プラトニックラブの誤解
「もし活動としての哲学が、考えること自体に対して考えるという批判的作業でないとするなら、今日、哲学とはいったい何であろうか? 別の仕方で考えるということが、いかに、どこまで可能なのかと知る試みに哲学が存立していないとするなら、哲学とはいったい何であろうか?」 ミシェル・フーコー『性の歴史Ⅱ―快楽の活用(原著14-15頁)』
2022年6月27日月曜日
プラトニックラブとエロティシズム?!ロマンスを求めて。
プラトニックラブの誤解
2022年6月1日水曜日
2022年5月19日木曜日
2022年1月21日金曜日
本当の三角形はどこにあるのか? ~フッサールの現象学は数学の不思議から始まる??~
三角形とは何でしょうか?
みんな慣れ親しんだ図形ですが、言葉だけで説明しようとすると詰まる人もいるかもしれません。
数学では、
〈同一直線上にない3点とそれらを結んでできる三つの線分からなる図形〉
と説明されたりします。
このとき、実は、この数学における三角形とは、目の前の黒板に描かれたこの三角形のことではありません。
目の前の黒板に描かれたこのひとつの三角形は、確かに
〈同一直線上にない3点とそれらを結んでできる三つの線分からなる図形〉
のひとつではありますが、
〈同一直線上にない3点とそれらを結んでできる三つの線分からなる図形〉"そのもの"
ではないということです。
地球上に存在しているすべての三角形の寄せ集めでもありません。
それは、どういうことでしょう?
例えば、三角形の内角の和は180度だと証明されていますが、
このとき、この世界にある三角形に見えたものの内角の和を実際に測って
そのすべてが180度ではなかったとしても、
そんなこととは関係なく、三角形そのものの内角の和は180度なのです。
むしろ、すべての三角形が180度ではなかったとしたら、
この世界にある三角形に見えたものはすべて歪んだ三角形だったか、
測ったときに何か間違えたか、何かしら実物のほうが誤っていたことがわかるのです。
三角形ではわかりにくいなら、2億38角形ならどうでしょうか?
私も、見たことはありませんし、そうした図形のものが何か存在しているのかどうか。おそらく存在していないでしょう。しかし、それがどんなものかを考えることはできます。
2億38個の角に囲まれた図形で、これはおそらくほとんど円に近いような形をしているけれど、よくよくみると、たくさんの角がみえるような図形かと。
2億38角形がこの世界に存在しなかったとしても、その内角の和は計算により原理的に割り出せることになります。
つまり、その図形が実際になんらかの物として存在していなくても、その図形の性質の正しさについて私たちは判断することができるのです。
不思議じゃないですか??
あるいは「無限」「永遠」とは何でしょうか?
直線とは、〈長さはあるが幅も厚みもなく無限にまっすぐ伸びる線であり、その上のどの二点に対しても、それらの間の最短路となっているようなもの〉
なのですが、誰もそんなものは見たことがありません。
しかしながら、我々は一度も経験したことのない、そして、今後も経験することのない無限な線とか永遠の時間ということを(それが真の理解かどうかはおいておいて)理解している。
どうしてだろうか??あなたは不思議に思いませんか??
そうしたことを不思議に思っていた古代ギリシャの哲学者プラトンは、次のような感じで答えました。
実は、我々は生前に直線そのものや三角形そのもの、無限な時間そのものを経験していたんだ、そして、今の現実世界でそれを理解したと思ったときには生前のことを思い出しているのだ、と。
それら直線そのものや三角形そのもののような「〇〇そのもの」のことをイデアとプラトンは名付けました。観念とか、アイデアとか、理念はこのイデアideaから来ています。
おもしろい考え方ですね。
さて、時は19世紀後半のドイツ。
同じようなことを不思議がった哲学者がいました。
それが現象学を提唱したフッサールです。
彼が生きた当時、心理学や大脳生理学から数学上の難問が解決できるのではないか?ということが言われていたときがあったらしいです。
それは、数学というのは現実に物質的にあるわけではない。
ならば、心の方に、脳の側にあるに違いない、というわけです。
しかし、脳を解剖したら、心理学を駆使すれば、数学のすべてが本当に解明されるのか?
