仕事というのは、英語ではworkと言われる。
「もし活動としての哲学が、考えること自体に対して考えるという批判的作業でないとするなら、今日、哲学とはいったい何であろうか? 別の仕方で考えるということが、いかに、どこまで可能なのかと知る試みに哲学が存立していないとするなら、哲学とはいったい何であろうか?」 ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅱ―快楽の活用(原著14-15頁)』
2021年9月25日土曜日
仕事workと労働laborの違いは何か? ~何かするならクリエイティブなことをしたいのでは?~
2021年9月20日月曜日
自我論を端的にまとめました。
「私とは何か」カントとヘーゲルのエッセンスから考える。
これはカントが考えていたことなのですが、
(目の前に現れる知覚されるものや感じるもの、
肉体的であれ心的であれ記憶であれ、という)現象に
(言葉や記号といった)概念や
(時空間上に位置付けていく)直観を
結びつけるものがあり、
それは統覚と呼ばれています。
この統覚こそが根源的な私ではないかという議論があり、
実際のところ、
統覚の権利として
表象を様々に結びつけたのちに、
「と私は思う」という一文を付与することが可能になっています。
しかしながら、
カント自身はこの統覚を安易に「(本物の)私」などと呼ぶことに慎重になっており、
むしろ、この統覚が私と私でないものを経験的に区別していくことで
経験的な「私」というものが立ち現れる。
そのように考えています。
そして、その立ち現れ方は、
(これはヘーゲルや心理学からヒントを得ていることですが)
他人との出会いによってです。
例を出して、考えていくと、
ある人は「痛い」と言ってのたうち回っている。
しかし、「痛み」の現象が全く知覚されていない。
しかし、その痛がる姿に、かつて痛かった時の記憶を想起させるなにがしかがある。
それゆえ、この人は私ではない存在、他人である。
「今、私は痛くないが、その私に多少なりとも似たふるまいをする他人は痛いのだろう」
そのことによって、無意識に他人を確定しており、他人でないものを私と言っている。
というようなことを無意識的に規定してしまっている世界に生きているのです。
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2022年1月23日(日)15:00~哲学会
正義・恐怖・狂気
フーコーの哲学で見るバットマン
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講師:安部火韻 参加費:2000円 初心者も大歓迎、オンライン受講も可能。 オンライン講座、哲学会。 哲学に詳しい安部火韻講師が、スライドを見ながらの哲学の講義を行います。 →オンライン受講受付
2021年9月19日日曜日
孤独から世界を超えるところまで
~~~~~~~~~~~~
「ねえ、つれて行って。私も」
「だめだったら」
少年は怒ったような声色だった。
「海は、二人でたのしみに出かける場所じゃない。人間が、一人きりでぶつかりに行く相手なんだ」
「私よりも、海のほうが好きなの?」
少年はいらだち、神経質に眉をよせた。
「君といっしょにいると、僕は、ときどきもう一人の自分が、ひどく遠いところに置き去りにされているような気分になる。
僕は、そのもう一人の自分を取り戻すために海へ行くんだ。
・・・海は、人間を本当の一人きりにしてくれる場所だからね」
「どうして一人きりになりたがるの?」
「女にはわからないさ」
少年はきびしい顔で答え、ふいに白い歯を光らせて笑いかけた。そして、いった。
「君を好きだよ」
スナイプはすでに岸を離れていた。
~~~『朝のヨット』山川方夫『夏の葬列』集英社から~~~
孤独哲学
私は一人そこにいた。
私は孤独を感じた。
私はただ漠然と孤独を感じた。
私は一人考え始めた。
孤独とは何だろうか。
孤独... こうしてただ一人でいること。
大抵の場合、ここで、孤独とは何かという問いは終り、孤独になると何を感じるか、あるいはなぜ孤独に感じるのかという問いにすりかわる。
というのも、これ以上どうやって問うたらいいのか、そもそもそれ以上追及することになんの意味があるのか分からないからだ。
そうして、人はただ孤独感を晴らそうとする。
だが、私はこのまま孤独とは何かを問いつづけよう。
孤独の定義内容つまり孤独とは何かが分からないというのであれば、孤独ではないということがいかなることかを考えればよいのだ。
では、孤独ではないとは、どういうことだろうか。
それは誰かといるということであろう。
誰かと居るとは、ただ同一の空間に2人の人がいるということではない。
想像してみよう。
たくさんの人通り、誰も私を振り返ることも無く、それぞれがそれぞれ別々の目的に向かって歩いている。
誰も振り返ることも無く、ましてや話しかけることもなく…。
たとえたくさんの人がまわりにいたとしても、その人とコミュニケーションを取っていないのであれば、彼は孤独だろう?
