難解な本は「誤読を恐れない勇気」が必要かも。一旦、この《読み》で片付けてしまおう、と。
しかし、常に「私は誤読している」ということを意識する必要がある。読みが違ったなら修正を繰り返す必要があるからだ。
江川氏の論考やドゥルーズの哲学(ラカンもそうだが)は誤読を呼び込みやすい工夫がしてあるw
そして、難解な書籍はそれだけで道徳的であって、我々にその意味での二重性を呼び込み、我々をこんな難解なものは読めないという不幸な意識にさせる。
いつまでも難解な書籍の向こうにある真理に到達することができない、不完全な我々なのである。
逆に、「私の読みは正しい」という意識も常にいくらかはある。
そのことが逆説的に私に「読めているかどうかわかりませんが」などという言い訳をさせようと構えている。
しかしながら、この二分化の図式なしに、すべてを超人の倫理的な感じで読むなら、
(「超人の倫理」とは江川氏の著作で,プラント、デカルト、カント的な道徳的なあり方と対置されたスピノザ、ニーチェ、ドゥルーズ的な在り方である。)
読んでいても、その文章を正確に読み取るよりも、すでにわかっているものなどを勝手にいろいろ結びつけて総合的に考えてしまう安部火韻のような読み方がよい読み方なのだろうw
つまり、自己の内部性の倫理に基づいて読むことで、テクストの外部性へと逃れてしまうような読み方がよい読み方なのかもしれないw
例えば,ドゥルーズはドゥンススコツスを誤読していたと山内志朗は指摘する。
しかし、それは創造的で素晴らしい誤読なのだと。
難解な書籍の読解にはまってしまった人たちはある意味で殺さず生かさずの快い毒を刷り込まれているのだw
すると、買っても買っても次のものを買いたくなる資本主義における商品と同じで、ずっと読まれ続け解釈され続けてしまう。
つまり、ドゥルーズもまた僧侶になりうるし、なりやすいのである。ドゥルーズ解説をしようとする限りは。
ドゥルーズを読みつつ、ドゥルーズの外へと飛び出るような仕方がドゥルーズ的な読み方かもしれないw
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