2021年12月9日木曜日

真理はひとつか?

 真理はひとつなのか?


『「真理はひとつではない」ということが真理かどうか』について考えてみる。


前提1

「真理はひとつである」か、「真理はひとつではない」か、のどちらかである。


論証1

もし「真理がひとつではない」というのが真理ならば、

「真理がひとつではない」というのが唯一の真理となるが、

そうすると

その「真理がひとつではない」という"ひとつの真理"しか認めないということになる。

そうすると、「真理はひとつではない」しかも同時に「真理がひとつである」ということとなり、矛盾する。

ゆえに、真理はひとつである。


また、次のようにも言える。

2021年10月17日日曜日

どんなときにも問う。それであなたは幸せか

 「何かがおかしいと疑問に思う。問いが溢れてがんじがらめになる。それであなたは幸せか。そうでなければ今すぐ問うことをやめろ」

そう言う人がいた。


みな、それぞれ問いや悩みに苦しんでいる。

「どうして私は評価されないのか」

「どうしてあの人があの待遇なのか」

「どうして人とうまくやっていけないのか」

「どうしてあのような不幸が起きたのか」

「どうして世の中が理不尽なのか」

あなたは悩みすぎて、もう悩みたくないと思うかもしれない。

思考停止を願い、何も考えず酔生夢死したいなど思う人がいてもおかしくはない。


だが、それは違う!と私は思う。




哲学者ミルはこう言った。

「私は、満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、 満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい。」と


それはこういうことだ。


あなたが引っかかってしまったその問いに、悩み、考え、全身全霊で向かい合う。

そのほうがどれほど人生を豊かにすることか。


確かに、あなたはその問いに直面するより、気になってしまう問題を問わずに、無視してしまえば楽であり、忘れてしまえば幸福である。


しかし、本当にそれでいいのだろうか?


例えば、地球温暖化なんてそんなこと、考えずに生きたほうが楽に決まっている。

例えば、政治だって、そんな難しいこと考えずに生きたほうが楽に決まっている。

例えば、会社にこき使われていても、それをどうにかするよりも、何も考えずに受け入れてしまったほうが楽に決まっている。


だが、本当にそれでいいのだろうか?

「悩みが深いほど、世界は美しくみえるかもしれない」


問題を問うとは、単に頭でその問題を転がして遊ぶというだけではない。


その問いを生きる、ということなのだ。


私たちはそうした問いを投げかけてくるこの世界にすでに投げ入れられてしまっていたんだ。


最初は、地球温暖化について本読んで頭で転がすだけでいい。だが、本当にその問題を生きるには実際にその問題の解決に当たらなくてはならない。


そのとき、その問題を身体で生きることになる。


確かに、それは大変だ。


例えば

「誰にも評価されない」

そんなことを悩んでいるとする。

頭でその問題を巡らす。焦る。どうしたらいいのかと考える。


そのとき、実際にその問題を解決するために自分の身体を動かして対処する、ということを、少なくとも意識しているか?意識するだけでいい。


実際に、その解決のために現実を動かすことが難しくても、動かそうという意識を持っていたか?


だが、そのとき、問いは単なる頭の中だけのものではなくて、問いを生きていることになる。


そうして、実は、その問いを通して、自分自身と向き合っているとも言える。


「何をそう難しく考えているの?」

「考えないほうが楽に生きれるよ」

「若いねぇ」

「世の中、甘くないよ」

などと言って世間はあなたの問いを思考を潰して何も考えない人間にしようとしてくることがある。

あなたはあなただけが気にしているかもしれないその問いを言われるままに潰してしまうかもしれない。そのほうが楽だから。


しかし、むしろ、あなたはその問いを守るべきなのである。


それはあなたの感受性に引っかかる問い、他ならぬあなただけの問いなのだから。


あなたが感じた世の中の理不尽をあなたなりに生きたほうが、それは苦しいことだろうし、現実には解決できないかもしれないが、それでも無視しないほうが良いと言える。


問いを生きるということは、幸せじゃないかもしれない。

その問いを持ってしまった自分自身をごまかさずに、生きる。

それは苦しいことかもしれない。

その問いを通して、あなたにとっての世の中の理不尽さに直面することかもしれない。

それで幸せかどうか?

