2015年9月1日火曜日

真夜中の散歩

 その駅の北口には、ちょっと大きめの広場がある。
広場の真ん中には天使の彫像がてっぺんについた大きな西洋風の時計台があり、時計台をぐるっと軒が囲っている。その軒をさらに広めのアスファルト道路がぐるっと囲っており、バスやタクシーの乗降場所となっている。
 そして、ちょうど駅の出入り口の真向い、駅から時計台と対称のところに、商店街の入り口、○○商店とかかれた門がある。商店街にはもちろん賑やかそうなお店がたくさん立ち並んでいる。お決まりのお土産屋さん、ご当地キャラクターぶなっしーのショップ、Mクドナルドや??野家、日鷹屋、ドラッグストアなどのチェーン店、コンビニ、お茶屋さんや酒屋、蕎麦屋、寿司屋、古本屋などの老舗…。そして、この商店街には、小さなお寺や神社もところどころ店と店との間に立っている。また、途中で、東武だったか別の鉄道が横切っており、要するに踏切が横たわっている。商店街の道は、車が1.5台通れるぐらいで、ちょっとした登り坂になっている。実はちょうど盛り上がった台地にまたがっているのである。道の両側には電気で点灯する灯籠が立ち並んでいる。夕暮れ時、駅前の商店街の入り口に立って、眺めると、その灯籠と、商店街の店の明かりが、上に向かって次第に小さくなりながら、きれいに並んでおり、整然とした美しい景観となっている。
 この商店街を道なりに登っていくと、ついには仁王門まで辿りつく。ここから先は聖域である。そして、商店街から続く道は、仁王門を通って、なお続いている。このさらに奥には、五重の塔や大きな寺院がいくつか控えているのだ。ただ、もはやその道路は、アスファルトではなく石畳、灯籠は燭台に立てられた蝋燭を連想させるデザインの小さめのライト、そして、両側は盛り上がっており、商店の代わりに木々と塀が立ち並んでいる。右側、つまり西側の塀は、小さなお寺や民家が立ち並んでいる。左側、つまり東側は塀の向こうには墓地が広がっている。道からでも卒塔婆が立ち並んでるのが覘けるぐらいの塀である。この駅から五重の塔まで続くこの道はずべてまっすぐな登り坂として繋がっており、双眼鏡さえあれば、駅から五重の塔までのずべての行程が見渡せるだろう、踏切に電車さえ横切らなければ。そして、この五重の塔と大きな寺院や仏殿の宝庫、何かの記念碑、庭園、墓地があり、大体120m四方の敷地となっている。敷地の外は、ちょっとした森のようになっていて、民家は点々としている。北は完全に山へと続きさらに山奥の寺院へと続く参道がある。これは修道僧や熱心な参拝者や観光客が使用している。西側には、中学校があり、別のルートで生徒達が通学している。そして、東側には、精神病院が建てられており、不気味な様相を呈している。
私はこの大きな寺院に参拝に行く。それも真夜中二時頃に。

2015年8月26日水曜日

私の恋愛観

恋と愛と友情との違いをいかに区別するか。

まず、愛と友情とは理性的な部分がいくらか見られます。愛する人と朋友は「eye」で相手をしっかり見て「共」に生きるからです。
しかし、恋は故意ではありえず、矛盾します。何かを意図するもの、理性的なものではないのです。
ヨーロッパでもamor(アモル、恋)とはamoral(無道徳、超道徳)なのです。日本でも、男女関係において親密な仲(=恋仲)を古語で「わりない仲」と言いますが、「わりなし」とは「理(ことわり)+なし」=理屈や分別を超えているということを意味するのです。
恋は異質な他者への切望です。決して得られそうもない真なる知への切望、つまり、哲学も同じです。

一方、友情は同門、同志の者とのある相互承認関係です。
友情は同じ門、同じ志の者とのある相互承認関係です。ただし、その承認がむしろ相手への甘えとなると互いを腐らせる馴れ合いとなり、その承認そのものが崩れると互いの生存を脅かす敵と化します。
友情を保つことは意外にも難し

