2024年1月26日金曜日

道徳的であるとはいかなることか?(スピノザ、ニーチェ、ドゥルーズ、江川隆男)

 



  • はじめに

明日には現代思想ビッグクエスチョンにおけるひとつの記事「道徳的であるとはいかなることか」江川隆男の読書会がある。


いまのところ、全体は全く読んでいないが、ブルーノさんがあげてくれた2ページだけから読み解いてみる。

そのため、大いに誤読する可能性はあるだろうが、すべてを読んだとしても、全く読めてない人もあるということ、ポストモダン以降、すべてをつぶさに読んで壮大なお話、つまり、体系立てることの無意味さが露呈した今、こういう読み方もアリだろうと思うので、そうする。(2023/1/26/0:00ごろ)

と思ったが、書いている途中で、今回はどうしても気になって読んでしまった(笑) (2024/1/26/19:00ごろ修正と追記)


そして、たった今読書会が終わったので、論考を修正したい。(2024/1/27/23:30ごろこれから修正と追記予定)


  • 理想と現実に引き裂かれた不幸な意識

さて、結論から行こう。

道徳的であるとは、これはヘーゲルの「不幸な意識」(『精神現象学』)の状態である。江川氏は「(人間の)二重性」という言葉で表してもいた。


あらゆるものを二項対立で考えるのはピタゴラスだったが、〈善と悪〉の二分をしたうえで、アリストテレスはそこに善は完全であり、悪は欠如であると言った。

善とは、完全な理想であり、神のようなもののこと(というか、神そのもの)であって、人間は常にそれには追いついていない不完全な存在者(神に比べれば悪に近い者)である。

そうして、基本的には人は完全な理想を求めようとするが、決してそれを実現することはない。つまり、ホモデウス(神としての人)には決してなれない。

ヘーゲルはこのような理想と現実に引き裂かれた意識を『精神現象学』の中で《不幸な意識》と呼んだ。

人間の二重性とは、理想と現実の二元論において、理想に向かおうと生きてもいながら、常に理想に比べてこの不完全な現実に生きているという二重性なのだ。

そして、理想、、到達しえない善、それはそのまま、到達しえない真理、超越的なもの、つまり、物自体を設定することに繋がる。

カント哲学がまさにそれ。

カントは、『純粋理性批判』という本において、人間は物に関する知を求めるが、常にそれは段階的なものであり、暫定的で不完全で私の人間としての認識の枠組みを通してであり、どこまでいっても本物、つまり、物それ自体を知ることはできないとした。


そしてそれゆえに、この関係は固定的だ。

つまり、固定的な《理想、善、あるいは真、あるいは何か到達しえないもの》に人間が向かおうとするが到達しないというふたつのものの《関係》が固定的なのである。



道徳とは、身体(行為)を精神(意志)によって操作して、道徳的な理想と一致させようとする関係であり、優劣関係がある。心身は相互に関係しているとされる。(心身二元論、心身相互作用論)

そして、この道徳的な関係はあらゆるものに当てはまる。


科学においては、私の認識を現象の向こうにある自然に関する真理(果ては物自体)と一致させようとする関係である。

経済においてはどうだろう?

自然を人間が操作して、その潜在的な資本と最も効率よく引き出させようとする関係か。

あるいは、労働者を経営者や資本家が操作して、その潜在的な資本と最も効率よく引き出させようとする関係か。

それとも、資本が資本によってどんどん増幅されるマネーゲームの永遠回帰を求めて、そこに向かおうとする経済的な人間であるか。


ただの紙切れや金属片や数字なのに、そのお金という指標を絶対視してその基準に基づいて、生きようとするあり方なのか。

お金を命よりも重い《神》にしてしまう関係なのだ。


資本もまたそういう関係になることをドゥルーズは示唆しているらしいので上にあげたようにいろいろ考えてみたが、どういうことなのかはわたしにはまだわからない。


  • 超人の倫理 vs 二元論的な道徳


ところで、江川氏は、道徳と倫理とを区別する哲学者である。


今回は「道徳的であるとはいかなることか」というのが問いだったが、それは江川氏の著書「超人の倫理」と対比せられる。


道徳という二元論的関係性ではなく、自然<フュシス>という倫理<エチカ>としての在り方(「自然学ー倫理学」と書かれていたが、「学」である必要性がよくわからないので省いた)である。(単に道徳を明文化しただけの規範的倫理とは違う。規範的倫理は道徳であって、倫理ではない。)


そのとき、心身は相互に作用する操作の関係ではなく、さまざまな外的な作用を心身それぞれが受ける存在となる。(心身平行説)

例えば、心は心として失恋を憂い、しかし、身体は食事を欲していて、食べる。そして,それがよいのである。しかし、このときに道徳的な精神は、こう言う。「私はこんなにも失恋で悲しいのに、食欲があるなんて!本当は失恋で悲しくなんかないのではないか?」と思って、なんとなく、食べるとき少食になる。精神に合わせて、食事行為を操作して、精神と行為(身体)を一致させているのである。


