2011年3月11日金曜日

社会のバランス維持の倫理と<わたし>の倫理−仮想対話−

A:
> 普通の意味で「べきだ」「べきでない」と言われるのは社会のバランス維持の倫理だと私は捉えている。
> 溺れている人を助けることがバランスの崩れを食い止めることになり、人を殺さないことがバランスを維持するように。
> だから一回の悪は無数の善によっても消されない。
>
> 私の考えてる倫理はバランス維持の倫理ではない。むしろイエスが十字架で示したような倫理だ。
> それは別に命を懸けるようなことじゃなくても子供に飴玉をあげるようなことでもそんな倫理になりうると思っている。
B:
「一回の悪は無数の善によっても消されない。」
というのはバランスの倫理とは違うものだと思う。
社会バランスの倫理は社会によってそれぞれ違ったものでありうる。(そもそもの社会を成り立たせている個人の倫理が違うのだから)従って、「一回の悪は無数の善によっても消されない。」ということとは関係無いと思うのだが。
個人がたまたま、心のうちに自分のしてしまった罪責感に囚われているときのみ
「一回の悪は無数の善によっても消されない。」
ということがあり得るんじゃないかな。これは個人の心のバランスである。

>いや、心のバランスつまり罪責感うんぬんなどではない。悪を行った過去は消えないということだ。

では、過去に悪があったということが一つの事実であったとして、それは確かに消えないであろう。しかし、それは君の示した倫理においても、例えば、君の示した倫理に反する行為つまりその倫理にとっての悪が一度行われたとしたらそれはもう二度と消えないのではないだろうか。
消えるとしたら、過去の記憶が消えてしまったか、君自身が死んでしまったか、あるいはやはり心の罪責感がなくなったとしかいいえないのではなかろうか。
しかし、社会のバランスの倫理を考えたとき、何か悪いことをして、それを償わなくてはならないということはあっても、何か良いことをしたからと言っ
てそれと同等の悪いことをしてもいいということにはならないのはなぜだろう。

>何か良いことと言うのは結局は悪いことの打ち消しでしかない。
>たとえば、人を助けるということを考えたとき、助けられる人は何かに困っていなければならない。そして、助けることによってその困っている悪い状態を打ち消すのだ。

本当に積極的な善はあり得ないのだろうか。人を助けることによって、賞賛されるとか・・。

>ないことはない。それは、価値評価と芸術活動だ。
>それこそ私の考えている倫理に近くなるのだが・・。

なぜそういいいきれるのだ。言い切れるほどの理由があるのか。

>確かにそう簡単に単語を二つ並べて語れることじゃない。今のは嘘だ。むしろ語れることじゃないかもしれない。このことは・・。

では一番最初の例に返ろう。キリストが十字架にかかることと子供に飴玉を差し出すという行為はいかにして倫理と呼びうるのか?

>それらは私にとっては他人の倫理なので、考えることはできない。

しかし、それではなぜその例を挙げられたのだ?例が挙げられるのだからそのことに関して何かあげられるだろう。

>さらに言うならば、私の倫理というのもこれまた未だ分からずにいる。
>バランスの倫理については考えやすいのだが。

少し考えてみよう。例えば、私は車や人々がいないところでは赤信号を渡ってもいいと考えている。なぜなら、信号というのは人々が交通に際して、事故を起こさないためにある便宜的なものであるので、車や人々がいないところで守るなどはナンセンスだから。
しかし、同時に私は車や人々がいないところでも赤信号を渡るべきでないと思っている、いや、感じているらしい。だれもいない交差点で信号無視をしたのに私のうちの何かが「それをしてはいけなかった」を語りかけるのだ。

それはただ理由なき不可解な行為に理由を無理やりつけているだけではないのか?

>いや、そうではない。そのように評価する君は初めからそれを「ただの行為」と前提して話している。そのこと自体は正しいのか。ただの行為。ただの物理的反応。ただの人間。ただの友達。その言葉によってどれだけの何かが失われているか。そこに何らかの何かがあるのだ。歴史的に唯物論や科学の発達や神の死によって「存在」という言葉が失ってきた何か。それを君も失っているのだ。

そんなことは言っても、その行為を見ても単にその行為として成立しているのではないのか?君は行為をみて、その行為以上の何かが見えるのか?

>ただし、「そこに何らかの何かがあるのだ」とは言っても、君が何らかの時空間に物理的に存在しうる何かを考えているとしたらそれは間違っている。

それは分かっている。

>いや、今聞いたから「そういえばそうだった」と今気付いたのだ。

しかしながら、ある行為が善か悪かを決定するのにある基準が存在しなければそもそも決定できないのではないか。
Sent: Friday, October 22, 2010 5:39 PM〜Saturday, February 24, 2011

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