2022年12月23日金曜日

パリピ文化!? ハロウィンより酷いクリスマスw

クリスマスは厳かに過ごすべき??

クリスマスとは、キリストのミサ(礼拝)を意味している。

イエス・キリストの誕生を祝う日だと。(ただし、よく誤解されるがキリストの誕生日ではない。)

そして、それゆえにクリスマスが世俗的・商業的すぎる、特に日本ではキリスト教徒でもない人がなぜクリスマスを?などと批判されたりする。

そういう人は、最近のクリスマスとは違って、本来のクリスマスはキリスト教徒が厳かに神を讃える宗教的な典礼の日なのだと思っているようだ。

だが、それは本当だろうか??

今日は次の本を読んでおもしろかったところを紹介してみようと思う。

「クリスマスの歴史 祝祭誕生の謎を解く」ジュディス・フランダーズ/伊藤はるみ 訳



キリスト教徒に敬遠されるクリスマス!?

実は驚くべきクリスマスの真実があった。

313年にキリスト教がローマ帝国でコンスタンティヌス大帝によって公認され、その後、ユリウス二世(337~332)がキリスト降誕を12月25日に祝うようにと布告が出る。

これがクリスマスの始まりとされている。

そして、記録では389年に死去したコンスタンティノポリス大司教、ナジアンゾスのグレゴリオスが生前、聖なる祝日にダンスをしたり、過度に飲食したりすることを戒めている。

これは何を意味しているのだろうか?

わざわざ戒めるということは、戒めを受けるほど、人々がダンスしたり過度に飲食して騒いでいたからなのである。

つまり、クリスマスはそれがローマ帝国で制定されてから少なくとも30年以内には、すでに暴飲暴食やダンスにふける世俗的なイベントとして楽しまれていたのである!

その後も、何度も教会はクリスマスの過度な祝宴を戒めようとするが、そのたびに人々が戒めを受けるほどクリスマスに騒いで羽目を外していたというのがわかる。

とりわけ厳しく禁止されたのは、時代は飛んで、16世紀のイギリス、ちょうど清教徒革命の前後のことだった。イングランドやスコットランドの厳格なキリスト教徒、プロテスタントの清教徒(ピューリタン)たちはクリスマスを祝うことを禁止しようとしたのである。

彼らがクリスマスを非難する理由は、

ひとつは人々のクリスマスの祝い方が度が過ぎるし、

もう一つはやはりイエス誕生がクリスマスであることについて聖書にはどこにも記述がないからだ。

それから、クリスマスはカトリックのでっちあげた迷信の行事、元は異教ユールの日だという見方をしていたからとか、

クリスマスは聖人を記念する祝日だが、プロテスタントは聖人を人と神との仲立ちをする役割として認めていないといった理由もある。


16世紀のスコットランドでは、「クリスマスソングを歌うこと、サッカーをすること、仮面劇や無言劇をすること、歌ったり踊ったりすることはすべて不敬だとして禁止された。とはいえ、それらを禁ずる布告がたびたび出されているということは禁を破る者が多かったということだろう。」47頁

実際、1561年、スコットランドの清教徒、長老派教会はクリスマスのすべての行事を禁止し、多くの人がクリスマスを祝った罪で有罪となり、破門されたりしているケースまで存在する。


隣のイングランドの清教徒たちは少数派だったのでクリスマスを非難はするが禁止することまではできなかったが、その多くがアメリカに移住するので、そこで初期のころはクリスマスを禁止しようとしていた。

初期から清教徒が多く入植していたアメリカのマサチューセッツでは、1654年、マサチューセッツ湾植民地裁判所が、クリスマスに仕事を休んでお祭り騒ぎをした者、あるいはどんな方法であれその日を祝った者には5シリングの罰金を科すと定めた。(ただし、実際に罰金を払った例はなかったらしいので、体裁だけだったらしい。)

「清教徒の牧師インクリーズ・マザーは「いわゆるクリスマスというものは、飲酒と賭け事と狂気じみた馬鹿騒ぎのことだ」と教会に集った人々に語り、「飲酒」という言葉を念入りに繰り返した。」74頁

このようにクリスマスに眉を顰めるキリスト教徒も多くいたのである。

続いて、実際にクリスマスにはどのようなパリピたちがいたのかを見ていこうと思う。

2022年12月14日水曜日

外国語学部に行く意味はあるか?