そこには善悪判断が働いている。


しかし、善悪ではなく、{よいーわるい}という価値評価で進んでいくのが超人の倫理なのである。


これは、スピノザで言えば、喜怒哀楽のような情動だが、もっと今ふうな感じで行こう。


よいとは、テンションあげあげの状態「マジヤバイ」とか、「最高にかっこいい」とか、「あまりにもセンス良すぎて半端ない」という感じだろう。

わるいとは、逆にテンションが下がる「ぴえん」「ダサい」「タヒね」という感じだろう。


そして、よいーわるいとは、その人自身の独自の感性なのである。



  • 存在と当為の転倒の転倒

ふと思い立ったのだが、もしや、江川氏の文は倫理学における伝統的な2つの対立をここに読み込めるのかもしれない。


それは《存在》と《当為》である。

《存在》とは「AはBである」というようなものである。

《当為》とは「AはBであるべし」というようなものである。


「AはBである」というのはそのまま実在性(実際にそうであること)の意味を含んでいる。

一方、「AはBであるべし」というのは、実際にそうであるかどうかとは無関係にそうした理想を思い浮かべて目指す。


したがって、当為はそうあるべくして実際にそうあるということもあるけれど、実現されていたら「そうあるべし」とわざわざ言う必要がないため、どちらかと言うと、未だ実現していないことにこそ使う意味が際立つ。

一方で、存在は、我々は過去に存在してきたものによって考えるため、空想のものであれ、未来の予定であれ、それらは存在の可能性というだけで未だ存在しないとも言える。


だから、基本的には存在は《過去から現在にかけて》の言葉であり、当為は《現在から未来にかけて》の言葉なのである。

未来は未だ来ていないので、もちろん、未だ存在しないのである。

しかし、この見方は転倒させられる。

転倒させたのは……プラトニズム。

プラトンはこの現実世界のほうを存在しない仮の世界とし、理想としてのイデアのほうを存在するものとした。(というのが一般的なプラトン理解である。それは誤解だという研究者もいるが。)


つまり、理想へと向かうこの現実的な人間が当為としてあり、理想そのもののほうが存在していると。(「当為として《ある》」というのも「存在」ではあるが笑)


そして、これが「道徳的な精神」と「倫理的な規範」かもしれない。

当為としての精神と、理想として存在する規範なのである。


ニーチェは、それを元に戻そうとした。

理想は存在しない、と。

これはおそらく前-哲学的な領域である。

それが何かを問い(ソクラテス)、すべてを言語にして書いて(プラトン)、最後には整理してカタログにする(アリストテレス)という、明文化されたものとしての《哲学》をするより前なのである。


ニーチェが提唱する《超人》とは、《存在する理想》ではなく、《未だ存在しないものとしての理想》を目指すような在り方であるとも言える。


最初から理想の設計図があって、それに向かうのが道徳であり、そうした設計図などないところから始まって、ブリコラージュ的にありものを組み合わせて「お、これはおもしろそうだぞ!!」とか「思いがけずに創ったが、、なかなかイイものができたね!!」とか言えるようなものを作るそんなあり方が「超人の倫理」である。


だから、価値を実現するのではなく、価値そのものを創造すると言っていたのだ。


それは、本当は存在しないのにそれを存在するものとして追うような反動的ー受動的ニヒリズムよりも、マシである。存在しないものを存在しないものとして扱う徹底的ー能動的ニヒリズムなのだから。


  • 最後に、よい問いとは?

問いにはよい問いとわるい問いがあると江川氏は言う。

「道徳的であるとはいかなることか」は対象性というより関係性である。

「道徳的であるとはいかなることか?」という問いはよい問いなのか?考えてみよう。

私としてはこの問いの感じは平凡でわるい問いに見える。

『「道徳的であるとはいかなることか?」という問いが道徳的であるとはいかなることか?』と問うほうが好きだからだw

「道徳的であるとはいかなることか?」を問うことを通して、超人の倫理が二元論的な道徳より優越していることを示されている。この点で、よい倫理という理想ーわるい道徳に囚われている人たちの現在という二元論になっているから、この問いは道徳的でわるい問いなのだw

でも、その自己矛盾がおもしろいから、やっぱりよい問いとしておこう。


さて、この記事に関する読書会は明日です。

【読書会のお知らせ】

主催者: ふじむらたいき

テーマ: 「道徳的であるとはいかなることか」

江川隆男

読書会メッセージのやりとりの場: LINEオープンチャット哲学広場AGORA

→ https://x.gd/nmicg


日時:1月27日(土) 21時〜

読書会会話でのやりとり: Twitterボイスチャットスペース

場所:https://twitter.com/i/spaces/1vAGRvRYoRyGl



読んでない方もいると思うので、読んでない方に向けて簡単に書いてる内容も↑のグループでシェアしようと思います。逆に読んだ方は事前に疑問とか、面白いと思ったものはどんどんシェアして下さい。

読書会の対象書籍: 現代思想2024年1月号 特集=ビッグ・クエスチョン

-大いなる探究の現在地-

http://www.seidosha.co.jp/book/index.php?id=3879

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