とフッサールは疑問を投げかけます。
一方では、ヒルベルトが数学の形式主義、公理主義を提唱しました。これは、すべての理論は、基礎となる公理群を出発点とし、厳密な推論によって打ち立てられなければならないという主張です。
ここでは、難しいので、誤解を招くかもしれないけど、簡単にイメージしてもらいます。(私も間違っているかもしれませんが。勉強中〜)
完全無欠の論理の体系というひとつの世界があり、それを数学における基礎になる公理をもとにすべて解明していく
というイメージです。
これはプラトンのイデアの世界のようなものに近く感じられるかもしれません。
フッサールはそのような見たことも経験したこともない世界のようなものを現実の世界の背後に想定すること自体が間違っているのではないだろうかと疑問を投げかけます。
そこでフッサールが考えたのが現象学というわけです。
現象学とは、単に目の前にある具体的なひとつの三角形の絵について探求したものではありません。
確かに目の前にはひとつの具体的な三角形の絵がある。しかし、例えば数学者はこの図形に三角形そのものの定義をなんとなくかけ合わせて見てしまったりする。
そのとき、目の前にある具体的な図形を見ながら、同時に「三角形」という概念によってこの具体的な図形を捉えてしまっている。
それが意味しているのは、我々はなんとなく三角形の本質について知ってしまっている。つまり、三角形の本質を直観しているということです。
それを見ようというわけです。
そうして(あれこれ考えているうちに?)定義を知らなかった者も〈同一直線上にない3点とそれらを結んでできる三つの線分からなる図形〉というこの三角形の定義にまで至ることができる。
しかし、一体いつどうやってその三角形の定義に至ったのか?
目の前にあるのは、レアルなもの(物的なもの)です。しかし、それを捉えるときに作用しているのがなにかイデアルなもの(観念的なもの)です。
その時々で異なっているレアルなものとすべてを同じものにしてしまう抽象的で普遍的なイデアルなものとはあまりにも違いすぎている。
その2つのものの間には飛躍があるのではないか?
レアルなものとイデアルなものとの架け橋がどのようにかかっているのか?
フッサールが始めた現象学とは、少なくとも初期においては、三角形の本質が何なのかを探求したものではなく、我々は具体的な三角形を見ながら、そこに三角形の本質をすでに直観してしまっている、それはいかにしてかを知りたいということなのです。
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2022年1月23日(日)15:00~哲学会
正義・恐怖・狂気
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2021年12月9日木曜日
真理はひとつか?
真理はひとつなのか?
『「真理はひとつではない」ということが真理かどうか』について考えてみる。
前提1
「真理はひとつである」か、「真理はひとつではない」か、のどちらかである。
論証1
もし「真理がひとつではない」というのが真理ならば、
「真理がひとつではない」というのが唯一の真理となるが、
そうすると
その「真理がひとつではない」という"ひとつの真理"しか認めないということになる。
そうすると、「真理はひとつではない」しかも同時に「真理がひとつである」ということとなり、矛盾する。
ゆえに、真理はひとつである。
また、次のようにも言える。
2021年10月17日日曜日
どんなときにも問う。それであなたは幸せか
「何かがおかしいと疑問に思う。問いが溢れてがんじがらめになる。それであなたは幸せか。そうでなければ今すぐ問うことをやめろ」
そう言う人がいた。
みな、それぞれ問いや悩みに苦しんでいる。
「どうして私は評価されないのか」
「どうしてあの人があの待遇なのか」
「どうして人とうまくやっていけないのか」
「どうしてあのような不幸が起きたのか」
「どうして世の中が理不尽なのか」
あなたは悩みすぎて、もう悩みたくないと思うかもしれない。
思考停止を願い、何も考えず酔生夢死したいなど思う人がいてもおかしくはない。
だが、それは違う!と私は思う。
哲学者ミルはこう言った。
「私は、満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよく、 満足した馬鹿であるより不満足なソクラテスであるほうがよい。」と
それはこういうことだ。
あなたが引っかかってしまったその問いに、悩み、考え、全身全霊で向かい合う。
そのほうがどれほど人生を豊かにすることか。
確かに、あなたはその問いに直面するより、気になってしまう問題を問わずに、無視してしまえば楽であり、忘れてしまえば幸福である。
しかし、本当にそれでいいのだろうか?
