『実存主義とは何か?〜実存主義とはヒューマニズムである〜』サルトル
この本を要約してみます。
「実存が本質に先立つ」
ペーパーナイフは手紙を開くときに使うものである。道具はその用途が本質essentiaなのである。
しかし、人間は、何かのために生まれたのではなく、まず何の意味もなく、この世界に投げ出されてしまってある。これを(本質なき)実存existentiaという。
これは単にこの世界に一回生まれたというわけではなく、毎日、常にふと気づいたら(いつの間にか、すでに)この今に生まれてきていたという感じです。
確かにあのとき私は禁煙すると決心した。しかし、それとは関係なく、タバコは毎日吸いたくなる。だから、関係なく再び禁煙を決心しなければならない。というような。
人間はなんらかの意志を持ってこれこれのことをしようと世界に向かって自らを投げ打つ。これを企投と言う。
その行為は、あとあと次第に意味がわかってくるのであって、そのときにわかるようなものではない。
それは極論、死んだ後にわかるものかもしれない。
こうしてようやく彼はこれこれの人物だったという彼の本質が朧げながら浮かびがってくる。
毎日、毎回、ふと気がついたら、自分が過去に選択したことを含めたこの世界に投げ入れられており、再び何かを選択しなくてはならない。というような。
だから、究極的には死ぬまで本質など定まることはないのです。
また、次のような言葉もある。
「人間は自由という鎖に繋がれている」
そのつどつねに人間は自由の中に晒されている。
人間は、過去に、世界に、縛られていて身動きが取れないと思い込んでいる。
しかし、実際はあなたは選びうる限り自由な選択肢の只中にいる。
「存在と無」における無とは、そうした常に過去とは切り離してひとりぼっちにすることができるこの「私」のことを指しています。
今現在のここのこの私ひとり。それはデカルトの見抜いたことをフッサールが分析して、ハイデガーの概念と共にサルトルに受け入れられたと言う感じがあります。
一方では、すべてのことはあなたが選んだ過去のことが影響しており、何も選ばなかったとしても、選ばないという選択肢を選んだこととして、あなたの責任のもとにある。
確かにあのとき私は禁煙すると決心した。しかし、それとは関係なく、タバコは毎日吸いたくなる。だから、関係なく再び禁煙を決心しなければならない。というような。
いろんな人がそれぞれの本質について語ろうとする。私はこれこれのために生まれたのではないかと言う。
たぶんサルトルにとっては、それは逆で、あなたはこれこれのために生まれたものとして生きるということを選択した。だから、これこれのために生まれたものということを自らの生きる意味としようとした。だから、それらをひとつにまとめあげて、人間はこれこれのものだと規定する必要がない。
しかし、あなたがどのように生きたかということ、それが人類の少なくともひとりがそのように生きてみせたという人間の像を作り上げることに加担するわけだ。
それが「人間とは何か」ということの答えをおぼろげながら作り続ける。
労働に生きる人が増えれば、労働が人の本質になるし、
愛に生きる人が増えれば、愛が人の本質になるのだ。
いかがでしょうか?
被投性Geworfenheit : 世界に投げ出されていること
企投Entwurf : 何かをしようと世界に向かって自らを投げ打つこと
実存: 現に存在していること。この世界に実際に今ここで生きていること。現存在Dasein 。
「実存主義とは何か」は読みやすいし、当時フランスでベストセラーになっていたようなので、ぜひ一度読んでみてくださいな。
もう読んだ人はそれより厳密な「存在と無」に挑戦。
すると「実存主義とは何か」は結構、内容としては雑だったことがわかってきます、たぶん。
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