多くの人と、同一近接空間にいながらにして孤独であることを孤立という。
では、その人たちが彼とコミュニケーションを取っていたとしたらどうだろうか。
コミュニケーションを取っているならば、それは確かに孤独ではないと考えるかもしれない。が…、
例えば、両者の意見の食い違いにより、口論議論をしていたら、
それはあるコミュニケーションの成立状態にあるとは言えるが、
同じ意見をもつ同士のいない彼は孤独ではないだろうか。
では、同じ意見をもつ人間がいるならばどうだろうか。
その人は彼を承認してくれ賞賛してくれる。
確かにそれならば、孤独ではないと言われる。
が、それでも孤独である場合は多々ある。
例えば、著名な作家、アーティストは、人々からしばし賛同を受け、彼を承認してくれる。
ところが、彼らは理解されていないと孤独を感じることが多い。
アーティストは、大衆は我々を理解していないと感じる。
私自身を理解できるのは、私自身であると感じる。
そのことによって孤独なのである。
ただ、これは、たとえ本人以上に彼のことを友人が理解していたとしても、彼が友人の自分への理解を予期していなければ、同じことである。
また、理解していたとしても、彼がその友人を理解していない、信用していない、あるいは、その友人に興味がなければ彼は孤独に感じる。
そもそものところこの孤独を感じる私とは何であろうか。
最後にどれほど以上の条件を満たしていたとしても、哲学的洞察によって、他の誰にも変わることのない「この私」の特殊性を自覚すれば、彼は孤独感を感じる。
以上の考察に共通するのは、彼が意識を自己に向けているということである。
これは意識が他者に差し向けられていないということ、ではない。
遠距離の彼女は、愛する人のことを、意識するほどに寂しさを感ずる、しかし、恋人はそれだけ自分のことをも意識しているので寂しさを感ずるのだ。
逆に、孤独であって良いという人もいる。
「俺はみんなに理解されたくはない。俺はみんなとは違う存在でいたいからだ。」
「俺はみんなとはあえて違うものを選ぶ」
などと主張する人がいる。
しかし、そういう人ほど月並みの凡人だったりするのだ。
実のところ、その主張自体が、世間で言われる「みんな違ってみんなよい」とか「個性を尊重しよう」とか「あなたは特別で唯一の存在」「みんなとはちょっと違った生き方をしよう」といったありきたりな文句に無意識に流されている可能性があるのだ。
そこからわかること、それは孤独とは、これはナルシシズムの可能性を秘めているということだ。
いや、むしろ、
ナルシシズムこそが孤独の根源、なのかもしれない。
ナルシシズムとは自己を愛することなのだが、正確には自己のイメージ、自己像を愛すること。
人は自己それ自身を見たり聞いたり愛したりすることはできない。
そもそも、自己それ自身が存立しているのかどうかも分からない。
だが、創り上げられた自己像、生まれた自己イメージは、自己に関する過去の断片と感じることを集めて「私」という概念にまとめあげた像のこと。
「私とは何か」などと問うとき、人はナイーブにこうした自己像に頼りがちだが、実際は、私が持っているある感じとして、断片的なものがあるだけである。
私というものは、
特に、鏡に映して、あるいは他人という鏡に映してはじめて存在せしめるものなのです。
ゆえに、精神分析医ラカンが言うように本当は鏡像のようなものに過ぎない。
それは他者像に似せて作られた像なのだ。
そうした自己像と他者像、その間の感覚的な距離がさみしさの発生源かもしれない。
しかし、ここで次のように問えると気付くだろう。
すなわち、はたして寂しさと孤独とは同じものなのかと。
寂しさと孤独とは異なる。
恋人を待つ少女は寂しくはあるかもしれないが孤独ではないはずだ。
その少女が孤独になるとき、それは恋人が結局連絡なしにとうとう来なかったときである。
孤独とは、私の居場所の確定とその外部への私の意識で生じる。
私の居場所とは文字通り私が居る場所のことである。
それは私の世界とでもいえるだろうか。
私の力の及ぶ同一性の及んでいる世界である。
私の意識と認識の及ぶ世界である。
私が「こうである」と思いこんでいる世界である。
あの人はこう思っているに違いないとか、普通こういうときはこうするものだという推察や推測から、
ここは夢ではないとか、ここには酸素があるとか、私は生きているとか、物理的な力が働いているといった当たり前だという感じがかなり強いものまで含めて、
私は「これこれのことはこうである」と思っている。
その世界のことだ。
「だれもが自分の視野の限界を世界の限界だと思っている。」ショーペンハウアー
レヴィナスはこれを「totalité(全体性)」と呼んだ。
ではその外部とはなんだろうか?