たとえば、

既にスペイン語がネイティブレベルなのに、外国語学部でスペイン語学科に行くのは意味がありますでしょうか?




それは、その意味が何かによると思われます。


例を挙げるとわかるかもしれない。

勉強しなくても、首席で卒業できるという意味とか?

周りの学生や先輩に在学中マウント取りつづけられるという意味とか?

大学によっては飛び級できる。

すでにスペイン語ができるので、スペイン語学習のいくつか授業をとらずに文法など弱いところだけ究め、ゼミでスペイン語を第二言語習得論として、速攻で取り掛かり、ハイレベルのスペイン語の卒論が書ける。


文法というか、スペイン語教師として必要な科目を取ったらかなり意味はありそう。

日本人も日本語はかなりできていても、日本語教師としての科目を勉強しなければ、日本語を外国人に教えることが難しいように。


どういう意味を求めているのか??


狙いは、スペイン語がうまくなりたい女子大生かもしれないしw

外国語学部に入った理由がそれの男性はまあ正直いると思うw


逆に、それ以外の人にとっては本当に意味があるのだろうか?


大学に学びにきてる人少ないから、ほとんどの人は大学そのものがあんまり意味がないように思われる。

大学でスペイン語を専門的に学んでそれを社会で活かす人もかなり少ない。


そういうわけで、

ある意味、意味はあるし、ある意味、意味はないw


ここから、個人的な話をしますが、

2022年12月13日火曜日

ニーチェの深淵と怪物、そして私

 “Wer mit Ungeheuern kämpft, mag zusehn, daß er nicht dabei zum Ungeheuer wird. Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.”


「怪物と戦う者は、その際自分が怪物にならぬように気をつけるがいい。 長い間、深淵をのぞきこんでいると、深淵もまた、君をのぞきこむ。」『善悪の彼岸』ニーチェ





ニーチェのこの言葉は、どこかアニメやラノベで使われたのか、なぜか知られている。


この言葉について考えてみようと思う。

これはニーチェ自身の自戒の言葉かもしれないと思う。

ニーチェは既存の道徳がルサンチマン(復讐心)に塗れているものだと指摘した。

しかし、既存道徳の怪物と闘い、糾弾し非難するニーチェ自身がルサンチマンに塗れた怪物だったのだ。

そうならぬよう注意せよということなのだろう。

何かと対立する時には、大抵、自分自身がその何かなのである。


「仏に会っては仏を殺せ」

「では、この中で仏に会ったことあるやつはいるのか?街に出れば仏には会わない。自分自身に出会う。そしたら、自分を殺せ。」岡本太郎


では後半の文章のみに注目するとどうだろう?

2022年11月30日水曜日

表現の自由と政治性 〜コピによる「エビータ」の日本初公演より〜





 エリザベス女王 の死、安倍晋三 の死、

権力者、権威者の死に際してあなたは何を思うのか??


そして、権力者は何を残すのか?

壮麗な 国葬 を行うのか、銅像やモニュメントを残すのか、大きなピラミッドを建てさせるのか?あるいは??


いずれにせよ権力者が残そうとする永続的な権威。




アルゼンチン🇦🇷で、多くの人々に愛された大統領夫人エヴァ・ペロン、愛称 エビータ。

彼女は死後、その遺体を防腐剤処理(エンバーミング)され、棺に入ったまま永遠にその姿を残す。


エビータになりたいという密かな望みを持つ女や、エビータの背後にある金を狙う女。

象徴としてのエビータはいつでもどこでも群衆が見上げた空の彼方に偏在しているのだ!


神は死んだ。しかし、人々は神を求めている。

だからこそ、権力者は容易に神になれてしまう時代。

彼女は、神、あるいは女神なのか、それとも??!


日本で上演されたことのないアルゼンチン🇦🇷の戯曲家コピの言葉を今まさにこの時代だからこそ俳優の身体に再生させる!


