2011年3月4日金曜日

感性的芸術、認識論的芸術

前回、クラシック的美しさとカオス的美しさについて話したが、クラシック的美しさというのをコスモス的美しさという名前に改めたい。カオスの対義語はコスモスだからである。
では話を続ける。
前回はコスモス的美しさとカオス的美しさについて話し、世間で受けているベストセラーや売れている作品については取り上げなかった。
コスモス的美しさは世間受けするような何度も使いまわされるようなエンターテイメントとは異なったものを指す。また芸術でも、小説や演劇などは内容のほうに重点が置かれていると考えるので言及しない(ただし、音楽や絵画でも何かを主張するものも多いのであるが)。→ということは、逆に小説や演劇は何かあるカオス的美しさを未だあまり発掘されていないということであろう。ところで思ったのであるが内容(つまりストーリー性)はとても強い。ある芸術が何かを主張しているあるいは何らかのストーリーをもっているだけで、それは美しさのうんぬんを超えて大きな力をもつと私には感じられる。逆に音楽としては(あるいは絵画としては)いいのだが内容がないと言われた芸術はそれだけで価値が芸術としては大したことがないが内容のある作品と比べて劣っていると評価してしまいやすいのだ。
 
>いや、そのように感じるのは音楽や絵画の魅力が足りないからである。本当に素晴らしい音楽や絵画は内容(ストーリー性や主張)を必要としないものだ!君は現に先ほど、音楽、絵画を小説、演劇と分けて考えていたではないか。
 
音や色そのものを重視した芸術を感性的芸術、内容、メッセージ、主張、ストーリーを重視した芸術を悟性的芸術と名づけてみるか。
 
>君はすぐにそう分類したがる。分類など重要なことではないのだ。
 
しかしながら、分類によって、新しい観点が開ける可能性が出てくるのも事実であろう。
(などと自分一人でもう一人の自分と対話していて思いついたのだが、ヴィトゲンシュタインの「哲学探究」の対話に対話する人間とヴィトゲンシュタイン自身の区別が明示されていないのも、彼が一人で考えているからなのであろうと思った。)
話を戻すと、感性的芸術にしろ悟性的芸術にしろ、その両方をもつものにしろどちらも極めれば大きな力となるのだろう。
 
>しかし、私にはむしろ悟性的芸術には限界があると感じる。
 
いや、私には感性的芸術にこそ限界があると感じる。人間の認識できる色や音は限られているからだ。しかしながら、主張、メッセージ性やストーリー性には無限の可能性がある。思考は実在している物よりも無限なので「色や音では決して表現できないものを表現した。」という表現ができるからだ。
 
>しかし、主張やストーリー性は抽象化されて簡素になりうるが、色や音は決して抽象化されえない。色や音や文字は相互に変換しえない。変換したらそれは全く別のものになってしまうであろう。
 
しかしながらも、言葉の上に色や音の意味を映して(例えば、「私の心にベートーベンの『運命』が鳴り響き、私はしばらく我を忘れていた」と)表現することによって、個人の心にそれぞれのベートーベンの運命を鳴り響かせることができるのである。それを考えると、言葉は無限の可能性を秘めているのだ。
 
>それは文字だけでなく絵画や音楽にも同じことができるぞ。
 
だが、できたとしたら、それは音楽そのものつまり音そのものの美しさではなく、あるストーリー的な理解の美しさであろう。
 
>話はそれてしまうが、君は名称の付け方を間違っている。君が言っている悟性的芸術は悟性だけではなく何らかの感性も含みうるような芸術だ。
 
それでは認識に重点を置いた認識論的芸術とでもいうか。

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