かもしれません。
つまり、人生など無駄だなと思いながら過ごすことが最も無駄だとしたら?w
関連ブログ
実存主義とは何か?↓
https://iranaiblog.blogspot.com/2023/02/blog-post.html
どんな時にも問うそれであなたは幸せか?↓
https://iranaiblog.blogspot.com/2021/10/blog-post.html
何もしないこと↓
2023年2月20日月曜日
ニーチェからのプレゼント理論のプレゼント! 〜ツァラトゥストラの贈与論〜
要らないものを贈ってくる人がいるのですが、そういうときはどうしたらいいですか?お礼とかもしなきゃいけないですよね?
「受け取ることは相手に対する特別待遇だと思え」『ツァラトゥストラかく語りき』ニーチェ
相手から贈られたもの、それは感謝という対価で売ったのではなく、【贈られた】ので、遠慮なく受け取る。いや、むしろ、受け取ってやっているのだと思うべし。お礼だって?なにそれ?あげなきゃならないの?
じゃあ、私があなたからの贈り物を受け取ってやったことに対するお礼もあるのかい?
こんな感じなのが、ニーチェの教えw
2023年2月19日日曜日
カントのアプリオリな総合判断の意義
「直観なき概念は空虚であり、概念なき直観は盲目である」カント
直観とは、我々が理解している時間や空間のこと。
概念とは、我々が言葉で捉えるそれのこと。
分析的とは、もともとその概念に含まれていたもので分解できるもののこと。
総合的とは、その概念には含まれていない別の概念をくっつけて新たな概念を作ること。
アプリオリとは経験的ではないということ。
アポステリオリとは経験的であること。
さて、
5+7=12
はまさに、アプリオリな総合判断と言えます。
2023年2月17日金曜日
占ってもらう前の心構え
占いというのは、当たるかどうかというところにみんな焦点を当てがちなのですが、そこだけ気にしてるのはちょっともったいなくて、
占いを参考にしながら自分自身は本当は何を望んでいるのかを真剣に探る営みなのではないかなって思ったりします。
占い師は相手に何も聞かずにすべてわかってて当てるみたいな人よりも、うまく人生相談にのって、その人の望みや問題などを引き出し、それを一緒に眺めながら考える人のほうが有益な人生にしていくひとつのファクターにしうるかなって思います。
星占いなどは固定的で決まっていますが、タロットカードは全くの偶然性を偶然性で捉えてその人の人生に必然化していく。
その偶然捲られたカードの群れにひとつひとつ自身の人生の何に当たるのか投影していくわけです。
うまい占い師は人生を偶然のカードにうまく投影させていきます。
このカードが過去、このカードが現在、このカードが未来だとすると、占い師からこのように見えるが、あなたはそれにしっくりとくるのかどうか。
単なる偶然ひかれたカードなのに、人生を投影させていく、自身の人生をそこに映し出された鏡として考え、それをみながら自身の人生を考える。
それは、ただの無意味な遊び。しかし、高度な。そして、使い方によっては有益な遊びなのです。
たぶん。
それはわが頭上の星辰をちりばめた天空と、わが内なる道徳法則
カントは2種類の法を考える。
法Gesetz といっても法則Gesetzのことである。どちらもGesetz。
自然における自然法則
人間社会における道徳法則
これがカントの有名な言葉
「わたしたちが頻繁に、そして長く熟考すればするほどに、 ますます新たな賛嘆と畏敬の念が心を満たす二つのものがある。 それはわが頭上の星辰をちりばめた天空と、わが内なる道徳法則である。」
そのどちらもカントは理性が産出した普遍的な法則だと考えて居る。
自然法則は、仮言的な命題に関わる。因果関係である。「AであるならばBである」というような。
道徳法則は、定言的な命法に関わる。「Aせよ」というような。
安部火韻にはなんとなくカントの言っていることが過去と未来との関連によるように思われる。
原因結果というのは過去に遡るものであって、それの解明に関するもの。未来については予測はできたとしても、絶対にそうであるとは決して言えない。過去になってはじめて固定したものとして分析したり認識したりできる。
未来や現時点での観測を超えたところのものについて理性が何かを言うのは越権であると。
一方で、道徳法則とそれにまつわる定言的な命法は、今までがどうであれ、それとは関係なく「Aせよ」という未来に向かっての行為に関するものである。だから、自由意志に関わる。
そして、それはそもそも未来に向かっているが故に、理性がそこまで述べてしまっても越権であるとは言えない。
「過去の決心は確かにそこにある。だがそれは、私がそれを意識しているという事実そのものによって、凝固し、無効になり、超出されている。」サルトル
つまり、昨日に決心しても、再び今日も決心しなくてはならない。昨日の決心は確かにしたけれど、過去の行為や意思決定如何は常に無効化してしまうのだ。
2023年2月14日火曜日
因果論ヒューム批判するカント
いきなりで申し訳ないのですが、今哲学で考えてることがありまして、因果律についてです。
つい最近まで、何事にも原因と結果があるのであれば、現世で死ぬことで次(来世や死後の世界)があると考えてたのですが、因果律の批判(ヒュームの思想)を知りました。
因果律の考えは私たちの習慣に基づくものであるという批判でした。
例として、火に手を近づければ熱いですが、99回目までは熱いとしても100回目では熱くないかもしれない、というのがある本で書かれてました。
そこで私が知りたいのが、このヒュームの批判に対する批判です。
この因果律の否定の先の考え・議論をあるのでしょうか..??