想定外の世界という可能性を多分に含んだ領域である。
その想定外の可能性とは、
起こるとは思えないほどの大きな地震が起きたり、信じきっていた人が裏切ったり、こうだろうと思いこんでいた街角から自転車が突っ込んできて事故したり、思わぬ憧れの人から告白されたり、末期ガンが奇蹟的に治ったり、
死人が生き返ったり、未開の地の奇妙な風習の民族とであったり、未知なる惑星の思いがけない不思議な現象を見たり、究極的には、数学や物理学、論理学さえもが私が知っていることが通用しない世界に至るまで。
しかし、そんなことを今、可能性として、当たり前の想定になってしまったり、あるいは出会って知ってしまうと、想定外の世界は、今後想定内となり、全体性へと帰す。
しかしまた、新たな想定外に出会うだろう。
それは限りがない。
レヴィナスはこうした運動性を「infinite(無限)」と呼んだ。
孤独は(他人との)無限という関係において生まれる。
常に、相手の意外なところを知り続ける、しかし、常にまだ、知らない一面も生産され続ける。
相手のことを知って、この人ってこういう人だよねという了解のもとで生きる。
しかしまた、それは覆される。
それを肯定的に捉えられるか?
肯定的に捉える精神は新たな一面をおもしろいと思う好奇心。
一方、否定的に捉える精神は、壁である。
相手のことに永遠にたどり着けないという絶望、それが孤独に通じる。
それは相手をすべて知りたい、という飽くなき欲望に基づいている。
そしてまた、人は常にすべての人を意識しつつ生きているわけではない。
恋人を待つ少女は、恋人がやってきつつあるという世界を生きている。
しかし、とうとう恋人が来なかったとき、その連絡なき恋人がどうしているのかわからないという不安な状態にあって、その恋人の世界と、少女の世界とが分断されてしまっているのだ。
そのとき、彼女は想定外の可能性の世界に向けて、その真っ只中にいるのだ。
こんなとき、自分の世界を超えた外部へと意識が差し向けられやすくある、のではないだろうか?
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2021年11月28日(日)15:00〜哲学会
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2022年1月23日(日)15:00~哲学会
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2021年9月18日土曜日
不可知論とカント
18世紀、カントという大哲学者がいた。
彼の残した世界一難しいと言われる本「純粋理性批判」
この話をしたい。
そもそもこれは何を述べた本なのか?