「エヴァ・ペロン、もしくはエビータの棺」

乞うご期待






2022年11月12日土曜日

理性から出てくるカントの道徳論、解説

 ドイツの大哲学者イマヌエル・カント。

彼の道徳論は定言命法「汝の意志の格律が常に同時に普遍的立法に妥当するよう行為せよ」というもので有名ですが、批判ばかりで、その内実を理解している人は少ないように思います。

そこで、わたしが読み解いたカントの道徳論を解説してみたいと思います。


彼の道徳論は認識論である「純粋理性批判」から地続きになっている。


まず因果関係の系列の話がある。

あらゆる科学的な言説が前提としている「すべてのものにはなんらかの原因(あるいは根拠)がある。」というものがある。

「量子力学において、不確定性原理が働いており、すべては確率的に決定されるので、ラプラスの悪魔のような想定は正しくない」ということが真だとして、しかし、それがなんの原因も(あるいは根拠も)なしにということはあり得ない。


それは

「〇〇ならば✖︎✖︎である」というような概念(今風に言えば言語だが)、それは我々の悟性が持っている純粋悟性概念の仮言的判断によってなされている。


そうして、あらゆる現象にこの仮言的判断を適応すれば、すべては原因結果(または根拠と結論)の系列として扱われうるからなのだ。


そして、そこには善も悪もない。単にさまざまなことが生起しているだけである。

ある人が誰かを刺したとしても、そこにはさまざまな要因(社会的要因や親からの影響やその相手の反応などなど)が絡んで、刺したのだとすれば、その人には責任はない。すべては、彼によって刺されたのではなく、外的要因によって、彼が刺すように強要されたような形で理解されるのだから。

我々はそのような悪事を見たときでも仮言的判断を行い、なぜそのような犯罪が起きたのかという原因を探る。


しかし、人間は因果関係の系列から自由でありうるという可能性を秘めている。だから、彼自身の責任でもある。

と、カントはそう考えている。と、私は考えている。


人間は、自分にとって殺したいくらい大嫌いな男が溺れているのを見た時、助けたくないという気持ちもあるかもしれないが、助けなくては!!という気持ちもいくらかは起きてしまう。

そのとき、助けないのが自然界での普通であり、自然であるにも関わらず、どうしてそんな気持ちが起こったのか?(もちろん今では動物行動学において、動物は仲間を助けようとすることも認められてはいるが)

そんなとき、それは人間が自然界の法則を離れて自由になれる可能性を秘めているからだ。

とカントは思ったのかもしれない。


そこでまずは「〇〇ならば✖︎✖︎だろう」という仮言的判断ではなく、(「〇〇ならば✖︎✖︎せよ」という仮言的命法でもなく)、「無条件に(無制約に/無制限に)〇〇せよ」という定言的命法を提唱する。

仮言的判断だと、最終的にすべては因果関係の系列に還元されていってしまうからだ。しかし、無条件に「○○せよ」という定言命法は違う。「(いつであれ、どこであれ!例外なしに)○○せよ」ということであれば、あらゆる仮言的なものから、離れているからだ。


また、そのためにマクシム「格律」というものを置く。これは自分で作った自分自身のための法律、あるいは、座右の銘みたいなもので、「わたしはいついかなるときも例外なく○○することにしている」というものだ。人間は弱くすぐに外的要因によって自分で立てた格律を守ることはできなくなってしまう。しかし、これを外的要因とは全く無関係に守ることによって、その人間の人格というものは形成される。

具体的には「嘘はつくな」「生命を大切にせよ」とかそういう感じのものだ。


これによって、なんらかの行為を行うとき、動機が外的要因などから無関係であって、自分自身の意志で立てた格律に基づいているということが少なくとも可能性として担保される。