それについては、カントの考えがあります。
カントは「確かに、突然、明日、太陽が昇らないということはあり得るだろう。しかし、それがなんの原因もなしに。ということは考えられない。」みたいなことを言いました。
これこれの原因によってこの結果が起きるとは限らない。しかし、だとしても、それは別の原因による別の結果が起きているだけで「あらゆる生成変化はなんらかの原因を持つ。」と我々人類は考えざるを得ない。
そもそも人間は何に対しても「それはなぜか?」と問い続けることができる存在であり、なぜと問うときにその結果を必ずや加味している。それはたとえなんの原因も見当たらなかったとしても、原因が見当たらない原因は何か?と問えてしまうことからも分かる。
例えば、科学において、実験結果が理論と微妙に違っている時に、そこには誤差の出るなんらかの要因があるから、と考えたり、理論自体が違っていて別の理論がいるのではないかと考えたりする。
しかし、なんの要因もなしにそこに誤差が出ると考えることはそもそもできない。
ヒュームは表面上の現象にはさまざまな可能性があることを示唆しているだけで、実は原因と結果の関係についてはあまり考えていない。
原因結果には必ず「なぜ?」というものがついて回る。
火に手をかざして熱いのはなぜか。
100回目で火に手をかざして熱くなかったのはなぜか。
そこに単に権威ある人が言ったことを鵜呑みにするのでなく、ちゃんと根拠のある科学的なものの見方のひとつの大切さがあるように思われます。
アリストテレスの因果論やヒュームの因果論までわかるカント解説↓
2023年2月13日月曜日
ツァラトゥストラ解説①3つの変容と守破離、そして、ヘーゲル
Also sprach Zarathustra
ツァラトゥストラはこう語った。
Friedrich Wilhelm Nietzsche
序文は大切ですが、飛ばします。
“Von den drei Verwandlungen”
3つの変容について
から始めます。
“Meine Brüder, wozu bedarf es des Löwen im Geiste?
我が兄弟よ、なにゆえ精神に獅子が必要とされるのか?
Was genügt nicht das lastbare Thier, das entsagt und ehrfürchtig ist?
なぜ重荷を担う、諦念と畏敬の念に満ちた、動物では不十分なのか?
Neue Werthe schaffen
新しい価値の創造
- das vermag auch der Löwe noch nicht:
それは獅子にはまだできない。
aber Freiheit sich schaffen zu neuem Schaffen
しかし、新しい創造をするための自由の創造
- das vermag die Macht des Löwen.”
