2023年5月22日月曜日

勉強量のはかりかた?!

 かつて恩師に言われたことですが、

「量を読むことで、質がついてくる」と。

要らないものもたくさん読め、読まなければそれが要らないともわからない。

そうして、たくさん読んで考えることで、次第に読まなくていい本がわかるようになっていき、良質な読書となっていくとか。

カントを読むのに、読む前からどの翻訳がいいかとか考えない。一回読んで、別の訳で読んで、原典で読んで、誤解を取り去りつつ、理解を深めていく。


一方では、私の知り合いには、ずっと軽い本しか読めない人もいました。読書量が多いのに、ラノベみたいのばかりだから、なぜか全然、国語力がつかないと言うw



ところで勉強量とはなんでしょうか?


量というからには、簡単に考えると、論文と本の冊数とかではないでしょうか?

質ではなく、あくまでも量という。

量というからには、具体的に数値化して計れることが重要になってきます。

何ページ読んだのか。もちろん、読まなくてもいいものがほとんどかもですが、それらをも含めて数に入れて量と言えるのかなと。


私は、一応、質はおいておいて、量だけにするなら、としました。


カントをベースにした私の考え方なのですが、


例えば、色に関して、本当に繊細で文化的で一部の繊細な人にしか味わえない色彩感覚というものが「質」としてあったりしますが、これを単なる「量」に還元すると、彩度がいくつとか、明度がいくつとか、色相とか、数値に還元して「量」にして測るのです。


質は主観的で比べたりすることは難しいが、量なら比べられて、量は対象(客観)に関わっているために、客観的に妥当性があると言えてしまう。(もちろん、方法として妥当なだけで、実際に妥当かどうかはひとつひとつ個別に吟味する必要がありますが。)


そんな感じのことを、カント自身はどこまで考えていたかよくわかりませんが、私はいろいろ読んでカントや他の論文などを参考に考えたことがありました。


2023年5月12日金曜日

メタとは何か?

 「メタ的な」とか、「メタ表現」など「メタ」という言葉を「超越的な」という意味で使う人がいる。


しかし、正確には微妙に違う。


2023年3月20日月曜日

時間の無駄を無駄のままにしておくこと





「問題
   —時間を無駄にせぬためにはいかにすべきか。
答え
   —時間の永さを残りなく味わうこと。
方法
   —日々を歯医者の控室で坐り心地の悪い椅子に腰掛けて過ごすこと。
日曜の午後を自分の部屋のバルコンで暮すこと。
自分にわからない国語で行われる講演を聴くこと。
最も長く且つ最も不便な汽車の旅程を選び、勿論立ち通しで旅行すること。
劇場の切符売場で行列を作り、しかも切符を買わないこと、等々・・・・」。
カミュ「ペスト」




先日、こんなタイトルの本を見つけた。
「何もしない」
原題は”How to do nothing „


「何もしないでいることほど難しいことはない。
人間の価値が生産性で決まる世界に生きる私たちの多くが、日々利用するテクノロジーによって自分の時間が一分一秒に至るまで換金可能な資源として捕獲され、最適化され、占有されていることに気づいている。
私たちは数値評価を得るべく自由時間を差し出し、たがいのアルゴリズムと交流し、個人ブランドを維持する。
なかには、実体験のすべてを能率化、ネットワーク化することにエンジニア的満足感を覚える者もいるだろう。
とはいえ、刺激が多すぎて思考の流れが維持できなくなるかもしれないというある種の不安は残る。
意識からふと消えてしまう前にそのような不安を捉えるのはたやすいことではないが、
実のところそれは差し迫った感情なのだ。 
人生を意義あるものにしてくれるものごとの多くが、
偶然のできごとや、妨害、セレンディピティに由来すると、私たちは今でもわかっている。
それは、体験を機械的に処理する視点が排除しようともくろむ 「なんでもない時間」だ。」

1ページ目はこのような感じだ。


スポンジボブというカートゥーンを思い出した。













 蝉が無意味に鳴いている。

本当だ。蝉が無意味に鳴いている。

ミーンミーンミーンミーンミィー

Mean mean mean mean meaning!


尻上がり寿の「真夜中の弥次さん喜多さん」の舞台版より






2023年3月19日日曜日

ゴルギアス 存在も無も「何もない」(笑))(断片より書き抜き)

 ゴルギアス

「無について、もしくは自然について」

論題の第1「何もない」

もし何かがあるとすれば、それは存在があるか、無があるか、あるいは存在がありまた無もあるかのいずれかである。

しかるに、存在がないことは、これから議論が証明するところであり、また無があるのでもないことも、議論の確証するところであり、また存在も無も双方ともにあるというのでもないこと、これも議論の知らしめる通りである。

したがって何かがあるということはない。


さて無はありはしない。なぜなら、もし無があるとすれば、あると同時にありもしないということになるからである。無とはありはしないものだと考えられるかぎりにおいては、それはありはしないが、無があるならばそのかぎりでは、今度はあるということになる。だが、何かがありかつありはしないということは、どうみても不可思議である。


