カントは2種類の法を考える。
法Gesetz といっても法則Gesetzのことである。どちらもGesetz。
自然における自然法則
人間社会における道徳法則
これがカントの有名な言葉
「わたしたちが頻繁に、そして長く熟考すればするほどに、 ますます新たな賛嘆と畏敬の念が心を満たす二つのものがある。 それはわが頭上の星辰をちりばめた天空と、わが内なる道徳法則である。」
そのどちらもカントは理性が産出した普遍的な法則だと考えて居る。
自然法則は、仮言的な命題に関わる。因果関係である。「AであるならばBである」というような。
道徳法則は、定言的な命法に関わる。「Aせよ」というような。
安部火韻にはなんとなくカントの言っていることが過去と未来との関連によるように思われる。
原因結果というのは過去に遡るものであって、それの解明に関するもの。未来については予測はできたとしても、絶対にそうであるとは決して言えない。過去になってはじめて固定したものとして分析したり認識したりできる。
未来や現時点での観測を超えたところのものについて理性が何かを言うのは越権であると。
一方で、道徳法則とそれにまつわる定言的な命法は、今までがどうであれ、それとは関係なく「Aせよ」という未来に向かっての行為に関するものである。だから、自由意志に関わる。
そして、それはそもそも未来に向かっているが故に、理性がそこまで述べてしまっても越権であるとは言えない。
「過去の決心は確かにそこにある。だがそれは、私がそれを意識しているという事実そのものによって、凝固し、無効になり、超出されている。」サルトル
つまり、昨日に決心しても、再び今日も決心しなくてはならない。昨日の決心は確かにしたけれど、過去の行為や意思決定如何は常に無効化してしまうのだ。
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