では、続いてそもそも自分の立てた道徳法則という格律は本当に正しいものかという疑問がある。

格律そのものもまた外的要因に縛られずに規定しなくてはならない。

そこでその格律がいつでもどこでも例外なく妥当するものかどうかを判断しなくてはならならない。これが普遍的立法と言われる。


ちなみに、無制約なものを規定して法則を立てようとするのはそもそも理性の能力とされている。

行為の動機も理性のみに基づき、道徳法則の立法も理性のみに基づき、最後に道徳の目的も理性のみに基づくことが必然とされる。

なぜなら、仮言的なものから無制約でいられるためには、そうしたものから無関係でなくてはならず。それができるのは普遍性を備えているものしかないからだ。


最後にその道徳の達成によってなされる目的は、それ自身、それはつまり、理性自身であって、理性的な存在者そのものだとされる。つまり、人間の尊厳が目的とされるのだ。

これはアリストテレスから来ている。理性が理性そのものを目的として働く。そうすれば、人間は完全に仮言的なものから自由になれるのだ。


とはいえ、現実には難しい。カントもそう考えていた。

ほとんどいつも、なんらかの外的な要因に動かされて人間は行為してしまうものだ。

しかし、それとは違った行為を行える可能性を人間は想定できる。カントはそれをもって、人間には責任があると考えた。

人間もほとんど動物だが、動物とは「(いつもいかなるときでも例外なしに、つまり、どんな外的要因があっても)○○せよ」を守ろうというふうには行為しない。そして、その意味では責任は問われない。理性を持った人間だけが責任を問われうるのである。


カントの道徳論は、動物の理解について誤っているし、人間中心的であり、理性信者であり、善悪については説明がなされていないなど言われるが、ここまで読み解けば、その思考を学ぶ価値はあるようにわたしは思う。

2022年7月24日日曜日

水に潜りたゆたう

水を見るとき何を見ますか


水に潜る時、懐かしい記憶が蘇る

というわけでもないのに、なぜか身体が懐かしがっていた。



あまりにも日常的なもの、水。

水って、何だろうか。


火は燃え上がり、地は積もり固くなる。

これは上下の運動。


だが、風は吹き、水は流れる。

この二つは上下だけでなく、右や左に自在に力が作用しやすいかな。

風は天に、水は地に引き付けられながらも自在な感じがあるのかもしれない。


水を見てみよう。


水は流れなければ、じっくりと澱(よど)んでいく。


「流水は腐らず。淀(よど)む水には芥溜まる。」と言う。


だが、水は静寂の中でじっくりと澄んでいく。


澱みつつ澄んでいく。


水面(みなも)は、静寂の時という砥石(といし)できれいに磨かれていく。


そうして鏡は誰かを映しだす。


明鏡止水(めいきょうしすい)


静寂の水面に映る誰かの影。


そこにいるのは誰なのか?


僕が動くとそれも動く


ああ、つまり、これが僕だったのか!


そうして「僕」が生まれた。


初めて鏡を見た時、そう思ったのかもしれない。


そうして、私は触れて、私の影を求めるが、それも束の間、霧散してしまう。


私などどこにもない。

私など世界という鏡に映ったり影にすぎない。


ならば、そのまま世界に入ってしまおう。

アンダーザワールド


そうして、僕はときどき水の中に揺蕩(たゆた)う。


自分の肉体、その境界が水に触れることではっきりする。

しかし、いつの間にか水の中に溶け込んで曖昧になっている。


もう何もわからない。だから、揺蕩っている


それが水。


揺蕩っていると、いつのまにか遠い古い記憶に辿り着く。


生まれる前か、生命の源か。


母なる海が孕む。ただただ揺蕩う。


哲学の祖タレスは万物の根源は水であると説いた。

万物の根源、生命の源。


別の若い哲学者は、考えることは水の中に潜るようなものだと言った。


今日も私は潜る。長く深く潜りたい。そうして存分に揺蕩っていたい。



2022年7月23日土曜日

ダリもゴッホも大好きだった「晩鐘」

 



ダリもゴッホもフランス国民もアメリカのプロテスタントの人々もそして日本人もみんな大好きミレーの「晩鐘」






1枚目はゴッホによる模写。2枚目と3枚目はダリによるオマージュ。


ダリ曰く、この後、この婦人カマキリに、夫は食べられてしまうが、食べられたくないから自分のボッキを帽子で隠しているのだ。


このミレーの「晩鐘」は、後にナポレオン3世が評価した。ナポレオン3世はこれこそが敬虔な市民の姿だと述べて、市民の票を、つまり人気を獲得しようとしたらしい。そのため値が跳ね上がった。