く、適切な距離と互いの敬意を保つ必要があります。
ニーチェに言わせれば、「人は己の友をも敵として敬うことができなければならぬ」のである。

最後に愛情とは何か。これが一番難しい。
愛には、プラトンに始まるプラトニックな愛と、ロマンティックな愛、そして、エロティックな愛というものがあると言われます。
私は、どれが欠けても足りなくなり、愛、恋といえなくなってしまうと思います。というのは愛にも恋にもその側面があるからです。
しかし、この三つに決定的に欠けているものがあります。それは、その愛は、愛される他人の性質ではなく、愛される他人そのものを愛するのです。
しかし、現実には、そのものを愛すると言うことは、自分の愛がほんものなのかどうかを知ることは不可能だし、その意味を確定しようと考察するどの哲学者も失敗しており、存在するとは思われません。
以上は思弁的な私の恋愛観です。ただ、思弁的なので理想論かもしれません。経験的な恋愛観は別にあります。

私自身の経験的恋愛観
1.自分自身は当てにならない。
私の心は秋の空。はじめはその人に対する小さな気がかり。そのなんでもないような気がかりを大事にしていたら、それはだんだん膨らんで胸いっぱいいっぱいになっていた。そうして、それをそのままにして三ヶ月から半年ほど置いたら、いつのまにかまた、それはしゅくしゅくと萎んでいく。小学校のときには、学年があがる度に好きな人が変わってしまった。そのことに気がついてから、私は私自身のことが信じれなくなった。私は私自身ではなく、他人の心を信じようと思っていた。自分のことを好きになってくれる人を好きになろうと思った。
それはできた。そう、誰でも好きになることができたのだ。それは最初の気がかりを育てるか、捨てるかを選ぶだけでよい。私は誰を好きになるかを自分で選べるということだ。この自由ゆえに、私はさらに自分が分からなくなった。いったい誰を好きになったらいいのか。でも、寂しさゆえに、誰かを好きになりたいと思っていた。そうして、なんとなく自分のことを好きそうな人を好きになろうと思った。それは恋ではない。ましてや愛ではないと思った。
2.すべての人は美しい。
最初の小さな気がかり。それを育てると暴走し始め、制御できなくなる。最初は何らかの好感である。ちょっと笑顔がかわいかったり、ちょっと言葉遣いが気になったり、気になりはじめると、その人をさりげなく見るときにも、今までと違ったポイントを見るようになる。例えば顔。今までは、ブスだと思っていたその顔の中にも、ある美しさを見出すことができる。
どんな顔もその全体から秩序だったあるパターンの関係を見出すことができれば、美しさを見出すことができるのだ。そうして私はいかなるものにも美を見出すことができる。いかなるものにも美は潜んでいることに気がついた。そうしてだから、様々な人が様々な人を好きになることができるのだとわかった。しかし、世の中には多くの人が美しいと認めるものも存在する。これはなぜか。これはただその人の中の美は発見されやすいというだけの話だと思った。
愛は盲目ではなく、愛は潜んでいた美を発見させるのだ。
3.好きという感情が恋愛を破綻させる。
好きという感情には隙がない。気づいたときには膨らみすぎてもはやぱんぱんである。そんな状態のまま相手に接しても、相手がよほどの心の広さを備えた人でない限り、離れて行ってしまう。想いは重いのだ。その重さを相手に渡そうとしても、相手が拒否するだけである。結局は、通常みんなそんなに求めておらず、ライトな愛がお手ごろなのである。しかし、私はうそをつくのがへたくそである。そのため、自分の重くなった気持ちを相手のことも考えずに、渡そうとしてしまうのだった。だから大抵うまくいかなかった。最初の気持ちはなんとかなれども、一旦好きになりはじめると、制御できないのだった。

タルコフスキー監督の映画「ストーカー」
タルコフスキー監督の映画「ストーカー」

2015年8月24日月曜日

芸術とは精神である。

芸術とは精神である。
したがって、芸術とは言葉である。
しかし、芸術とは人に感覚を与える呪術でもある。
芸術は誰かに向けて創られるわけでも、何かのために作られるわけではなく、それ自体で最上のものを目指す。いわば、それは神に向けて創られる。
したがって、芸術とはわれわれの祈りである。

