2011年4月17日日曜日

avater アバター

現代においてはインディアンの問題を考えることは難しくなっている。それをアバタ—は人々に受け入れやすい形で復活させた。
映像美、「300」や「パンズラビリンス(原題El labyrinto del fauno)」、あるいは「パフューム」に見られるような映像美は中身が無内容であっても見るに値すると思われる。この映画もそういった映像美がすばらしい。そして単にすばらしいだけではなく、自然の神秘を伝えるのにまったくもって言葉を必要としない伝え方が出来るのである。同じような映画に「もののけ姫」があるが、あの映画はそれだけではなく、神を動物として物体化しているという点が異なる。アバタ—ではそれが植物にやどる目に見えないものとして、表わされている。
また、アバタ—はまったくもって単なるエンターテイメント作品として見ることもできるのである。
映像としてはやはり、CGを使い、ゲームの様な世界観を醸している。一方で、「もののけ姫」は、やはり、二次元であるという感じは否めない。言葉で言うなら「アバターはすごいけど、現実味がない」のである。しかしそれには理由がある。
 
「アバター」とは何であろうか。
辞書には二つの意味が出ている。
�神の化身、具現
�チャットなどのコミュニケーションサービスが利用できるインターネット上の会員制コミュニティにおいて、自分の分身として設定するキャラクター
 
第一の意味においては主人公は「トル—ク・マハト」、神的力を持った者としてある種の救世主となる。
第二の意味においては現実には足の不自由な主人公は惑星上の住人の身体(つまり分身)で惑星の世界にコミットし体を自由にする。これは現実には力を振るわない人がネット上のコミュニティーでは中心になれるのと同じである。
そして、最後に主人公は本来の現実の身体を捨て、その惑星の住人の身体で一生を送ることにする。つまり、仮想を現実にしてしまうのだ。

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