2020年4月28日火曜日

神殺しの系譜 アダム、フランケンシュタイン、ロボット、ゲーテ、そしてニーチェ

インド映画「ロボット」では、次のような会話がなされる。
質問者「神は存在しますか?」
ロボット「神とは何ですか?」
質問者「創造者だ。」
ロボット「博士は私を創った。つまり、神は存在する。」

ロボットにとって創造者である博士は神なのである。

この映画の設定ならではの気の利いたジョークであるが、確かに、創ったという意味では創造者、すなわち神かもしれない。

≪神≫は<アダムとイヴ>を創った。
≪ビクター・フランケンシュタイン≫は<怪物>を創った。
≪人≫は<アンドロイド>を今創っている。



ロボットという言葉は、チャペックの戯曲RURによって作られた造語で、「労働」を意味する。
しかし、戯曲の内容は、あらゆる仕事を任されるようになったロボットたちはある日、自我に目覚め、自由を目指して人類に反抗し始める。

神は死んだ。だから、人間は神になる。
もちろん聖書ではそんなことは決して語られないが、
ニーチェを始め、今日のブレードランナー2049、ホモデウス(神になった人)に至るまで、この思想はかなり根強く広まった。

人間は神になれる。生命創造を可能にするから。しかし、人間はまた、神のように滅ぼされる。人間が神を精神的に滅ぼしたのとは違って、それは物理的(肉体としての死)にも滅ぼされるのかもしれないが。

ところで、
神を殺すとは、神という実体を物理的に殺すことではなくて、精神的に信じないということ。神は超自然的存在だから。
神に反抗するとは、
神がなしたことを人間であるわたしがなすということ。
生命創造は神の怒りに触れると言う。それはなぜか?神の所業だからだ。
神に服従せずに、したいことを自由にする。これも神の怒りに触れる。自由に何もしても良いのは本来、神だけだからだ。

しかし、神は殺されてないかもしれない。神は存在するのかもしれない。

ゲーテは「魔法使いの弟子」という詩を描いた。
魔法使いの弟子は、魔法使いになりたくて、箒に魔法をかけ、仕事をさせるが、魔法の解き方がわからず、身の破滅を招く。

魔法使いとは神のこと。
魔法使いの弟子とは人間のこと。
箒に魔法をかけるとは、人間が真似しようとする神の所業である。
最後には神の怒りに触れるだろう。

ゲーテの考え方。
人間は神になろうとして(ロボット作り)、失敗し(ロボットの反逆)、神に(愛されながらも)怒られる(滅びずとも痛い目にあう)。


ニーチェ的に考えれば、神は最初から死んでいる。それを知っている人間は人間というものをも乗り越えて超人になれる。だから、人間の作った被造物に反逆されても、大いに結構。私に反逆するとは敵ながらあっぱれだ!私はおまえを超える超人になろうではないか!
などと考えるのかもしれない。

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