さらにもうひとつ別の議論として、もし無があるならば、存在はありはしないことになろう。存在と無とは正反対なのであって、もしあるが無に帰属するなら、あらぬが存在に帰属することになるからである。だが、存在がありもしないということはない。そうだとすれば、無があるということもないのである。


また存在があるのでもない。というのは、もし存在があるならば、それは永遠のものか、あるいは生成したものか、あるいは永遠であってしかも生成したものであるかである。だがそれは永遠のものでもなければ、生成したものでもなく、またその両者でもないことは以下でわれわれの示すとおりである。したがって、存在はありはしない。


さて、もし存在が永遠のものであるとするなら(まずここから出発しなければならない)、何か始まりをもつということはない。なぜなら、生成するものにはすべて何らかの始まりがあるが、永遠はもともと不生であるのだから始まりはなかったのである。しかるに始まりがなければ、それは無限である。無限であれば、それはどこにもない。なぜなら、それがどこかにあるとすれば、それがあるところの場所そのものはそれ自身とは別になり、そのようにして存在は何かに包囲されることになって、もはや無限ではなくなるからだ。実際、包囲するものは包囲されるものよりも大きく、一方、無限よりも大きなものはないのだから、したがって無限がどこかにあるということはない。またそれがそれ自身に包囲されているということもない。というのは、その場合には同じものが包囲するものと包囲されるものになり、存在が場所と物(というのは、包囲するものが場所であり、包囲されるものが物だからである)という二つになってしまう。だがこれは摩訶不思議である。とすれば、存在がそれ自身に包囲されているということもない。

こうして存在は、もしそれが永遠ならば無限であり、無限であればどこにもなく、どこにもないのならば、それはないのである。したがって、もし存在が永遠であれば、それはそもそも存在ではない。


しかしまた存在が生成したものであることも不可能である。というのは、もし生成したのであれば、存在から生じたか無から生じたかのいずれかである。しかし、存在から生じたのではない。なぜなら、存在からであるならば、生じたのではなく、もとからあるのだからだ。また無から生じたのでもない。なぜなら、無は何かを生み出すことができないからで、それは生み出すことのできるものは必ず何らかの存在性をそなえていなければならないからである。してみると、存在は生成したものでもない。


また同様に、その両者、永遠であって同時にまた生成したもの、でもない。というのは、それらは相互に他を破壊する両立不可能な関係にあり、もし存在が永遠ならば、生成したものではなく、また生成したのならば、永遠でもない。こうして、存在が永遠でもなく、また生成したのでもなく、さらにその両者を兼ね備えたものでもないとすれば、存在はありはしないことになるだろう。


さらに、もし存在があるのだとすれば、一であるか多であるかいずれかである。だが、一でも多でもないことは、以下で証明されるとおりである。したがって、存在はないのだ。


すなわち、もし一であるなら、不連続な量であるか、連続体であるか、大きさを持っているか、物体であるかである。だがこれらのいずれであろうと、一ではない。不連続量であれば別々に分けられるし、連続体であれば切断される。同様に、それが大きさをもつものと考えられると、不可分ではなくなる。また物体であれば三次元のひろがりをもつだろう。長さと幅と奥行きをもつからである。しかるに存在がこれらのいずれでもないと言うのは、摩訶不思議である。したがって、存在は一ではない。


また多でもない。なぜなら、もしそれが一でなければ、また多でもないからである。多は一つ一つあるものの集合であり、それゆえに一が抹消されれば、多もそれとともに抹消されるのである。

存在があるのでも無があるのでもないことは以上から明らかである。


また両者、つまり存在と無とがあるのでもないことも、容易に推論される。というのは、もし無がありかつまた存在があるのなら、あるという点で無は存在と同一になるだろう。そしてそのゆえにいずれもありはしないことになる。なぜなら、無がありはしないというのは合意事項であり、他方これと存在が同一となることはいま証明された。そこで存在もありはしないのである。のみならず、存在が無と同じであるならば、両者がともにあるということもできない。なぜなら、もしそれが両者と数えられるならば、同じものではないし、またもし同じものならば、両者ではないからである。


ここから帰結するのは、何もありはしないということである。というのは、存在があるのでもなく、無があるのでもまたその両者がともにあるのでもなく、他方またこれら以外の場合はないのだとすれば、何ものもありはしない。








2023年3月18日土曜日

ヘラクレイトス(断片より抜粋)

 ヘラクレイトス

理すなわちロゴスは、ここに示されているのに、人々は、それを聞く以前にも、ひと度聞いて後にも、決して理解するようにならない。なぜなら、すべての物事は、ここに語られた通りに生じているのに、彼らはまるでそれを見聞きしたためしがないも同然で、しかも、多くの話や事実を見聞きしながらそうなのだ。まさにそうしたことを私はつまびらかにしており、それぞれの物事をその本来のあり方に従って分明にし、それがいかにあるかを明示していると言うのに。他の人々は目覚め、後に何をしているのかも、さながら眠っている間の行いを忘れているのと同様に、気づかれていないのだ。それ故、あまねきものすなわち共通的なものに従わねばならない。しかるに、この理こそあまねきものであると言うに、多くの人々は、自分独自の思慮を備えているつもりになって生きている。