タイトルから察するに純粋理性を批判する本なのだろうという。
その通りである。
カントは批判を吟味するぐらいの意味で使っているので、
純粋理性を吟味した本と言える。
我々は理性を使ってさまざまな事柄を認識している。
眼の前にパソコンの画面やスマホの画面があるということが分かるのも、計算ができるのも、持っている物を離すと落ちることを知っているのも、すべて理性である。
(正確には、カントは目の前の現象に妥当させる理性を悟性と呼んで区別はしているが)
そして、カントはこの理性の能力がどこまで適応できるかということの限界を見極めようとしたのである。
そうして、理性の能力の限界を超えてしまうがゆえに、判断不可能なものが三つあるということを結論した。
その三つが、魂の実体性、世界の限界、神の存在である。
ひとつめは理性は「魂は単純な実体として存在しており、それゆえに不死である」というような推理をしてしまうことである。
カントは、これを頭で考えるだけで結論付けようとする純粋理性の誤謬推理であるとして否定した。
二つめは、理性は
「世界(宇宙)の時空間的な広がりに限界はあるか」
「世界(宇宙)の物体は無限に分割可能か」
「世界(宇宙)に自由は可能か」
「世界(宇宙)に第一原因(世界で変化が起きるためのそれ以上遡ることのできない最初の原因)は存在するか」
という四つの命題について判断できない、というものである。
「そうである」とも、「そうではない」とも結論付けることができてしまうのである。
これを純粋理性の二律背反という。
最後に神は存在証明についてである。
神の存在証明について多くの神学者(スコラ哲学者)や哲学者が取り組んできたが、それらのすべては存在が理性によって証明できたからと言って実在すると結論するということはできないというものである。
判断不可能であるというのは、知ることができないということなのである。
こうして、カントは、神や魂や世界の限界に対する不可知論の立場を不可知論という言葉がない時代に明確に打ち出したのだ。
(不可知論という言葉は、ダーウィンの進化論を擁護する生物学者トマス・ヘンリ・ハクスリーによって提唱されたとされる)
そして、これら三つのものの本当の姿を物自体と呼んでいた。
しかし、物自体はあるということの意味は、
神と魂と世界の限界はあるということでは全然無く、本当は、
神の存在はいるかいないかのどちらかであり、
魂は実体であるか属性であるかのどちらかであり、
世界の限界はあるかないかのどちらかである、
というようなことで、どちらかは不可知だが、どちらかとして存在するはずであるという意味なのである。
そうでなく、物自体が存在するということを例えば無限分割は不可能であり、最小の実体が存在するとかいう意味なのであれば、カントが執拗なまでに理性による認識はできず判断不可能であることを主張したことを自ら無駄にしているという矛盾に陥る。
では、自然科学においてカントの問題は解決されたか?
これについてはまたのちのブログにて書きます。
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正義・恐怖・狂気
フーコーの哲学で見るバットマン
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「多様性」という概念のあいまいさと危険性
「多様性」についてある哲学カフェで論じられていた。
しかし、なんだか、参加者が「多様性」について、ピンときていない感じがあった。
なぜなら、そこには明確な問いがなかったからだろう。
多様性と言う概念の周りをうろついている感じであった。
公開するものとしては、予習がなされていないようだったが、そういううろつきでも得られるものがあるのだろう。
だが、
それを見て、私は物足りなさを感じた。
それをきっかけにした私の欲は、もっと深く「多様性」について掘り下げること。
そもそも問題は何だろうか?
問題を明確にしたい。
そのために、もう少し深く「多様性」の周りをうろついてみたい。
2021年9月17日金曜日
歴史には法則性があるのか、それとも偶然の積み重ねにすぎないのか?という誤った問い
歴史には法則性があるのか、それとも偶然の積み重ねにすぎないのか?
この問い、問いそのものが世界を単純化し過ぎている。
私はそう感じてしまう。
(問いかけを一般化することに関してはこちらのブログ記事でも指摘したことがあります。)
歴史は、というかあらゆる物事には、法則性があって、かつ、偶然の積み重ねである場合が多いんじゃないのか?
問題なのは、もっと具体的な話で、どこまで法則が適応していて、どこからが偶然なのか、だろう。
例えば、「ナチスによるホロコーストのようなユダヤ人の大量収容と大量虐殺が起こる原因は何か」、という問いかけであれば、それがどういった点においては法則性によるのか、そして、どういった点においては今回のみしか起き得ない偶然的な事柄だったのかを調べていくことが有益になるだろう。
歴史そのものに対して法則性を見出す。
いったい誰が何によって法則性を見出すのか?
2021年9月16日木曜日
「攻殻機動隊」とソクラテスのダイモーン、埴谷雄高の死霊、そして、ハイデガーの良心の呼び声
攻殻機動隊ゴースト・イン・ザ・シェルとソクラテスのダイモーンについて話してみたいと思います。
① ゴーストとは何か?攻殻機動隊
SF「攻殻機動隊ゴースト・イン・ザ・シェル」とは、身体を脳に至るまでサイボーグ化でき、そして、脳から直接にインターネットに接続できるような世界でのお話で、マトリックスにも影響を与えたとも言われています。
この副題である「ゴースト・イン・ザ・シェル」とはどういう意味でしょうか?
日本語訳すると「貝の中の幽霊」とでも言いましょうか?