そして、その後に、アメリカのプロテスタントたちがこの絵を自分たちのところで飾りたいと買い付けた。


プロテスタントたちは偶像崇拝禁止のためにキリスト教的なシンボルが作りにくく、この絵がちょうどいいと考えたらしい。

そうして、フランスとアメリカとでせりがあって、どんどん絵の値段は跳ね上がった。

アメリカが買い取ったが、後にフランスの富豪が買い戻したとか。


描いた当の本人には関係がなく、本人としては政治的な利用はしてほしくなかったのだが。


絵は食えぬ、カネが鳴るなり、権力画

2022年6月27日月曜日

プラトニックラブとエロティシズム?!ロマンスを求めて。



  プラトニックラブの誤解

「人間は元来球体であったものが二つに分かれて世に解き放たれているものであり、生きるという行為は、本来の自分の姿に戻るための片割れを探す旅なのだ」

プラトンの「饗宴」を読むとこの話は出てきます。
しかし、この記事には誤りがあります。

「饗宴」とは飲み会のこと。

ある飲み会でアリストファネスが次のように述べます。

男女の合体したアンドロギュヌスと、男男の合体したのと、女女の合体したのが神によって別々に別れたから、
いつも片割れであるソウルメイトを求め、出会うと離れられなくなるのだと。

しかし、誤解が多いのですが、これはプラトン的な愛、プラトニックラブとは異なります。

というのは、この後にやってきたソクラテスによってそれは真実ではないと言われるからです。

  プラトニックラブとは何か?

プラトンは自分の主張をソクラテスに語らせます。
ソクラテスは次の話を巫女のディオティマから聴いたとみんなに話します。

実は愛する者は、相手の美を見ているのであって、相手を見ているのではない。
個別的な美しいものは、個別的であるがゆえに完全ではない。個別的なものによって私に思い出させる美そのものに気がつくと、それをこそ追い求めるのだと言います。
なぜなら、美そのものは永遠不滅であるから。

これはプラトンのイデア論に繋がります。
個別的な美は不完全に過ぎないのだ。「美そのものを観るに至ってこそ、人生は生きがいがあるのです。」

ゆえに、アリストファネスに対してはこのように言えるでしょう。別れる前の状態が醜かったら、例え最初は合体していたとしても、片割れを求めることはない。と

ちなみに、美を追い求める過程には段階があるとプラトンはソクラテスを通して語ります。
それは次のような順番です。

①一つの美しい肉体
②あらゆる美しい肉体
③美しき職業活動
④美しき学問
⑤美の本質の認識

しかしながら、プラトンの説よりも、プラトンの説のための前座であったアリストファネスの論がロマンチックだと取りざたにされて、誤解する人が多いようです。
私もまたアリストファネスのアンドロギュヌスのほうがロマンチックでいいのですが。

ともかく、みなさん、「饗宴」を開き、ぜひプラトニックラブが何なのか読んでみてください。

  愛そのものは美ではない?

愛するとは、美を求めるということ。

知恵を十分に持っている(と思っている)者が知恵を求めるだろうか?求めない。
ゆえに、それと同じで美を求める者は美を持っていないからだ。

しかし、だからといって醜いわけではない。
完全に無知なもの、つまり自分が無知だと自覚すらしない者が知を求めるだろうか?求めない。
ゆえに、それと同じで美を求める者がまったく美を持っていないというわけでもない。

ソクラテスが話したディオティマから聞いた話にはこういう感じのところもあります。
美そのものを求めようとする神霊はエロースという神霊であり、これがエロいとか、エロティックの語源となっています。

美を追い求める段階を読んでください。

プラトンの著作を読むと、エロいことと、プラトニックラブとは両立しているのです。

それは…
肉体から始まる愛でもよい。しかし、肉体だけで終わる愛はよくない。

という感じでしょうか。
ちなみに、この逆を行くのがバタイユのエロティシズムです。エロいので詳細は省きますが。
イメージ的には

プラトニックラブは、
地上から、天上の美そのものへの憧れを目指して浮上していく。

地上の私→天上の美へ

バタイユのエロティシズムは、
宙に浮いたがごとくに美しいものを暴力的に地獄に引きずり下ろして瀆すことにより感じる官能。

天上の美→地下の私に

しかし、両者には共通点があります。

①どちらも、個別的なものは見ていない。美そのものを見ている。天に向かうか、地に引きずり下ろすかの違い。

②どちらも死に近い。
天国か、地獄かの違い。
死後にいたれるようなイデアの世界と、オーガニズムの短い死のような法悦。官能。

③どちらもいわゆる社会的なルールからの逸脱としてのエロース。
恋する者は一見、社会的な規範を破る狂気に見えても、実は神的なものに取り憑かれている良いものだというプラトン。ルールは破って官能を感じるために作ったのだというバタイユ。


