2020年5月26日火曜日

カントから生命の尊厳??

カントは、道徳において、手段として扱ってはならず目的として扱えと言っているところで生命を重視していると思えるような箇所もありますが、

実は正確にはカントは命が一番大事とは言っていません。カントがより重視したのは、ドイツの憲法にも掲げられている「人間の尊厳」です。

カントは人間を手段として扱うなとは言いますが、同じ生命を有しても、理性がないとされている動物は手段として扱っても良いわけです。

「命が大事」という思想は、古くは宗教における「殺すなかれ」に発端があるようですが、
(聖書にモーセの十戒があり、東洋では、生きとし生けるものの不殺生を説く仏教哲学がありますね)

しかし、西洋哲学としては、カント以後の、比較的新しいものに思います。そして、西洋では未だにあまり受け入れられない感じがあるのです。

2020年5月23日土曜日

シーシュポスの神話、プロメテウスの神話

シーシュポスと、プロメテウス。
同じようでちょっと違う。
アイスキュロスやシュリーによって詠われたプロメテウスに比べると、シーシュポスのほうがマイナーだが、カミュの「シーシュポスの神話」によってシーシュポスもある程度の知名度はあるようだ。
ちなみに、カミュはどちらも題材として取り上げたことがある。

比較して見る。

毎日、苦痛を味わうプロメテウス。
毎日、仕事が無に帰するシーシュポス。

毎日、プロメテウスが苦しむのは、不条理に課せられた身体的苦痛、つまり、不治の病、持病のようなもの。
毎日、シーシュポスの仕事が不条理に無に帰する。見方を変えれば、それは遊びと同じようなもの。

プロメテウスは、人類に火を贈った罰だが、シーシュポスは死に反抗した罰。

2020年5月15日金曜日

SFとファンタジーの違いは何か?

「かぐや姫」はSFなのかファンタジーなのかよくわからなくなったことはないだろうか?

二つの違いを考えてみよう。

ファンタジーの意味は、幻想のこと。幻想小説。

SFとは、サイエンスフィクション、科学小説のこと。

2020年5月7日木曜日

哲学ってなんだろう

哲学というのは、なにかある疑問にたいしてとことん突き詰めて考えてみるということ

それは我流でもありなもんです?

ありです。その我流で書かれたものが人に感化し納得を促すなら歴史に哲学として残っていくのです。

 なんだけども、大雑把に分けると一応、四種類ほどある、永井均という哲学者が言っていたことなんだけどね。

シュヴァンクマイエルの「アリス」は、子供を真に捉えている?!


シュヴァンクマイエルのアリスはひとつの革新である。

「不思議の国アリス」はそもそも言葉と論理のナンセンスがたくさん散りばめられている。

それをシュヴァンクマイエルは、言葉を極力減らして映像化した。それはなぜなのか?

心身二元論の歴史

今回は、心身二元論の議論の歴史をたどって見たいと思います。



プラトンは、イデアとイデアの似姿としての現実という二元論を提示した。

イデアは正確には善や真理などの概念が指しているそのもののことであり、精神あるいは心の領域と見なしうるため、心身二元論の原型と言える。

例えば「永遠」というものは誰も見たことがない。

にも関わらず、我々が永遠について語る

それは、むしろ「永遠」との対比によって有限さを認識するからだ。

心脳論争殺人事件

N氏「意識は実在しますか?」

T氏「答えはノーです。」

N氏「どういうことですか?」

T氏「脳です。そう言う私の意識も脳です。」

N氏「ほほう、まあ、君は脳なのかもしれないが、少なくとも私の意識は脳ではないね。」

T氏「君も脳だよ。君の脳が君に「脳ではない」という幻想を刷り込ませているのだよ」

N氏「では、自由意志はどうなるのか?」

T氏「私には自由意志などない。私は脳なのだから。」

N氏「君は脳なのだね。では、このナイフを君の脳に突き刺そう。」

T氏「私を殺さないでくれ。」

N氏「君の脳がそう言っているだけだろう。」

学校で弁論のテーマが決まらない問題




君は、弁論や作文なんかでテーマを自由に決めたらいいって言われて困ったことはないか?

俺は中学生のときに弁論の機会があり、こういうテーマで弁論したかったが、教師に却下されてしまった。

テーマ「セクハラをする教師摘発はなぜ難しいか」

テーマ「生徒会が学校の雑務などに従事し、形骸化していることについて」

テーマ「学校が不祥事を隠蔽することの利点」

テーマ「道徳教育とは何か」

テーマ「総合学習の時間の使い方について」

テーマ「大人がしていいことを子供がすると非行と言われ、してはいけない理由は何か?」

2020年5月5日火曜日

カントの「崇高」とショーペンハウアーの「意志」、そして、表現主義の不条理性

新カント派のリッケルトが言うには、ジンメルが生の哲学と芸術における表現主義とを繋げて考えていたと言っていたらしい。

では、カントの「崇高」概念によって、表現主義の不条理性を捉えることは可能でしょうか?

結論から言うと、それはあまり適当でなく、ショーペンハウアーの「意志」の「表象」の方が妥当だと思います。



まず、表現主義とは何でしょう?

映画「カリガリ博士」に
ムンクやシーレやファイニンガー、カンディンスキーの絵画、
カフカの小説、
ゴットフリート・ベンの詩集、
シェーンベルクの作曲に、
日本の暗黒舞踏にもかなりの影響を与えたノイエタンツのマリー・ヴィグマン、
メンデルスゾーンによるアインシュタインの相対主義に影響された建築物アインシュタイン塔に至るまで具体的な作品群
があげられますが、それらを統一することはかなり難しいと言えましょう。

(一般にはムンクとカフカとエゴンシーレぐらいしか知られていないようですが。)

また、表現主義は、ニーチェやゴッホやゴシックやロマン主義などとも重なる部分や影響が多いため、一概には語れず、それをひとまとめにするのはひとつの暴力のようなものでもあるように私には思われます。

ですが、あえて表現主義の発端から、演繹的に考えてみましょう。