2011年3月28日月曜日

父像

父親たるものは息子の尊敬の対象!
父親たるものは息子の畏敬の対象たらなければならない!
完全なる英雄たらなければならない!
息子を圧倒していなければならない!
そして息子の敵たらなければならない!
したがって父親は敵として尊敬されなければならない!
 
しかし、うちにいるのは府抜けた社会的弱者。あまりにも弱すぎて憐みをかけるしかないのだ!
今まではそれでよかった。
私は父親を父親として認識していなかったからだ!私は父親を人間の一人として加算していただけだ。
格別な何らかの認識を持っていなかった。
私の基本的な考え方は「相手の価値観の前提と同じ土壌に合わせること」「相互性の原理のみに立脚すること」である。さもなくばそもそも話が成り立たないからである。
父が父権を振りかざすようになってから、つまり、「息子としてどうあるべき」(正確には息子にどうあってほしい)などという主張を聞いてから、私は父は父としてどうあるべきか(つまり、どうあってほしいか)考えるようになった。
その結果、生物学的父を父権を持つものとしての父としては認められなくなった。
それ以来、父が父権をかざすときに限り、私も息子として父のあるべき姿を要求し続ける。その要求が受け入れられなければ、父の父権も認めないつもりだ。
 
しかしまた、今はこう考える。そもそも父たるものに対して何らかの要求をすること自体が、父を父たらしめなくしている。どうあがいたところで父は理想的な父たりえないのだし、私という息子も理想的息子たりえないのだ。
 

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