いまや美しいものはすぐに作れるようになってしまった。Macのフォトショップ、CG、非常に多くのデザイナーたち、映画、アニメ、ポスター、写真・・。
しかし、そもそも美しいものはもともと世界に溢れている、自然として。
現象学、そして受容理論以降、芸術とは形を創るものではなく、形の現れを享受することであると規定された。
受容理論においては、作者中心に考える仕方があまりに一元的で狭いものであり、作品は読者がいかに読みうるかによってようやく規定されるものであると批判された。それは作者の帝国に対し、読者が反逆をするという仕方で書き立てられた。
そうして、さらには作品はそれ自体で読者の読み込みとともに独自の進化を遂げるものであるとされるようになる。
現象学においては、言葉や心や考えに至るまでのすべての事柄はある現れである、つまり、まずもってすべては現象である、と考えるところから始まる。そもそも常にすでに、すべての事柄はある形をもってそのようなものとして(私という受け皿のようなものに向かって)現れているのであるから。
いわゆる芸術とは、ある形を創造し、社会に対し提示することであるが、先ほどの現象学、受容理論から言えば、われわれの出会うあらゆるすべてのものは芸術たりうることになる。
そこでは問題はあらゆるものにそれぞれの芸術性を見出せるかという読者個人の問題なのである。
私はだから、美術館に行くよりも、散歩を好む。散歩のほうがよっぽど芸術を享受できるし、感性も磨かれるからだ。
いまや、あらゆる生活のすべてが芸術である。
しかしながら、されば、制作者は、読者の側に立った何ものかを創ることに意味はあるのだろうか?
されば、いわゆる美術館に置かれる芸術品とは何なのか。
私に言わせれば、それは自己顕示欲の現れである。そうでないなら、なぜ自分で創作し、自分で享受するにとどまればよいのに、わざわざ他人にそれを提示しようとするのだろうか?
「芸術なんて道端に転がっている石ころのようなものだ。」岡本太郎
ただ便器を置いただけの芸術、デュシャンの「泉」はいわゆるそうした芸術品というものの形式を批判した。
美術館やギャラリー、サロンにおいては、名札を貼ってしまえば、どんなものだって便器だって芸術品になる。それが示されたのである。
芸術家は何をすべきなのだろうか。
芸術家には二つの方向性が残されているように感じられる。
1つは、解釈に余地を持たせる作品である。つまり、読者によってしか完成されないものである。それは、しかし、絵画よりか日常のほうに溢れていると思われる。さらば、次第に方向性はなんでもないものへと移行していく。そうして最後には読者に見向きもされなくなるだろう。
もう1つは、分かりやすくおもしろいものを創るという方向である。それは、エンターテイメントと言われる。映画と漫画はまさにわかりやすく、愉しく、欲望を満たせるように意図されできている。そうすると人を魅了するような物語のようなものが大事になってくるわけだ。アートはプレゼンテーションされるわけである。しかし、私はこうした仕方は、読者に媚を売っているようでよいとは思えない。
では、芸術家は何をすべきなのか?
ロラン・バルトの「恋愛のディスクール・断章」において、恋に陥った男は相手に届くわけでもない恋文を書くことに熱中する。
誰かに読んでもらうために書いたのではないもの。
相手に送るわけでもないのに書かれる手紙。
相手はもういないのに綴られるメッセージ。
それこそが本物の芸術制作である。
どういうことか。

字は絵だろ!岡本太郎
絵(イマージュ)は字(シニフィアン)だろ!ラカン
芸術とは精神である。
:絵は人が描くものである。人の精神はシニフィアンの連鎖によって構成された無意識の大海にある。絵は、無意識的であれ、意識的に描いたものであれ、人が書いたものである以上、精神から表出される何かを示さざるをえない。
芸術とは言葉である。
:絵はすでにあるメッセージになってしまっている。モチーフはすでに何かを象徴するものである。芸術がシニフィアンの連鎖によって構成されているなにものかから表出されるものである以上、そこに何らかのメッセージ性が秘められてないことなどありえない。
芸術品はもちろん自由に創られていい。
すべて何かを語りかけている。言語的なものを図像的に伝えること、そのことに意味があるのであって、図像的なものそのものに意味があるのではない。
芸術は創られるものではなく、読者によって発見される自己イメージである。つまりは、人は通常自己イメージに基づいて、あらゆる現象を眺めているのである。それは自己満足の幻想以外のなにものでものない。
しかし、芸術はそれを超えて、自己イメージを破壊し再構築させる可能性を秘めているのである。
芸術とは創造そのものなのである。
拙作、鴨居玲「廃兵」模写(制作中)

拙作、鴨居玲「廃兵」模写(制作中2)