それは獅子の力によって、なし得るのだ。
精神の三つの変容
第一の精神、最も重いものが何かを問い、それを力を誇示するために背負おうとする駱駝。
第二の精神、駱駝は最も孤独な砂漠において「我欲す」の獅子(ライオン)へと変容し、「汝為すべし」の竜(ドラゴン)と戦い、自由を手にする。おそらくだが、竜とは背負っていたものと思われる。
第三の精神、自由を手にした獅子は、常に忘却し常に新たに価値を創造するという遊戯をする幼子となる。
この3変容は守破離に似ていますね。
守破離とは、まず師の教えを守り、その教えを破り、師から離れて独り立ちしてこそ師に報いるのだという訓示です。
「規矩作法 守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな」千利休のこの言葉が源流と言われています。のちに利休の流派の茶人が明示しました。
「弟子に教るは守、弟子は守を習尽し能成候へば、おのずと自身より破る。離はこの二つを合して離れて、しかも二つを守ることなり」「不白日記」千利休の流れを汲む茶人、不白
⚠️ちなみに良く間違えられるが世阿弥は序破急。
この不白日記の文を読むと私はヘーゲルを思い出しますねw
ヘーゲルはまず最初があり、それへのアンチがあり、その2つの相反するものが総合されて、かつ、両方でもないというものを創造していく過程に注目した感じがあるので。
ニーチェの3つの変容も実はヘーゲルを思わせるところがあります。
ヘーゲルの逆というか。
主人と奴隷の弁証法の逆。
主人と奴隷の弁証法。
これはヘーゲルの主著「精神現象学」に出てくる何か精神に関する象徴的な話。
自由を目指す二つの自己意識の対立があり、勝った方は主人、負けた方は奴隷となる。
ちなみに勝つのは、相手より自然から自由な者、相手より死を恐れなかった者ということになっている。
通常、自然的なものに拘束されている2人。
勝った主人は、奴隷に自然的なものに従事させることによって、自然からの自由を手にする。
一方、奴隷は自然を加工する仕事に従事し、自由ではない。
ところが、奴隷は次第に自然を加工する技術を獲得して自由となり、また、主人に屈服することによって、一度我慢することを学ぶ。
それが主人無き後の世界、他人と共にいろいろな困難を解決する民主主義的な政治への準備となる。
ここでは、幼子が獅子(青年)となり、駱駝(大人)へと変化することが書かれており、ニーチェはこの逆を意識でしていたのではないかと推測できる。
なんか神話みたいな話だね。
精神現象学はおそらく近代の神話です。
しかし、神話だからこそ馬鹿にできない。なかなかに洞察の効いてるところが多い神話という感じがしますよ。
2023年2月11日土曜日
やらない善よりやる偽善?
『「見よ、わたしは病気だ」–悪い行為はそう語る。それが悪い行為の正直さである。だが、ちっぽけな考えはかび類に似ている。それははいまわり、もぐり、たえず所在をくらましている。–全身が小さいカビ類のために腐ってしぼむまで。』ニーチェ
偽善は、偽りの善、善のふりをした悪。
しかし、見てわかる悪よりも、偽善のほうがよほどタチが悪い。
偽善者は詐欺師に近い。
嘘つきには2種類あって、それが法螺吹きと詐欺師である。
法螺吹きは嘘をつく。しかし、単なる嘘ではなく、嘘の内容のほとんど嘘であるような嘘をつく。そのために、嘘だとわかられてしまうほどの大きな嘘、誇張されすぎた突飛な嘘となる。
しかし、詐欺師は違う。詐欺師はここぞというときしか嘘はつかない。そのほとんどは真実めいたことを言う。嘘は微妙にそれとわからないように入り混じらせるのだ。
詐欺師は詐欺を行うために、ありとあらゆる方法で信じさせようとする。そのためには真実ばかり言って、嘘は少なめのことが多い。
もちろん、映画に出てくる詐欺師は、大きな嘘を信じさせようとすることがあるが、その場合、まず自分自身を騙して、嘘を真理と思い込まなくてはならないほどだ。
詐欺と真実とは似通って見えてしまう。しかし、同じものだと考えると身を滅ぼす。
偽善もまた同じである。
胸糞が悪くなる偽善を紹介しよう。
若い女性社員にだけ、すぐに反応する同僚がいる。他の男性社員には全く手伝おうともしないのに。若い女性社員が困っていることがあったり、ミスをしたりすると飛んできて、手伝いつつフレンドリーに軽いボディタッチをしかけてみたり、ミスを叱って説教を垂れたりする。
女性社員がそれについて抗議しようとすると、「私は君のためを思って手伝おうとしてるのに感謝のひとつも言えないのか?」などと言う。
「私は善いことをしているのだ」と自分でも思い込んでいる輩も多い。
こんなときに漫画などのあの言葉を思い出してみよう。
「やらない善のよりやる偽善だ。」
確かに手助けしたり、ミスを指摘するというところは善い部分があるのだろう。しかし、だからといって肯定することは少なくとも私にはできない。
しかも、もっぱら「おまえは偽善者だ」という非難は、偽善者が善人に向かって言う言葉である。
彼ら偽善者は自分がしていることは棚に上げて、他の男性社員が女性社員を手伝おうとすると、「君はそうやって彼女の気でも引こうとしているのかね?それは偽善じゃないかね?」などと言ってきたりする。
「やらない善のよりやる偽善だ。」
これは善人が他人に偽善者だとレッテルを貼られたときに言うから印象に残る言葉なのである。
善人が善行するとき、他人からの見られ方は気にしないぞという意味で言うのであって、それは偽善ではない。
むしろ、偽善だと言われる善人は翻って偽悪者だと呼べる場合もあるかもしれない。
偽善とは、偽りの善であり、彼らが表立って悪い行為をしなくとも、決して善ではない。
2023年2月8日水曜日
サルトルが言った「信じるとは疑うことだ」ってどういうこと??