プラトンとバタイユ
もちろん、時代も違い、それぞれ独自に考えてるフシはあるので、両者を合わせるのは暴論かもしれませんが、私にはこのように見えました。
どちらも、恋愛論としてはロマンティシズムが欠けている。
そのあたり竹田青嗣がさらに補足して恋愛論を論じてた気がします。

  ロマンティシズム

先ほど私はアンドロギュノスの話をロマンチックと言いました。

ロマンティシズムとは、自分の中にある大切な人生の物語に陶酔することだと思われます。
※竹田青嗣の「エロスの世界像」参考

僕にとっては、いつか冒険に旅立ち、悪を倒し、財宝とお姫様を獲得すること。
私にとっては、今の悪い状況にいつか王子様が現れ、悪い状況から私を助け、幸せになること。

そういう感じの物語がそれぞれ各個人にあり、大人になる過程で、その物語にぴったりなお姫様や王子様と出会い、運命、この人しか自分にはいないというロマンを感じる。

もちろん、様々な出会いとともに成長して知っていくので、子供の頃のままの物語ではないし、プラトン的なものとバタイユ的なものとが合わさった複合的な物語になるのだが。

少なくともこの人でなければだめだ!というのはそういう物語のようなものが恋愛が成立するには必要条件と思われます。

2022年6月1日水曜日

贈り物の哲学 〜安部火韻の贈与論〜





最高の贈り物は、未来の受け取り主に対して贈られる。

贈り主は、未だ贈り物を受け取っていない受け取り主しか知らない。

だから、受け取り主が受け取った姿を僕ら贈り主は想像するしかない。

2022年5月19日木曜日

喫茶店でのスウィートタイム






喫茶店に入った
レトロな空間
懐かしい香り
何度来てもワクワクする
ふかふかのソファに座る
じっくりと見つめる
言葉じゃなくて目で注文する
いつもはクールにアイスで決めてるかもしれないけど、
今日は、ホットでもいいかい?
それから、アップルパイをひとつ
あつあつのアップルパイ
期待の熱で
中はじゅくじゅく
外はサクサク
猫舌を絡ませて火傷する
カップのうっとりする流線型
手でゆっくりなでまわす
注がれた熱いカフェオレ
うっとりする味わい
シュガーであまあま
ミルクでやわらか
それから、ちょっぴりオトナの味
やけどしても構わない
熱い口づけをもうひとつ


2022年1月21日金曜日

本当の三角形はどこにあるのか? ~フッサールの現象学は数学の不思議から始まる??~

 三角形とは何でしょうか?

みんな慣れ親しんだ図形ですが、言葉だけで説明しようとすると詰まる人もいるかもしれません。


数学では、

〈同一直線上にない3点とそれらを結んでできる三つの線分からなる図形〉

と説明されたりします。


このとき、実は、この数学における三角形とは、目の前の黒板に描かれたこの三角形のことではありません。


目の前の黒板に描かれたこのひとつの三角形は、確かに

〈同一直線上にない3点とそれらを結んでできる三つの線分からなる図形〉

のひとつではありますが、

〈同一直線上にない3点とそれらを結んでできる三つの線分からなる図形〉"そのもの"

ではないということです。


地球上に存在しているすべての三角形の寄せ集めでもありません。


それは、どういうことでしょう?


例えば、三角形の内角の和は180度だと証明されていますが、

このとき、この世界にある三角形に見えたものの内角の和を実際に測って

そのすべてが180度ではなかったとしても、

そんなこととは関係なく、三角形そのものの内角の和は180度なのです。

むしろ、すべての三角形が180度ではなかったとしたら、

この世界にある三角形に見えたものはすべて歪んだ三角形だったか、

測ったときに何か間違えたか、何かしら実物のほうが誤っていたことがわかるのです。


三角形ではわかりにくいなら、2億38角形ならどうでしょうか?