幸せじゃなくてもいいじゃないか?

問いに向き合わずに誤魔化した脆い幸せを生きて、何も知らずに死んでいく。


そう、あなたはいずれ死んでしまう。100年先か、50年か、明日か。

何年生きようとも死んでしまう。

それは事実だ。


ただその事実を見据えるだけでも、すでに幸福とは言えないんじゃないか?


ということは幸福とはすべてまやかしなのではないか?


むしろ、あなた自身の問いを大切にし、育て、考え続けること。

あなたがあなたとして生まれてきたなら、それをすべきなんじゃないか??


なぜなら、あなた自身の固有の問いを生きることで、あなたはあなた自身に忠実でいられるから。


この世界にあなたはあなた自身として生まれたのだから。


どんなときにも問う「それであなたは本当に求めていることなのか?」と。そうでなければ、それはやめろ。



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追記:中島義道の哲学は私の中に深く刺さっており、その影響下にあるため、読んだことのある方は、この記事を彼と同じことを言っているように感じられると思います。

2021年9月25日土曜日

仕事workと労働laborの違いは何か? ~何かするならクリエイティブなことをしたいのでは?~

仕事というのは、英語ではworkと言われる。


英語ではworkは他に「(芸術)作品」を意味している。

つまりは、仕事とは創造である。

ロックの影と言われるヴェルヴェットアンダーグラウンドのかつてのメンバー、ルー・リードとジョン・ケイルが出したウォーホル追悼のアルバム「ソングスフォードレラ」に"work"という曲があるが、ウォーホルの作品制作とそれによる仕事のふたつの意味を指している。

workという考えを持って、諸企業はこぞってイノベーションを繰り返し目指し創造的なことを成し遂げようとする。
スティーブ・ジョブズの製品への熱いこだわりのような。

そこには、全体として進んでいくべきビジョンがある。

企業理念なんかがそれにあたるのだろう。

その理念へ向けて会社全体が動いていく。

社会を創造していく。

そういう目的論的なものなのだ。


一方で、これに対する概念としては労働laborが挙げられる。

laborとは従事すること。

つまりはある指示や作業に従うこと、服従することである。

ちなみに、このlaborという語チェコ語ではrobita(強制労働)といい、文字通り、robotの語源である。

チェコのチャペックという作家の描いた最初のロボット小説の通りである。ロボットとは最初から主人に服従するものとして確立していたのである。



マルクスはこの仕事と労働の違いを見抜いていた…らしい。

2021年9月20日月曜日

自我論を端的にまとめました。

「私とは何か」カントとヘーゲルのエッセンスから考える。


これはカントが考えていたことなのですが、


(目の前に現れる知覚されるものや感じるもの、


肉体的であれ心的であれ記憶であれ、という)現象に


(言葉や記号といった)概念や


(時空間上に位置付けていく)直観を


結びつけるものがあり、


それは統覚と呼ばれています。

この統覚こそが根源的な私ではないかという議論があり、


実際のところ、

統覚の権利として

表象を様々に結びつけたのちに、

「と私は思う」という一文を付与することが可能になっています。


しかしながら、

カント自身はこの統覚を安易に「(本物の)私」などと呼ぶことに慎重になっており、

むしろ、この統覚が私と私でないものを経験的に区別していくことで

経験的な「私」というものが立ち現れる。

そのように考えています。



そして、その立ち現れ方は、

(これはヘーゲルや心理学からヒントを得ていることですが)