「信じるとは疑うことだ」サルトル
「信じる」とわざわざ言うということは多少は信じていないから、言う。
信じきっているものについては「信じる」とは言わない。
例えば、
「今目の前にあるのがスマホだと信じる」「今日は寒いと信じる」「昨日の怪我が痛いと信じる」とは言わない。言ったとしたら、今、目の前にあるのが本当にスマホなのかどうか実は疑い始めてしまっている。
信じるとは何かしら不確定なものについて言う。
「私は彼女が浮気していないと信じている」
「私は神がいると信じる」
それは「信じよう」という意志の表明なのであって、100%信じていることを単に表現したものではない。必ずや疑いとともにある。
2023年2月5日日曜日
『実存主義とは何か?〜実存主義とはヒューマニズムである〜』サルトル ざっくり要約
『実存主義とは何か?〜実存主義とはヒューマニズムである〜』サルトル
この本を要約してみます。
「実存が本質に先立つ」
ペーパーナイフは手紙を開くときに使うものである。道具はその用途が本質essentiaなのである。
しかし、人間は、何かのために生まれたのではなく、まず何の意味もなく、この世界に投げ出されてしまってある。これを(本質なき)実存existentiaという。
これは単にこの世界に一回生まれたというわけではなく、毎日、常にふと気づいたら(いつの間にか、すでに)この今に生まれてきていたという感じです。
確かにあのとき私は禁煙すると決心した。しかし、それとは関係なく、タバコは毎日吸いたくなる。だから、関係なく再び禁煙を決心しなければならない。というような。
人間はなんらかの意志を持ってこれこれのことをしようと世界に向かって自らを投げ打つ。これを企投と言う。
その行為は、あとあと次第に意味がわかってくるのであって、そのときにわかるようなものではない。
それは極論、死んだ後にわかるものかもしれない。
こうしてようやく彼はこれこれの人物だったという彼の本質が朧げながら浮かびがってくる。
毎日、毎回、ふと気がついたら、自分が過去に選択したことを含めたこの世界に投げ入れられており、再び何かを選択しなくてはならない。というような。
だから、究極的には死ぬまで本質など定まることはないのです。
また、次のような言葉もある。
「人間は自由という鎖に繋がれている」
そのつどつねに人間は自由の中に晒されている。
人間は、過去に、世界に、縛られていて身動きが取れないと思い込んでいる。
しかし、実際はあなたは選びうる限り自由な選択肢の只中にいる。
「存在と無」における無とは、そうした常に過去とは切り離してひとりぼっちにすることができるこの「私」のことを指しています。
今現在のここのこの私ひとり。それはデカルトの見抜いたことをフッサールが分析して、ハイデガーの概念と共にサルトルに受け入れられたと言う感じがあります。
一方では、すべてのことはあなたが選んだ過去のことが影響しており、何も選ばなかったとしても、選ばないという選択肢を選んだこととして、あなたの責任のもとにある。
確かにあのとき私は禁煙すると決心した。しかし、それとは関係なく、タバコは毎日吸いたくなる。だから、関係なく再び禁煙を決心しなければならない。というような。
いろんな人がそれぞれの本質について語ろうとする。私はこれこれのために生まれたのではないかと言う。
たぶんサルトルにとっては、それは逆で、あなたはこれこれのために生まれたものとして生きるということを選択した。だから、これこれのために生まれたものということを自らの生きる意味としようとした。だから、それらをひとつにまとめあげて、人間はこれこれのものだと規定する必要がない。
しかし、あなたがどのように生きたかということ、それが人類の少なくともひとりがそのように生きてみせたという人間の像を作り上げることに加担するわけだ。
それが「人間とは何か」ということの答えをおぼろげながら作り続ける。
労働に生きる人が増えれば、労働が人の本質になるし、
愛に生きる人が増えれば、愛が人の本質になるのだ。
いかがでしょうか?
被投性Geworfenheit : 世界に投げ出されていること
企投Entwurf : 何かをしようと世界に向かって自らを投げ打つこと
実存: 現に存在していること。この世界に実際に今ここで生きていること。現存在Dasein 。
「実存主義とは何か」は読みやすいし、当時フランスでベストセラーになっていたようなので、ぜひ一度読んでみてくださいな。
もう読んだ人はそれより厳密な「存在と無」に挑戦。
すると「実存主義とは何か」は結構、内容としては雑だったことがわかってきます、たぶん。
サルトルの実存主義に関する他の記事↓