Also sprach Zarathustra
ツァラトゥストラはこう語った。
Friedrich Wilhelm Nietzsche
序文は大切ですが、飛ばします。
“Von den drei Verwandlungen”
3つの変容について
から始めます。
“Meine Brüder, wozu bedarf es des Löwen im Geiste?
我が兄弟よ、なにゆえ精神に獅子が必要とされるのか?
Was genügt nicht das lastbare Thier, das entsagt und ehrfürchtig ist?
なぜ重荷を担う、諦念と畏敬の念に満ちた、動物では不十分なのか?
Neue Werthe schaffen
新しい価値の創造
- das vermag auch der Löwe noch nicht:
それは獅子にはまだできない。
aber Freiheit sich schaffen zu neuem Schaffen
しかし、新しい創造をするための自由の創造
- das vermag die Macht des Löwen.”
それは獅子の力によって、なし得るのだ。
精神の三つの変容
第一の精神、最も重いものが何かを問い、それを力を誇示するために背負おうとする駱駝。
第二の精神、駱駝は最も孤独な砂漠において「我欲す」の獅子(ライオン)へと変容し、「汝為すべし」の竜(ドラゴン)と戦い、自由を手にする。おそらくだが、竜とは背負っていたものと思われる。
第三の精神、自由を手にした獅子は、常に忘却し常に新たに価値を創造するという遊戯をする幼子となる。
この3変容は守破離に似ていますね。
守破離とは、まず師の教えを守り、その教えを破り、師から離れて独り立ちしてこそ師に報いるのだという訓示です。
「規矩作法 守り尽くして破るとも離るるとても本を忘るな」千利休のこの言葉が源流と言われています。のちに利休の流派の茶人が明示しました。
「弟子に教るは守、弟子は守を習尽し能成候へば、おのずと自身より破る。離はこの二つを合して離れて、しかも二つを守ることなり」「不白日記」千利休の流れを汲む茶人、不白
⚠️ちなみに良く間違えられるが世阿弥は序破急。
この不白日記の文を読むと私はヘーゲルを思い出しますねw
ヘーゲルはまず最初があり、それへのアンチがあり、その2つの相反するものが総合されて、かつ、両方でもないというものを創造していく過程に注目した感じがあるので。
ニーチェの3つの変容も実はヘーゲルを思わせるところがあります。
ヘーゲルの逆というか。
主人と奴隷の弁証法の逆。
主人と奴隷の弁証法。
これはヘーゲルの主著「精神現象学」に出てくる何か精神に関する象徴的な話。
自由を目指す二つの自己意識の対立があり、勝った方は主人、負けた方は奴隷となる。
ちなみに勝つのは、相手より自然から自由な者、相手より死を恐れなかった者ということになっている。
通常、自然的なものに拘束されている2人。
勝った主人は、奴隷に自然的なものに従事させることによって、自然からの自由を手にする。
一方、奴隷は自然を加工する仕事に従事し、自由ではない。
ところが、奴隷は次第に自然を加工する技術を獲得して自由となり、また、主人に屈服することによって、一度我慢することを学ぶ。
それが主人無き後の世界、他人と共にいろいろな困難を解決する民主主義的な政治への準備となる。
ここでは、幼子が獅子(青年)となり、駱駝(大人)へと変化することが書かれており、ニーチェはこの逆を意識でしていたのではないかと推測できる。
なんか神話みたいな話だね。
精神現象学はおそらく近代の神話です。
しかし、神話だからこそ馬鹿にできない。なかなかに洞察の効いてるところが多い神話という感じがしますよ。
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