他人との出会いによってです。

例を出して、考えていくと、

ある人は「痛い」と言ってのたうち回っている。

しかし、「痛み」の現象が全く知覚されていない。

しかし、その痛がる姿に、かつて痛かった時の記憶を想起させるなにがしかがある。

それゆえ、この人は私ではない存在、他人である。


「今、私は痛くないが、その私に多少なりとも似たふるまいをする他人は痛いのだろう」


そのことによって、無意識に他人を確定しており、他人でないものを私と言っている。


というようなことを無意識的に規定してしまっている世界に生きているのです。


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2021年9月19日日曜日

孤独から世界を超えるところまで

~~~~~~~~~~~~

「ねえ、つれて行って。私も」 

「だめだったら」

 少年は怒ったような声色だった。

「海は、二人でたのしみに出かける場所じゃない。人間が、一人きりでぶつかりに行く相手なんだ」 

「私よりも、海のほうが好きなの?」 

少年はいらだち、神経質に眉をよせた。 

「君といっしょにいると、僕は、ときどきもう一人の自分が、ひどく遠いところに置き去りにされているような気分になる。

僕は、そのもう一人の自分を取り戻すために海へ行くんだ。

・・・海は、人間を本当の一人きりにしてくれる場所だからね」 

「どうして一人きりになりたがるの?」

「女にはわからないさ」 

少年はきびしい顔で答え、ふいに白い歯を光らせて笑いかけた。そして、いった。

「君を好きだよ」 

スナイプはすでに岸を離れていた。



~~~『朝のヨット』山川方夫『夏の葬列』集英社から~~~


孤独哲学


私は一人そこにいた。

私は孤独を感じた。

私はただ漠然と孤独を感じた。

私は一人考え始めた。


孤独とは何だろうか。

孤独... こうしてただ一人でいること。


大抵の場合、ここで、孤独とは何かという問いは終り、孤独になると何を感じるか、あるいはなぜ孤独に感じるのかという問いにすりかわる。

というのも、これ以上どうやって問うたらいいのか、そもそもそれ以上追及することになんの意味があるのか分からないからだ。


そうして、人はただ孤独感を晴らそうとする。

だが、私はこのまま孤独とは何かを問いつづけよう。

孤独の定義内容つまり孤独とは何かが分からないというのであれば、孤独ではないということがいかなることかを考えればよいのだ。

では、孤独ではないとは、どういうことだろうか。

それは誰かといるということであろう。


誰かと居るとは、ただ同一の空間に2人の人がいるということではない。


想像してみよう。

たくさんの人通り、誰も私を振り返ることも無く、それぞれがそれぞれ別々の目的に向かって歩いている。

誰も振り返ることも無く、ましてや話しかけることもなく…。

たとえたくさんの人がまわりにいたとしても、その人とコミュニケーションを取っていないのであれば、彼は孤独だろう?


多くの人と、同一近接空間にいながらにして孤独であることを孤立という。


では、その人たちが彼とコミュニケーションを取っていたとしたらどうだろうか。

コミュニケーションを取っているならば、それは確かに孤独ではないと考えるかもしれない。が…、

例えば、両者の意見の食い違いにより、口論議論をしていたら、

それはあるコミュニケーションの成立状態にあるとは言えるが、

同じ意見をもつ同士のいない彼は孤独ではないだろうか。


では、同じ意見をもつ人間がいるならばどうだろうか。

その人は彼を承認してくれ賞賛してくれる。

確かにそれならば、孤独ではないと言われる。


が、それでも孤独である場合は多々ある。

例えば、著名な作家、アーティストは、人々からしばし賛同を受け、彼を承認してくれる。

ところが、彼らは理解されていないと孤独を感じることが多い。


アーティストは、大衆は我々を理解していないと感じる。

私自身を理解できるのは、私自身であると感じる。

そのことによって孤独なのである。


ただ、これは、たとえ本人以上に彼のことを友人が理解していたとしても、彼が友人の自分への理解を予期していなければ、同じことである。

また、理解していたとしても、彼がその友人を理解していない、信用していない、あるいは、その友人に興味がなければ彼は孤独に感じる。

そもそものところこの孤独を感じる私とは何であろうか。

最後にどれほど以上の条件を満たしていたとしても、哲学的洞察によって、他の誰にも変わることのない「この私」の特殊性を自覚すれば、彼は孤独感を感じる。


以上の考察に共通するのは、彼が意識を自己に向けているということである。


これは意識が他者に差し向けられていないということ、ではない。

遠距離の彼女は、愛する人のことを、意識するほどに寂しさを感ずる、しかし、恋人はそれだけ自分のことをも意識しているので寂しさを感ずるのだ。


逆に、孤独であって良いという人もいる。

「俺はみんなに理解されたくはない。俺はみんなとは違う存在でいたいからだ。」

「俺はみんなとはあえて違うものを選ぶ」

などと主張する人がいる。


しかし、そういう人ほど月並みの凡人だったりするのだ。


実のところ、その主張自体が、世間で言われる「みんな違ってみんなよい」とか「個性を尊重しよう」とか「あなたは特別で唯一の存在」「みんなとはちょっと違った生き方をしよう」といったありきたりな文句に無意識に流されている可能性があるのだ。


