「哲学などやっていても、生産性がない」
哲学の祖タレスは空を見上げて歩いていて、溝に落ち、街の人に笑われたとか。
哲学は、その最初から考えてばかりで生産性がないと見られていたのである。
しかしながら、タレスは溝に落ちたのではなく、天体観測のためにあえて、溝を掘って自分で入ったのではないかという説もあるようだ。
そうして、タレスは天体観測を通して、オリーブの収穫時期を予測し、オリーブ絞り機を買い占め、一儲けしたとか。
タレスは、今で言うデリバティブの祖でもあるのだ。
さて、今日のテーマは、生産性とは何か?
「生産性のある議論をしよう」などと使われる「生産性」という言葉がある。
しかし、生産性とは、一体なんなのか?
逆に生産性がないものとは、無駄のことである。つまり、役に立たないもののように思われている。
では、無駄とは何か?
無駄とは、なんらかの目的を目指す際に、その目的を目指す手段として有効でないということを意味していると思われる。
したがって、翻って生産性とは、なんらかの目標に対して少ない力で効率よく進ませるその推進力の大きさなのである。
そうすると、例えば、100メートル走の選手が100メートル走をもっと短い時間で走り抜けるという目標のために、効率の良い練習メニューを組むことは、100メートル走にとって生産性が高く、他の選手と世間話をすることは足が速くなることに関係がないので生産性が低いだろう。
そしてまた、100メートル走の選手がハンマー投げで記録を伸ばすためには、その練習メニューはハンマー投げに関係のない要素が多いので、無駄が多く生産性が高いとは言えない。
そうすると目標の設定次第で生産性が高いか、低いかは変わってくると思われる。
SNS上での会話において、「この話、生産性がないな」と言われる時、それを言う人はそもそもなんらかの目的があってそれを目指していたことになるが、会話の相手は目的を共有しておらず、単に暇を潰して会話を楽しみたいと思っているかもしれない。
仮にそうだった場合、会話の相手にとっては、その暇つぶしという目的においては、生産性が高いとも言えるわけだ。
いや、さすがにそれは言葉の使い方として違和感があるかもしれない。
暇つぶしという目的においては、生産性が高いという言葉はしっくりこないだろう。
暇つぶしは目的になりにくく、むしろ、目的がない状態に当てはめることが暇つぶしなのだから。
それならそれで、相手との会話の目的が暇つぶしであるような、つまり、そもそも目的がないようなSNS上の会話において生産性うんぬんすることそのものがナンセンスかもしれない。
さて、生産性という言葉の相対性を確認したが、今度は別の角度から考えてみたい。
私としては生産性という言葉は、字義通りではなく、効率性という意味でよく使われており、そのイメージがつきまとっているので、好きではない。
生産性という言葉は、おそらくは産業革命以後よく使われる言葉である。(また、機会があるときに調べてみよう)
product生産物や、produce産出する、productivity生産性などなど、経済学者やマルクスがよく使いそうな言葉である。
通常は、生産物を生産する過程において生産性が問われるのである。
しかし、なんらかの生産物を生産するという目的はわかりやすいものの、究極的にはその生産物そのものの人間にとっての生産性が問われなければならないのではないだろうか?
そういうときの生産性とはなんだろうか?
例えば、哲学を教えたり哲学の書籍を書くことで、生計を立てている人は、哲学に興味のない人から、そんなものは生産性がないと非難されるかもしれない。
「哲学には生産性がない」と言われるのは、それが人間が生き延びるのにあってもなくても良いものと思われているからだからだろう。
では、人間にとって自動車は生産性があるのだろうか??
自動車は、人間に移動の便利さを与えるし、自動車によって、自動車など人間が生き延びるのにはあってもなくても良いものであり、その意味ではなんら人間にとっての生産性はないのではないか?
では、人間にとって水道は生産性があるのだろうか??
水道は、人間に飲める水を与えるし、人間が生き延びるのには必要不可欠なものである。
しかし、水は人間の生命維持には必要なのであるがそれ以上のものではない。
その意味ではなんら人間にとっての生産性はないのではないか?
そのように考えていくと、人間が作り出すほとんどの多くの生産物は、次のように段階に分けられるのではないだろうか?
① 快あるいは幸福、楽しみを与えるもの。(遊戯、趣味、多くのサービス業など)生産性低め。
② 便利さを与えるもの。(多くの工業生産物)生産性普通。
③ 生命の維持に役立つ。(食糧、医療やインフラ)生産性高め。
しかし、生命維持以上のものもある。
④ それは妊娠して子どもを産むことだ。
それは、単なる生命維持以上のものを含む唯一のものである。
なぜなら、今まで存在していた人間に加えて、当の人間そのものを増やすのだから。
生産という言葉にはなぜか物質的な創作物のイメージがつくが、日本語に限れば生産は「生む」に「産む」が重なっている。
そういう意味では、子どもを産むことが、世界で最も生産性の高いことかもしれない。
もちろん、これをもって、妊婦でない女性や中絶を否定するとか、望まぬ妊娠であってもそれを推奨していくということではない。
むしろ、生産性という概念そのものをもっと掘り下げて考えていくべきなのではないかと思ったのである。
これら生産性にまつわる事柄は人間にとって本質的なことではないと私は考えている。
そうではなくて、本質的なことを得るための手段なのである。
するとすべてが反転していく。
人間はまず生まれなきゃならないが生まれるために生まれてきたわけではない。
生まれた人間は生命を維持していかなきゃならないが、生命維持のために生命を維持するわけではない。
生命を維持したその時間をどう使うのか?
生命を維持することができた人間は、便利さを手にしようとしてきたわけだが、便利さとは時間を余らせようという意図でできている。
効率よく終わらせて時間や余裕を得るためにさまざまな便利道具があるわけだ。
人間は便利さを手にして、余暇を得ることで、その余暇において、幸福(快や楽しみなどを含め)を求める。
生産性は幸福を得るための条件であって、生産性そのものが目的なのではないのである。
結論
最初に生産性が相対的であって、目標設定によって変わることを確認した。その上で、人間と生産性についての関係を深掘りした。
しかしながら、すべては究極のところ、各人が生産性を通して各人の幸福を目指しているのである。
したがって、目指すべき目標は、生産性に置くより、なんであれ生産性を通じて最終的に得ようとしている目的、つまり、幸福に置いたほうが良いのではないかと思う。
生産性とはあくまで手段における効率性のことなのだから。
目的を見失ってはいけない。
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