この作品で主人公素子が放つセリフに「そう囁くのよ、私のゴーストが」というセリフがあります。これは素子が自分自身の「こうだ」という無根拠の確信を自覚するときに使われるセリフです。直感を信じるみたいな。
ゴーストとはなんでしょうか?幽霊と訳されることがありますが、幽霊とは肉体から離れた魂、つまり、肉体とは区別される魂、精神という意味でもあります。
つまりそれは自分自身の魂のようなものです。
② ダイモーン(神霊)とは何か?ソクラテス
続いて、古代ギリシャの哲学者ソクラテスのダイモーンについて話します。
ソクラテスはダイモーンによって若者たちをたぶらかした罪で死刑になりました。
私はこのソクラテスのダイモーンと攻殻機動隊のゴーストとが同じなのではないか?そう私に囁きます、私のゴーストが。
ソクラテスは友人たちに「ソクラテスは無罪なのだから脱獄すべきだ」と言われます。しかし、ソクラテスは友人に反論し、この国の仕組みである裁判によって決定したことなのだから、それには従うべきだということを主張します。ここから「悪法も法なり」という言葉が生まれるのですが。
ソクラテスは、国家というダイモーンが私に語りかけてくるという仕方で話をします。
国家のダイモーンが、この国家の恩恵をあなたは受けてきたし、この国家の裁判の仕組みをあなたはあらかじめ批判していたわけではなかった。今更都合が悪くなったからと言って、国家の仕組みを無視して裏切ることはおまえにとっての正しさなのかと。
国家とはポリスであり。みなさんは制度や政府というイメージがありますが、ここで、ポリスとは人と人との共同体のようなものをイメージするとよいでしょう。
あるいは別の著作では、ソクラテスは巫女とギリシャ神話のエロース(ローマ神話でのキューピット)について話をしているのですが、その中でダイモーンとは美でも真でも善でもないということを言います。エロースは愛の神霊なので、人を愛させる力がある。しかし、エロースという愛の神霊そのものは美しいはずがない。エロースそのものが美しいならば、美を自分で持っているので、美しいものを目指さないからだ。
そうではない。神と人との中間にある仲介者のようなものだ。ということなのです。
ちなみに、ダイモーンという概念は後にキリスト教によって邪神扱いされ、悪魔を意味するデーモンという言葉になりました。
さて、攻殻機動隊ではゴーストとは私の魂のようなものであることがわかり、
ソクラテスのダイモーンとは神と人との仲介者であって何かを私に語りかけるものであることがわかりました。
③ 自我から自我を取り去ると残るのは何か?埴谷雄高
ところで、埴谷雄高という日本の作家が「死霊」という作品の中で興味深いことを書いています。
Ich + Ich = Ich
Ich - Ich = Daemon
Daemonとは、デーモン/ダイモーンのことで、Ich(イッヒ)とは「私」「自我」という意味である。
例えば(私は「私が今存在していること」を考える)とき、「」かぎかっこ内の存在する主語の【私】と()まるかっこ内の考える主語の【私】とは文法上、あるいは時間的にズレているために区別されている。しかし、その2つの【私】は根源的には同じものであることを理解している。
昨日まで、奥さんと子供がいるというニセの記憶を信じていた私と、それがニセの記憶だと知って絶望している独身男の私とが同じであるということを知っているから絶望するのだ。
その意味で、そうした様々な私をいくら足してもそれはすべてがひとつの私なのである。
では、「私」から「私」を取り去るとどうなるのか?
私から私を取り去ることなどできない。
しかし、「私」とは、ワタシという言葉に集約される様々な表象(現れ)のことである。
「私が考える」「私は痛い」などと言うが正確には、『「考え」がある』、『「痛み」がある』のであって、それらの知覚を束ねている「私」など、どこにもない。
しかし、そんな私に集約される様々なものを取り除いたあとに残るものが「私」という言葉に集約されているのにも関わらず(全く他人のようなという意味で)「私」でないもの。それがダイモーンなのである。
④ 良心の呼び声は何と言っているのか?ハイデガー
20世紀最大の哲学者と呼ばれる大哲学者ハイデガー。
彼は、「存在」について考え続けた哲学者で、
主著「存在と時間」を残しています。
そのハイデガーの哲学に、「良心の呼び声」という言葉があります。
これがダイモーン、そして、私に囁くゴーストに近いものではないだろうか?
