我々は合理性においてしか、物事を考えることができない。
思考することの根底に合理性が横たわっているからである。
従って、非合理性について思考するということは、単に主体の思考過程それ自身の自己点検を行うことではない。
非合理性が成立する理由を考えるということは、非合理性を合理的な理由によって説明することで立証することであり、
合理的な理由が立証された非合理性などはもはや、見かけだけの非合理性ということになろう。
従って、非合理性について考えることとは、非合理性など存在しないということを証明することなのである。
前提1.我思う
ゆえに
結論: 我あり
「我思う故に我あり」には「我思う」ならば「我あり」が論理的に正しく帰結するということが含まれていない。
だから、我思うからと言って我ありが帰結するのかどうか。
それが帰結するということをあらかじめ前提として認めなければ論理的に帰結しない。なので、
前提1.かりに我思うならば我あり
前提2.我思う
ゆえに
結論: 我あり
まだ足りないぞ。ここには{仮に「我思うならば我あり。かつ、我思う。」ならば「我あり」に帰結する}ということが前提されていなければ、かりに「我思うならば我あり」かつ「我思う」からといって「我あり」と帰結することはできない。
前提1.仮に「我思うならば我あり。かつ、我思う。」ならば「我あり」
前提2.仮に「我思うならば我あり。」ならば、「我あり」
前提3.実際に「我思う」
3つの前提ゆえに
結論:「我あり」
まだ足りないぞ……続く
何故何故思考で迷走するか、無我無我思考で瞑想するか
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