私は二度目の出演であり、まだまだ学ぶところが多いが、この劇団から学んできたことを少し話そうと思う。
まず、身体の異形性である。つまり、個々の俳優たちの身体と顔が異形であり、狂っている。そこに現れたときの存在感の際立ちがある。暗黒舞踏に近いオーラを放とうとしている。(実際、麿赤兒の舞踏集団「大駱駝艦」で舞踏を学んで活かされている部分もあるようだ。)
次に、全身から放たれる声である。クセックACTでは、割り当てられた役(キャラクター)の声を演じるよりも、その俳優の肉体の底から出る声が重視される。そのため、台詞に書かれたドラマの中の文脈や役の感情に流されて語るより、その意味を一度、破壊して俳優自身の意志的な肉体から語ろうとするのである。私自身が先輩から教わった印象的なイメージは、クセックで役を演じるときは、自分を人間だと思わないほうがいい。人間の皮を被った化け物。特に、下半身がとても重くて、顔もとても醜く、声も低くて強大な異形の怪物だと思って、身体を動かし、声を発するといい、というものだった。そして、俳優たちが発声するたびに、言葉だけでなく、唾も、観客席からよく見えるのである(笑)
さらにはクセックではコロス(合唱舞踊隊)の存在がとても重要である。コロスとは、コーラス(合唱)の語源で、古代ギリシャの舞台で、個々の役が語りきれないさまざまなことを代弁する集団である。民衆の役を割り当てられることが多い。クセックACTではこのコロスがエッジを利かせている。スペインの画家、ゴヤの絵画に「黒い絵 サン・イシドロの巡礼」という巡礼に向かう群衆の絵があるが、その異形性を見てもらいたい。このような狂った人たち、あるいは化け物の集団こそがクセックACTのコロスなのである。
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「サン・イシドロの巡礼」ゴヤ |
最後に、クセックACTは動く絵画のようだと言われる。動く絵画を描くように、演出されるのである。舞台いっぱいにひろがる赤い布を炎のようにはためかせたり、コロスが絵画的なポーズと配置で構成されていたりする。
ここで、クセックの異形性を考えてみる。クセックACTの演出家、神宮寺啓氏は、esperpentoエスペルペントを舞台で再現したいと以前、話していた。エスペルペントとはヴァーリエ・インクランValle-Inclán(1866-1936)というスペインの劇作家が用いた不条理劇の呼称で、「滑稽感とグロテスクの混交した美学」「グロテスクなデフォルマシオン(デフォルメ)」を意味している。「尊大で、強烈で、情熱的で、破壊的」でもなければならないとされるこのエスペルペントだが、クセックACTの異形なものはここから来ているらしい。
私自身がこのクセックACTの表現に触れるときには、バタイユの哲学を思い浮かべてしまう。バタイユはエロスを死と関係づけて考えているフランスの哲学者である。しかし、最近、バタイユはスペイン文化からこの哲学を導き出したことを知った。
それは次のようなものである。あるとき、バタイユはスペインの闘牛で目玉を牛の角にえぐられてしまった闘牛士を見たそうだ。そのグロテスクさから、スペインの民衆が闘牛に熱狂するのは死に直面してその不可能を乗り越えたことにあるのではないかと考えたのである。
死という不可能の乗りこえ、それがスペイン精神の、そして、クセックACTの異形性の根幹なのではないか?死は、あらゆる意味での限界であり、通常の生活的な台詞の意味を破壊し、それが通常の生活を消した肉体、肉の塊としての肉、つまり、死体を通して、発せられる。そしてまた、それゆえに感じさせる狂気なのである。
最後に「ドン・キホーテ」について考える。ドン・キホーテは、ある男が騎士道小説を読みすぎて、自分はドン・キホーテという騎士だと思い込むことにした頭のおかしな男が従者とともに遍歴の旅を続けるという物語である。ここで、ドン・キホーテ自身がドン・キホーテを演じるということと、役者がドン・キホーテを演じるということとがかかっていたり、この物語の作者セルバンテスがドン・キホーテになりきってみるということが示唆されていたり、誰がまともで誰が狂っているのか、誰が誰の役を演じているのかを混乱させるなど、視点によっていろんな読み解きが可能なおもしろい構造になっている。
俳優としての私自身、つまり、カインの視点からすると、私が普段の私でいるときと私が舞台で演じているときとどちらが本当の私なのか、という問題がある。このとき、クセックACTの舞台においては、舞台のほうが本物のカインであるということが求められている。
ドン・キホーテになりたがりの騎士道小説を読みふける男ではなく、ドン・キホーテを演じてついにドン・キホーテになってしまった男。しかし、衣装を着た俳優でもなく、舞台の登場人物としてでもなく、ただ圧倒的な声と肉の存在として存在している。全く自分でないものを通して自分自身を表出するとき、彼は真に彼自身になるというのだから、その不可能への挑戦を狂っていると言われても当然なのである。
死によって生きろ!
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破滅へいそぐドン・ファン ~フロイトの人間像とドン・ファン像、そして過剰なもの、表現~↓
https://iranaiblog.blogspot.com/2024/05/blog-post_17.html
初の海外公演、スペインへの旅↓
(クセックACTにて)
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