ハイデガーはその著「存在と時間」において、人間がすぐに世間の風潮や流行、噂話や視線に流されて自分自身を失ってしまうことに注目していました。
「私」(ハイデガーの用語で現存在)はいつも世間に流される世人(ダスマン)になってしまっている。
そこで、私自身を見つめ直して本来の自分の在り方を見出すことが必要になってきます。
そこで良心の呼び声が重要になってきます。
この良心の特徴をハイデガーに即して列挙してみます。
・良心は現象ではなく在り方のうちにあり示される。
・良心は呼び声として露わにする。
・音声を発して知らせることが本質的ではない。
・良心は開示する。
・呼び声は、騒がしくなく、あいまいでなく、好奇心に依ることなく、呼ばずにはいられない。このようにして、呼びながら了解させるものが良心
・良心は、ひとりいつでも沈黙するという様態で語っています。
・呼び声は、何ごとも言表せず、世界の出来事になんらの情報も与えず、何も物語るものをもたないのです。
・呼び声は現存在自身に無を呼びかける。
・何ものも呼びつけられずにむしろ自己は自分自身へと、すなわちその最も自己的な存在了解へと呼びおこされている。
岡本太郎である前に人間だ。本来的な自己はよくちまたで言われる個性なんてものじゃない。
・自己へと人は呼びかけられるのです。
・現存在は良心のうちで、自分自身を呼ぶのです。
・負い目を持っている。
・その喚び声は黙するという不気味な様態で話す。
そういうものらしいのです。
つまり、良心の呼び声とは、不安にさせるような内容のない沈黙のようなものです。
友人が分かりやすい喩えを示してくれたのでここで紹介します。
例えば、あなたが引きこもりだったり不登校だったり鬱病で休職していたりするとする。
毎日、ふとんを被って、こう思うかもしれない。
「このままでいいや」
あるいはあるときはふとんから顔を出してこう思うかもしれない。
「このままじゃだめだ」
このとき、私は良心の呼び声はこう語っているのかもしれないのです。
「あなたはそれで本当にいいのか??」
これは「あなたはそれで本当にいいのか」という声が聞こえてくるわけではありません。
巫女や神託が有効であったソクラテスの時代にはありえたかもしれませんがw
そうではないが、しかし、私はこの声なき声を明瞭に理解するのです。
なんとなくわかります??
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2021年11月28日(日)15:00〜哲学会
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追記2022年8月
実は、スヴェンブロが、ソクラテスのダイモーンを近代的な内面の良心の声であると指摘していたらしい。
Svenbro, Jesper. “アルカイック期と古典期のギリシャ――黙読の発明”. 片山英男訳. 読むことの歴史 ヨー ロッパ読書史. Chartier, Roger; Cavallo, Guglielmo. 大修館書店, 2000, p. 33-73. 原著Histoire de la Lecture dans le Monde Occidental. Les Editions du Seuil, 1997.
2021年9月15日水曜日
安部火韻によるお勧めの深い映画
お勧めの洋画
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2021年9月14日火曜日
宇宙という世界を創造したのは「神の意思」ですか「自然法則」ですか?
宇宙という世界を創造したのは「神の意思」ですか「自然法則」ですか?
これにどちらとも答えることもできない。
こういう問いは、どのように考えていくのが良いだろうか?
「宇宙という世界」を「自然法則」が創造したとすれば、「自然法則」は宇宙という世界以前に無ければならない。
これは奇妙なことである。
「宇宙という世界」とは何か?
一般に宇宙とはtime and spaceという。つまり、空間と時間の広がりである。
この「空間と時間の広がりそのもの」を自然法則は創造することができるのか?
そもそも空間時間の内に存在している物的な存在に対して働くのが自然法則である。
したがって、そもそも空間と時間の広がりが存在する以前に物的なあらゆる存在もありえず、そうするとそれらに対して働く自然法則は存在しえない。
続いて、「神の意思」について考えてみる。
2021年9月13日月曜日
世界は複雑だってことを理解しているか?
世界は複雑なのだ。
しかし、人間はすぐに問題を単純化しようとしてしまう。
例えば、「読書か、人間関係か?」
すぐにこういう問いを発する。
どちらかに拘泥しなくとも、読書しつつ人間関係にも目を向けることだってできるし、読書の量を減らすことだってできるし、人間関係の中でも、自分にとって煩わしい人間関係だけを断ち切って、その隙間に読書を入れたり、あるいは新しい人間関係を築いたりすることだってできる。