2021年9月14日火曜日

宇宙という世界を創造したのは「神の意思」ですか「自然法則」ですか?

 宇宙という世界を創造したのは「神の意思」ですか「自然法則」ですか?


これにどちらとも答えることもできない。

こういう問いは、どのように考えていくのが良いだろうか?


「宇宙という世界」を「自然法則」が創造したとすれば、「自然法則」は宇宙という世界以前に無ければならない。


これは奇妙なことである。


「宇宙という世界」とは何か?

一般に宇宙とはtime and spaceという。つまり、空間と時間の広がりである。

この「空間と時間の広がりそのもの」を自然法則は創造することができるのか?

そもそも空間時間の内に存在している物的な存在に対して働くのが自然法則である。


したがって、そもそも空間と時間の広がりが存在する以前に物的なあらゆる存在もありえず、そうするとそれらに対して働く自然法則は存在しえない。


続いて、「神の意思」について考えてみる。

2021年9月13日月曜日

世界は複雑だってことを理解しているか?

 世界は複雑なのだ。


しかし、人間はすぐに問題を単純化しようとしてしまう。


例えば、「読書か、人間関係か?」


すぐにこういう問いを発する。


どちらかに拘泥しなくとも、読書しつつ人間関係にも目を向けることだってできるし、読書の量を減らすことだってできるし、人間関係の中でも、自分にとって煩わしい人間関係だけを断ち切って、その隙間に読書を入れたり、あるいは新しい人間関係を築いたりすることだってできる。

2021年6月30日水曜日

映画「ある結婚の風景」のお気に入りの風景

「ある結婚の風景」というベルイマン監督の映画がある。

結婚10年の女性マリアンヌは離婚弁護士をしている。

ある日、仕事で初老の既婚女性と面接をする。
その初老の女性は20年寄り添ってきた夫と離婚したいのだが、生活に何か問題があるわけでもなく、夫が浮気をしているわけでもない。むしろ、生活の面ではうまくいっている。しかし、子供が独立したのを見計らってその女は離婚を申し出る。

夫は、「何が不満なんだ!」とわめき繰り返す。

女は、「この結婚は愛がないから」と答える。
夫が「愛とはなんだ?」と尋ねる。
女は、「愛がないのにとうやって説明できて?」

こんな調子だ。
「でも、私はまだ誰も愛したことはないけど自分には愛することができるはずだ」とマリアンヌに言う。
愛はないけど思いやりやお金や子供はある結婚生活。しかし、愛がないために、何十年も経つとしだいに、すべての感覚が虚ろってきてしまう。ものを触っても、感覚が鈍く、感じれなくなってきている。
そうマリアンヌに言う。

実はマリアンヌは前から疑問に思っていた。
愛?愛なんて必要あるの?結婚生活に必要なのは思いやりの心と慈しみとユーモアと寛容の心、相手へのほどよい期待、それがあれば愛は関係ない、と。そんなものにこだわるから、離婚してしまうんだと。

しかし、マリアンヌは、その女の話を聞いて、はっとする、「わかる気がする」

なぜかはわからないが、何かが足りない。なにか空虚な、あらゆる感覚がうつろって何も感じられなくなる。そんな感じがマリアンヌの家庭、夫婦間でも存在していたことに気がついてしまったのだ。

映画では、説明はここまでなされない。この弁護士は「わかります」という一言と表情だけで語る。
2つのシーンを取り上げてみよう。





2021年6月14日月曜日

自分自身の感情を見つめてみよう!?

みなさん、いかがお過ごしでしょうか?

僕は、最近、ある本を読んで、こんな一節が気になったので、書き留めてみました。





2021年6月6日日曜日

珈琲を通して世界を味わう…

朝から、じっくりとコーヒーを愉しんだ。最近のいろんなことを考え込みながら…


まず珈琲豆の袋を開けて匂いを嗅ぐ。
1. コーヒー豆を引いて、粉になっていく様を愉しむ。
お湯を沸かして、ゆっくりとドリップするときのコーヒー豆がお湯に膨らんで周りに匂いが漂うのを愉しむ。
特に最初に少し注いで蒸らすときのゆっくりした時間を。

2. カップに注いで、匂いを楽しみながらホットでブラックのまま飲んで見る。
次にミルクを注いで、カフェオレにして違いを楽しむ。
その次に、もう一杯注いで今度はウヰスキーを数滴垂らして、嗜む。
3. そうしているうちに、冷めてしまったコーヒーデカンタのコーヒーを今度は氷の入ったグラスに注いで飲む。
そうして、半分くらいまで飲んだアイスコーヒーに、ミルクを注いで、アイスカフェオレにしてまた愉しむ。

こんな感じだ。生まれてきたからには、世界をできるだけ徹底的に味わい、尽くしたい。
例えば、このコーヒーがあなたにとっての日常だったり、散歩だったり、絵画鑑賞だったりするわけで…
いろいろと苦しいことや辛いこともありますが、生きていることはいろんな仕方で世界と関わること。

あなたは世界を堪能できていますか?



【告知】

2021年11月28日(日)15:00〜哲学会

「エロティックorプラトニック? 禁断の恋愛哲学」

気になるけれど、なかなか学ぶ機会がない恋愛哲学。

浪漫たっぷりで魅力的な題材を学んで日常に活かしてみませんか。


2022年1月23日(日)15:00~哲学会

正義・恐怖・狂気 フーコーの哲学で見るバットマン

貴方はバットマンのテーマを知っていますか?

実は少しだけ恐ろしい!?