私も、見たことはありませんし、そうした図形のものが何か存在しているのかどうか。おそらく存在していないでしょう。しかし、それがどんなものかを考えることはできます。

2億38個の角に囲まれた図形で、これはおそらくほとんど円に近いような形をしているけれど、よくよくみると、たくさんの角がみえるような図形かと。

2億38角形がこの世界に存在しなかったとしても、その内角の和は計算により原理的に割り出せることになります。

つまり、その図形が実際になんらかの物として存在していなくても、その図形の性質の正しさについて私たちは判断することができるのです。

不思議じゃないですか??


あるいは「無限」「永遠」とは何でしょうか?

直線とは、〈長さはあるが幅も厚みもなく無限にまっすぐ伸びる線であり、その上のどの二点に対しても、それらの間の最短路となっているようなもの〉

なのですが、誰もそんなものは見たことがありません。

しかしながら、我々は一度も経験したことのない、そして、今後も経験することのない無限な線とか永遠の時間ということを(それが真の理解かどうかはおいておいて)理解している。


どうしてだろうか??あなたは不思議に思いませんか??


そうしたことを不思議に思っていた古代ギリシャの哲学者プラトンは、次のような感じで答えました。

実は、我々は生前に直線そのものや三角形そのもの、無限な時間そのものを経験していたんだ、そして、今の現実世界でそれを理解したと思ったときには生前のことを思い出しているのだ、と。

それら直線そのものや三角形そのもののような「〇〇そのもの」のことをイデアとプラトンは名付けました。観念とか、アイデアとか、理念はこのイデアideaから来ています。

おもしろい考え方ですね。


さて、時は19世紀後半のドイツ。

同じようなことを不思議がった哲学者がいました。


それが現象学を提唱したフッサールです。

彼が生きた当時、心理学や大脳生理学から数学上の難問が解決できるのではないか?ということが言われていたときがあったらしいです。

それは、数学というのは現実に物質的にあるわけではない。

ならば、心の方に、脳の側にあるに違いない、というわけです。

しかし、脳を解剖したら、心理学を駆使すれば、数学のすべてが本当に解明されるのか?

とフッサールは疑問を投げかけます。


一方では、ヒルベルトが数学の形式主義、公理主義を提唱しました。これは、すべての理論は、基礎となる公理群を出発点とし、厳密な推論によって打ち立てられなければならないという主張です。

ここでは、難しいので、誤解を招くかもしれないけど、簡単にイメージしてもらいます。(私も間違っているかもしれませんが。勉強中〜)

完全無欠の論理の体系というひとつの世界があり、それを数学における基礎になる公理をもとにすべて解明していく

というイメージです。

これはプラトンのイデアの世界のようなものに近く感じられるかもしれません。

フッサールはそのような見たことも経験したこともない世界のようなものを現実の世界の背後に想定すること自体が間違っているのではないだろうかと疑問を投げかけます。


そこでフッサールが考えたのが現象学というわけです。

現象学とは、単に目の前にある具体的なひとつの三角形の絵について探求したものではありません。

確かに目の前にはひとつの具体的な三角形の絵がある。しかし、例えば数学者はこの図形に三角形そのものの定義をなんとなくかけ合わせて見てしまったりする。

そのとき、目の前にある具体的な図形を見ながら、同時に「三角形」という概念によってこの具体的な図形を捉えてしまっている。

それが意味しているのは、我々はなんとなく三角形の本質について知ってしまっている。つまり、三角形の本質を直観しているということです。

それを見ようというわけです。

そうして(あれこれ考えているうちに?)定義を知らなかった者も〈同一直線上にない3点とそれらを結んでできる三つの線分からなる図形〉というこの三角形の定義にまで至ることができる。


しかし、一体いつどうやってその三角形の定義に至ったのか?


目の前にあるのは、レアルなもの(物的なもの)です。しかし、それを捉えるときに作用しているのがなにかイデアルなもの(観念的なもの)です。

その時々で異なっているレアルなものとすべてを同じものにしてしまう抽象的で普遍的なイデアルなものとはあまりにも違いすぎている。

その2つのものの間には飛躍があるのではないか?

レアルなものとイデアルなものとの架け橋がどのようにかかっているのか?


フッサールが始めた現象学とは、少なくとも初期においては、三角形の本質が何なのかを探求したものではなく、我々は具体的な三角形を見ながら、そこに三角形の本質をすでに直観してしまっている、それはいかにしてかを知りたいということなのです。


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