例えば、地球温暖化なんてそんなこと、考えずに生きたほうが楽に決まっている。
例えば、政治だって、そんな難しいこと考えずに生きたほうが楽に決まっている。
例えば、会社にこき使われていても、それをどうにかするよりも、何も考えずに受け入れてしまったほうが楽に決まっている。
だが、本当にそれでいいのだろうか?
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| 「悩みが深いほど、世界は美しくみえるかもしれない」 |
問題を問うとは、単に頭でその問題を転がして遊ぶというだけではない。
その問いを生きる、ということなのだ。
私たちはそうした問いを投げかけてくるこの世界にすでに投げ入れられてしまっていたんだ。
最初は、地球温暖化について本読んで頭で転がすだけでいい。だが、本当にその問題を生きるには実際にその問題の解決に当たらなくてはならない。
そのとき、その問題を身体で生きることになる。
確かに、それは大変だ。
例えば
「誰にも評価されない」
そんなことを悩んでいるとする。
頭でその問題を巡らす。焦る。どうしたらいいのかと考える。
そのとき、実際にその問題を解決するために自分の身体を動かして対処する、ということを、少なくとも意識しているか?意識するだけでいい。
実際に、その解決のために現実を動かすことが難しくても、動かそうという意識を持っていたか?
だが、そのとき、問いは単なる頭の中だけのものではなくて、問いを生きていることになる。
そうして、実は、その問いを通して、自分自身と向き合っているとも言える。
「何をそう難しく考えているの?」
「考えないほうが楽に生きれるよ」
「若いねぇ」
「世の中、甘くないよ」
などと言って世間はあなたの問いを思考を潰して何も考えない人間にしようとしてくることがある。
あなたはあなただけが気にしているかもしれないその問いを言われるままに潰してしまうかもしれない。そのほうが楽だから。
しかし、むしろ、あなたはその問いを守るべきなのである。
それはあなたの感受性に引っかかる問い、他ならぬあなただけの問いなのだから。
あなたが感じた世の中の理不尽をあなたなりに生きたほうが、それは苦しいことだろうし、現実には解決できないかもしれないが、それでも無視しないほうが良いと言える。
問いを生きるということは、幸せじゃないかもしれない。
その問いを持ってしまった自分自身をごまかさずに、生きる。
それは苦しいことかもしれない。
その問いを通して、あなたにとっての世の中の理不尽さに直面することかもしれない。
それで幸せかどうか?
幸せじゃなくてもいいじゃないか?
問いに向き合わずに誤魔化した脆い幸せを生きて、何も知らずに死んでいく。
そう、あなたはいずれ死んでしまう。100年先か、50年か、明日か。
何年生きようとも死んでしまう。
それは事実だ。
ただその事実を見据えるだけでも、すでに幸福とは言えないんじゃないか?
ということは幸福とはすべてまやかしなのではないか?
むしろ、あなた自身の問いを大切にし、育て、考え続けること。
あなたがあなたとして生まれてきたなら、それをすべきなんじゃないか??
なぜなら、あなた自身の固有の問いを生きることで、あなたはあなた自身に忠実でいられるから。
この世界にあなたはあなた自身として生まれたのだから。
【告知】
11月28日(日)15:00〜哲学会 「エロティックorプラトニック? 禁断の恋愛哲学」
気になるけれど、なかなか学ぶ機会がない恋愛哲学。
浪漫たっぷりで魅力的な題材を学んで日常に活かしてみませんか。
2022年1月23日(日)15:00~哲学会
正義・恐怖・狂気
フーコーの哲学で見るバットマン
貴方はバットマンのテーマを知っていますか?
実は少しだけ恐ろしい!?
そんなバットマンを哲学的に見ていきましょう。
講師:安部火韻 参加費:2000円 初心者も大歓迎、オンライン受講も可能。 オンライン講座、哲学会。 哲学に詳しい安部火韻講師が、スライドを見ながらの哲学の講義を行います。
追記:中島義道の哲学は私の中に深く刺さっており、その影響下にあるため、読んだことのある方は、この記事を彼と同じことを言っているように感じられると思います。
2021年9月25日土曜日
仕事workと労働laborの違いは何か? ~何かするならクリエイティブなことをしたいのでは?~
仕事というのは、英語ではworkと言われる。