そこからわかること、それは孤独とは、これはナルシシズムの可能性を秘めているということだ。


いや、むしろ、

ナルシシズムこそが孤独の根源、なのかもしれない。

ナルシシズムとは自己を愛することなのだが、正確には自己のイメージ、自己像を愛すること。

人は自己それ自身を見たり聞いたり愛したりすることはできない。


そもそも、自己それ自身が存立しているのかどうかも分からない。


だが、創り上げられた自己像、生まれた自己イメージは、自己に関する過去の断片と感じることを集めて「私」という概念にまとめあげた像のこと。


「私とは何か」などと問うとき、人はナイーブにこうした自己像に頼りがちだが、実際は、私が持っているある感じとして、断片的なものがあるだけである。


私というものは、

特に、鏡に映して、あるいは他人という鏡に映してはじめて存在せしめるものなのです。

ゆえに、精神分析医ラカンが言うように本当は鏡像のようなものに過ぎない。


それは他者像に似せて作られた像なのだ。


そうした自己像と他者像、その間の感覚的な距離がさみしさの発生源かもしれない。


しかし、ここで次のように問えると気付くだろう。

すなわち、はたして寂しさと孤独とは同じものなのかと。

寂しさと孤独とは異なる。

恋人を待つ少女は寂しくはあるかもしれないが孤独ではないはずだ。

その少女が孤独になるとき、それは恋人が結局連絡なしにとうとう来なかったときである。


孤独とは、私の居場所の確定とその外部への私の意識で生じる。

私の居場所とは文字通り私が居る場所のことである。

それは私の世界とでもいえるだろうか。

私の力の及ぶ同一性の及んでいる世界である。

私の意識と認識の及ぶ世界である。

私が「こうである」と思いこんでいる世界である。


あの人はこう思っているに違いないとか、普通こういうときはこうするものだという推察や推測から、

ここは夢ではないとか、ここには酸素があるとか、私は生きているとか、物理的な力が働いているといった当たり前だという感じがかなり強いものまで含めて、

私は「これこれのことはこうである」と思っている。

その世界のことだ。


「だれもが自分の視野の限界を世界の限界だと思っている。」ショーペンハウアー


レヴィナスはこれを「totalité(全体性)」と呼んだ。


ではその外部とはなんだろうか? 

想定外の世界という可能性を多分に含んだ領域である。

その想定外の可能性とは、

起こるとは思えないほどの大きな地震が起きたり、信じきっていた人が裏切ったり、こうだろうと思いこんでいた街角から自転車が突っ込んできて事故したり、思わぬ憧れの人から告白されたり、末期ガンが奇蹟的に治ったり、

死人が生き返ったり、未開の地の奇妙な風習の民族とであったり、未知なる惑星の思いがけない不思議な現象を見たり、究極的には、数学や物理学、論理学さえもが私が知っていることが通用しない世界に至るまで。

しかし、そんなことを今、可能性として、当たり前の想定になってしまったり、あるいは出会って知ってしまうと、想定外の世界は、今後想定内となり、全体性へと帰す。

しかしまた、新たな想定外に出会うだろう。

それは限りがない。

レヴィナスはこうした運動性を「infinite(無限)」と呼んだ。


孤独は(他人との)無限という関係において生まれる。


常に、相手の意外なところを知り続ける、しかし、常にまだ、知らない一面も生産され続ける。

相手のことを知って、この人ってこういう人だよねという了解のもとで生きる。

しかしまた、それは覆される。


それを肯定的に捉えられるか?