道がどこへ通じているのかを忘れている人。

彼らがとりわけ絶えずかかわりあっている理ロゴスー全体を司るものー、それと彼らは相入れず、また毎日突き当たっている物事が、彼らにはなじみのないものに思われている。


対峙するものが和合するものであり、さまざまに異なったものどもから、最も美しい調和が生じる。そしてあらゆるものは争いによって生じる。


戦争はあまねきものであること、正道は争いであること、万事は争いと必然に従って生ずることを知らなければならない。


結びつきーそれは全体であって全体ではない。一体化していながら分裂している。調子が揃っていながら不揃いである。そして万物から1が生じ1から万物が生じる。


同じ河流に、われわれは足を踏み入れているし、また踏み入れていない。われわれは存在しているし、また存在していない。


生まれ出た者たちは生きようとするが、それはすなわち死の定めを得たいと欲する、あるいはむしろ、安らかな眠りにつきたいと欲することに他ならない。そして、子供たちを後に残すことで、また死の定めが生ずるのである。

我々が目覚めた時目にするものは死であり、眠っている間に目にするものは眠りである。そして死して後に目にするものは生である。


目覚めている者たちには共通の1つの世界があるが、眠っている者たちは、それぞれが自分だけの世界へ帰っていく。



戦死者には、神神も人間たちも、共に敬意を払う。

なぜならばより大いなる死モロイにはより大いなる取り分モイライが当たる。

戦死者の魂の方が、病に倒れたものが魂よりも清らかである。


人は夜中になると自分の眼光が消えるので、灯火をつける。生者も眠っているときには死者につながり、目覚めているときには眠った者につながっている。

死後に人間たちを待ち受けているのは、彼らが全く予期もしなければ思いもかけないようなことである。


知を備えた唯一の存在は、ゼウスの名で呼ばれることを非とし、かつ是とする。


魂の限界は、それに行つこうとして、たとえあらゆる道を踏破しても、見つけ出せないであろう。それほど深い理ロゴスを彼は持っている。


海水はとても綺麗で、とても汚い。魚はそれを飲み生命を保っているが、人間には飲めないし、命取りである。


不死なるものが死すべきものであり、死すべきものが不死なるものである。かのものの死をこのものが生き、かの者の生をこのものが死している。


火は土の死を生き、空気は火の死を生き、水は空気の死を生き、土は水の死を生きる。


魂にとって水となる事は死であり、水にとって土となる事は死であるが、しかし、土から水は生じ、水から魂は生ずるのである。


湿ったものになる事は、魂にとっての喜びであり、あるいはまた死である。

われわれはかのもの魂の死を生き、かのものはわれわれの死を生きる。


いかなる場合にも命運は定まっているのだ

どんなふうに生きていけばいいものやら、

言葉が指すものと言葉それ自体 〜トイレの呼び方の変遷についての想像〜




 手垢に塗れたら言い換える傾向。


トイレは昔、厠(かわや)と言い、川の近くに建てられて、水に流したから、川屋だったとか。


しかし、直接的に糞をすると言うのは憚られるので、「厠にちょいと用事を足しに行く」と言うようになった。

そして、次第に厠という言葉が糞のイメージと近くなり汚いイメージをさせるようになり

「用を足す」としか言われなくなる。

そして、用を足す便利な場所ということで便所と呼ばれるようになった。もともと「便」には排泄物の意味はない。


しかし、厠が便所と呼ばれるようになり、大きなほうの便なのか小さな方の便なのかということで、排泄物を大便や小便と呼ぶようになる。


すると、便所は便利な場所ではなく、便をする場所となり、再び汚いイメージとなる。

そこで、外来語が入ってきて、これはハイカラだし、クリーンなイメージだということでトイレと呼ぶようになる。

トイレとは、英語の便所の意味だが、もともとはフランス語で化粧室を意味している。化粧室と便所が同じ場所ということが多かったため意味が変わったのだそうだ。


しかし、使い古すごとに再び、「トイレ」と聞くと汚いイメージになってしまい、接客業などでは「お手洗い」と言うようにするところもあるようだ。


しかし、いずれは「お手洗い」という言葉も汚いイメージに塗れ、再び新しい言葉が作られるのではないか?


この変遷を見ているとそう思わざるを得ない。

差別語なんかもそうしたイタチごっこなのだろう。

2023年3月17日金曜日

存在するものは何か? 〜ヘラクレイトス、パルメニデス、そしてヘーゲル〜

ヘラクレイトスからヘーゲルの系譜


古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトスの思想

「同じ川に二度入ることはできない。」

→万物流転(パンタレイ)Πάντα ῥεῖ (panta rhei)

「万物の根源は火である。」

「闘争は万物の父であり、万物の王である」

→万物は闘いである。

ヘラクレイトスは確かに、闘争が万物の父と言ったが、万物の根源は火であるとも述べている。

しかし、火というのは比喩である。