2014年11月14日金曜日

僕は考えることが好き―僕に興味をもってくれた貴方へ―

僕に興味をもってくれた貴方へ
考えることが好きです。いろいろ考えています。
最近は、「虚構であるゴーレムについて哲学するとはどういうことか」「人の人生まで左右するというこのお金とはいったい何者なのか」「子供と大人の違いは一体何か」「コミュニケーションは孤独を克服できるか」「信じることと疑うことはなぜこれほどまで似ているのか」「美は世界を破壊することしかできないのか」など考えてます。
カフェに行って読書と勉強をするのが趣味。時間が得られるときは、絵画、詩作したりします。本の朗読や暗唱も好きです。あとは映画演劇美術などの鑑賞もします。でも、世界冒険もしたいです。
容姿は童顔で背が低く、性格は不器用で天然です。
趣味性格が変わってるから、一人になりがちです。
孤独に強く生きていきたいという気持ちもあるが、一方では、孤独でいることにストレスも感じています。猛烈にさみしいです。私自身がよくわからないでいます。しかし、神は「人がひとりでいるのはよくない」といって、「イブをつくりました」(私はキリスト教徒ではない)

だから、まずはそこの貴方と話をして交流を深めていきたいです。

2013年5月14日火曜日

猫を見た

猫を見た。
その猫は、ケガをしていた。
その猫は片目だった。
片方が潰れていた。
その猫はしっぽが短かった。
しっぽは切れていた。
その猫はニャアと鳴かなかった。
その猫は私を見上げた。
その猫は悲しそうな眼で見上げた。
その猫に近づこうとする僕を
その猫は拒絶した。
その猫はスキマを抜け去った。
その猫は僕のココロのスキマを抜けて行った。
つかの間だった。
あの看板を見たからだった。
「東海大地震緊急避難経路」
東海大地震…
私は何をしているのだ?
私はなぜ東京へ行くのか?
その猫は?
その猫は一体、なぜ私の前に存在したのだろうか。
今となってはその猫も猫の鳴かなかった鳴き声も、同じことだ。
ただ一言二言言葉だけが残った。
「コワイ」「イタイタシイ」
ニャアという鳴き声も残らなかった。
東海大地震をイキノコレルのだろうか?
不況の競争社会をイキノコレルのだろうか?
イキノコった私はあの猫のように傷を負っているのだろうか?


イキノコレルイキノコレルイキノコレル





ニャア…



ニャア…



本当のところ、猫は鳴きたかった。





もういいよ…


ニャアニャアニャアニャアニャアニャアニャアニャアニャアニャアニャアニャアニャアニャアニャア

2013年4月7日日曜日

孤独感と客観視

対象化することが孤独感を産む。一人でいるから孤独なのではない。私にとってのだれかがどこかにいるから孤独なのだ。

対象化するとは、ある物事か何かを自分から突き放して見ること。自分とは独立したものとして見る、つまり客観視しようとすること。もちろん人は完全に客観視することはできない。そこには常に主観がつきまとう。私自身の感情や私自身の身体や私自身の考え価値観世界観といったものがつきまとって、自分から完全に独立した何かとして見ることはできないのである。

ところが問題は完全なる客観視ではなく、客観視の試みである。客観視しようとすること、つまり対象化することによって人はようやく自分と対象との距離を感じることができる。これはある種の空間的なイメージであるが、この距離感こそが孤独の元凶かもしれないと思う。

自分から独立しているもの、自分とは異質なもの、どうしても分からないもの。人間は常にこうしたものに晒されている。 そういうものを感じることができる。そうしたものの中でも最も感じやすい異質なものは同種的なのに異質なものである。人間にとっては他人であろう。同種だからこそ違いが分かりやすく、その距離感を感じれる。だからこそ、だれかがいるからこそ孤独なのだと言える。

2013年4月5日金曜日

欲望の泉

死にたい。死んでしまいたい。
理性が吹き飛んでしまうと、そこから欲望の泉が湧き出る
そうして泉から湧き出た欲望に、私自身は沈められてしまう
甘えたいという欲望
ああ、私は何にも変わっていやしない
自分の抱える不満やら不安やら全部まとめて愛する人に押し付けてしまった。
全部まとめてその子の胸の中に飛び込んでしまった
でも飛び込んだところが、その子の魂はまだ小さすぎたんだ。
(笑)まったくお笑い草だよ
こんなにも好きなのに!!
シザーハンズの気持ちを初めて理解した夜
Tに昔されたことを今は俺がしているんだと気付いた日