肯定的に捉える精神は新たな一面をおもしろいと思う好奇心。

一方、否定的に捉える精神は、壁である。

相手のことに永遠にたどり着けないという絶望、それが孤独に通じる。


それは相手をすべて知りたい、という飽くなき欲望に基づいている。


そしてまた、人は常にすべての人を意識しつつ生きているわけではない。


恋人を待つ少女は、恋人がやってきつつあるという世界を生きている。

しかし、とうとう恋人が来なかったとき、その連絡なき恋人がどうしているのかわからないという不安な状態にあって、その恋人の世界と、少女の世界とが分断されてしまっているのだ。


そのとき、彼女は想定外の可能性の世界に向けて、その真っ只中にいるのだ。


こんなとき、自分の世界を超えた外部へと意識が差し向けられやすくある、のではないだろうか?




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2021年9月18日土曜日

不可知論とカント

 18世紀、カントという大哲学者がいた。



彼の残した世界一難しいと言われる本「純粋理性批判」

この話をしたい。


そもそもこれは何を述べた本なのか?


タイトルから察するに純粋理性を批判する本なのだろうという。


その通りである。

カントは批判を吟味するぐらいの意味で使っているので、

純粋理性を吟味した本と言える。


我々は理性を使ってさまざまな事柄を認識している。

眼の前にパソコンの画面やスマホの画面があるということが分かるのも、計算ができるのも、持っている物を離すと落ちることを知っているのも、すべて理性である。

(正確には、カントは目の前の現象に妥当させる理性を悟性と呼んで区別はしているが)


そして、カントはこの理性の能力がどこまで適応できるかということの限界を見極めようとしたのである。


そうして、理性の能力の限界を超えてしまうがゆえに、判断不可能なものが三つあるということを結論した。

その三つが、魂の実体性、世界の限界、神の存在である。

ひとつめは理性は「魂は単純な実体として存在しており、それゆえに不死である」というような推理をしてしまうことである。

カントは、これを頭で考えるだけで結論付けようとする純粋理性の誤謬推理であるとして否定した。


二つめは、理性は

「世界(宇宙)の時空間的な広がりに限界はあるか」

「世界(宇宙)の物体は無限に分割可能か」

「世界(宇宙)に自由は可能か」

「世界(宇宙)に第一原因(世界で変化が起きるためのそれ以上遡ることのできない最初の原因)は存在するか」

という四つの命題について判断できない、というものである。

「そうである」とも、「そうではない」とも結論付けることができてしまうのである。

これを純粋理性の二律背反という。


最後に神は存在証明についてである。

神の存在証明について多くの神学者(スコラ哲学者)や哲学者が取り組んできたが、それらのすべては存在が理性によって証明できたからと言って実在すると結論するということはできないというものである。


判断不可能であるというのは、知ることができないということなのである。

こうして、カントは、神や魂や世界の限界に対する不可知論の立場を不可知論という言葉がない時代に明確に打ち出したのだ。

(不可知論という言葉は、ダーウィンの進化論を擁護する生物学者トマス・ヘンリ・ハクスリーによって提唱されたとされる)


そして、これら三つのものの本当の姿を物自体と呼んでいた。

しかし、物自体はあるということの意味は、

神と魂と世界の限界はあるということでは全然無く、本当は、

神の存在はいるかいないかのどちらかであり、

魂は実体であるか属性であるかのどちらかであり、

世界の限界はあるかないかのどちらかである、

というようなことで、どちらかは不可知だが、どちらかとして存在するはずであるという意味なのである。

そうでなく、物自体が存在するということを例えば無限分割は不可能であり、最小の実体が存在するとかいう意味なのであれば、カントが執拗なまでに理性による認識はできず判断不可能であることを主張したことを自ら無駄にしているという矛盾に陥る。


では、自然科学においてカントの問題は解決されたか?

これについてはまたのちのブログにて書きます。


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「多様性」という概念のあいまいさと危険性

「多様性」についてある哲学カフェで論じられていた。

しかし、なんだか、参加者が「多様性」について、ピンときていない感じがあった。

なぜなら、そこには明確な問いがなかったからだろう。

多様性と言う概念の周りをうろついている感じであった。

公開するものとしては、予習がなされていないようだったが、そういううろつきでも得られるものがあるのだろう。


だが、

それを見て、私は物足りなさを感じた。

それをきっかけにした私の欲は、もっと深く「多様性」について掘り下げること。


そもそも問題は何だろうか?


問題を明確にしたい。

そのために、もう少し深く「多様性」の周りをうろついてみたい。