そんなバットマンを哲学的に見ていきましょう。


講師:安部火韻 参加費:2000円 初心者も大歓迎、オンライン受講も可能。 オンライン講座、哲学会。 哲学に詳しい安部火韻講師が、スライドを見ながらの哲学の講義を行います。 →オンライン受講受付


2021年5月11日火曜日

今月のオンライン哲学会のお知らせ

古書店にて定期的に開催しているオンライン哲学会のお知らせです。 2021年度は奇数月の第四週目の土曜日に開催します。 次回の開催予定は5/22(土)15:00~18:00となります。 さて、今回5月のテーマは「私とは何か」です。このテーマは自我論と言われ、さまざまな哲学者によっていろんなことが言われてきました。それを紹介していきます。 


今回もたくさん取り上げていきますが、おおまかに三人の哲学者をここで少し紹介します。

#ヴィトゲンシュタイン 「世界が私の世界であることはこの言語の限界が私の世界の限界を意味することのうちに示されている」#論理哲学論考 ヴィトゲンシュタインは「私」、ほかならぬたった一人だけの「この私」というものは言葉によって語りえないものと洞察しました。『ほかならぬたった一人だけの「この私」』という言葉はかえって誰にでも当てはまるからです。あなたにも私にも。

#カント 「認識が対象にしたがうのではなく、対象が我々の認識にしたがって規定されねばならないと想定してみたならば形而上学の課題をうまく進められるのではなかろうか」#純粋理性批判 カントは「私」というものは世界の内にある何らかの魂のような実体であると断定できるものではなく、むしろこの世界そのものをひとつの現実世界として統一して成立させうるような何かであると洞察しました。

#ヘーゲル 「私は私だ」とは、単なる無意味な同語反復ではない。「私は私だ」という言葉の内には「おまえはおまえだ」ということが暗に含まれているのだ。他者の承認を求め、そのことによって成立する「私」とは何でしょうか? このヘーゲルの考え方はマルクス、フロイト、ニーチェにまで適応できます。実のところ、マルクス、フロイト、ニーチェもヘーゲル的な洞察から逃れることは難しくかえってヘーゲル的になってしまわざるをえないのです。

こうご期待!

日時:5/22(土)15:00~18:00 要予約
配信:ZOOMによるオンライン講座(書店での直接受講は限定五名)
受講料:二〇〇〇円
講師:安部火韻
配信元:#特殊書店ビブリオマニア
支払い方法:paypalなどオンライン決済
※ZOOMによる顔出しや本名は必須ではありません。
※事前にワード資料とZOOMアドレスをお送りしますので連絡先をお知らせください。
#哲学 #哲学カフェ #哲学書 #哲学好き

2021年2月1日月曜日

子も子だが、親も親だし、国も国。 ~同語反復トートロジーにより隠蔽されたもの~

 子も子だが、親も親だし、国も国。

面白くないですか?同語反復(トートロジー)にすぎないのに、それ以上のことを語っていますよね。
子「ゲーム買ってよ、友達みんな買ってたし」 親「うちはうち、よそはよそ。……ちょっと行儀悪くしないで。よそに行ったときに恥ずかしいでしょ」 子「うちはうち、よそはよそ。」
この例はよそとうちとをはっきり区別・分断してしまうことによって、無関係にしてしまう効果が表れている。
「カエサルのものはカエサルに。神のものは神に」(聖書)も同じだろう。
しかし、「子も子だが、親も親だし、国も国。」では、むしろ、子も親も国もネガティブなものとして同列に置こうとしている。 これらのことがヘーゲル的に考えていくとわかってくる。 「A=A」とか「私は私だ」というのは明晰でわかりやすいがこれだけではなにも言っていない。
私は私であるが、しかし、私は非私(私でないもの)でもある。
どういうことか? 例えば、「私は教師である」と言うが、こどものころから教師だったわけではない。
つまり、その昔においては「私は教師ではない」しかし現在「私は教師である」
A=Aで考えていると、AはAでしかありえないので、私は私でしかありえず、「私は教師だ」ということは常に嘘になる。しかし、そうではない。私は私であると同時に私は私ではないもの、つまり教師でもあるということが可能なのだ。
逆に「私は私だ」と強く主張することで「私は私ではないそれ以外のすべてのもの、教師だとか」を否定することができる。
トートロジーは単に繰り返すだけでなく、繰り返すことによって強調されるのである。
「子も子だが、親も親だし、国も国。」の場合には、子と親と国とをネガティブなものとして同列に置いているが、その場合には、必ずポジティブなものが対立されているはずだろう。

それこそが「私(たち)こそは私(たち)だ」であろう。

要するに、子とか親とか国とかを私とは関係のない第三者的なものとして規定してしまうことによって、非難しているのである。

言語というものはとかくいろんなものを省略し、隠しているものなのである。

だからこそ、逆に露わにすることもできるのであるが。




【告知】

2021年11月28日(日)15:00〜哲学会

「エロティックorプラトニック? 禁断の恋愛哲学」

気になるけれど、なかなか学ぶ機会がない恋愛哲学。

浪漫たっぷりで魅力的な題材を学んで日常に活かしてみませんか。


2022年1月23日(日)15:00~哲学会

正義・恐怖・狂気 フーコーの哲学で見るバットマン

貴方はバットマンのテーマを知っていますか?

実は少しだけ恐ろしい!?

そんなバットマンを哲学的に見ていきましょう。


講師:安部火韻 参加費:2000円 初心者も大歓迎、オンライン受講も可能。 オンライン講座、哲学会。 哲学に詳しい安部火韻講師が、スライドを見ながらの哲学の講義を行います。 →オンライン受講受付