プロチノスの哲学と笠井叡の舞踏の精神はどこか近い部分がある。最近、そう感じた。
⚫️ 身体を消去する舞踏
笠井叡(かさいあきら)先生という舞踏家の、年に一度ほどのワークショップを4年前から続けて受講している。そして、今年は11月にワークショップ発表公演を行う予定でもある。
その身体表現の技法は根源的で神秘的、今ふうにいえばスピリチュアルな方法である。
先日のワークショップの中でひとつ取り出して紹介すると「身体を消去する舞踏」というものがある。
踊りという身体表現にも関わらず身体を消去するとはどういうことか?
まあ、理解しやすく説明すると、「身体が消えたつもりになって踊れ」ということである。
笠井叡先生によると、身体を消去する舞踏とは次のようなステップを踏んで至る。
1. まず最初に4歩進む。4歩あるくことで歩くという身体感覚をつかむ。
2. 次に、意識だけ4歩進む。つまり、足は止めたまま4歩あるいているという意識を持つのだ。
要するに、意識と身体とを分離させるのだ。
3. 続いて、その状態のまま、つまり、意識だけ4歩前で止まっているまま、身体だけ4歩進む。
4. さらに、意識と身体との両方が同時に、しかし、並行に進む。両方は同時に進むが、意識は意識だけで4歩前に進み、身体は身体だけで4歩進むのだ。
5. 今度は、再び意識と身体とが同時に前に進むが、意識と身体とが接地しているというイメージを持ちつつ4歩進む。
6. そして、最後に、意識と身体とが完全に同一化し融合したイメージで4歩進む。
この最後の段階で、身体は意識と共に消去される、ということらしい。
実際ワークショップでやろうとしたがこれがなかなか難しい。
⚫️ プロチノスの一なるもの
これがおもしろいことに最近読んでいた神秘主義的な哲学者プロチノスの哲学を連想させた。
プロチノスの神秘主義的な哲学は次のようなものである。
私たちが経験したり考えたりできるあらゆるものは、それぞれひとつのまとまりを持っている。ひとつのコップとか、青というひとつの色とか。
あらゆるものがそれぞれひとまとまりになるためにはあらゆるものをひとまとまりにする何か根源的なもの、ひとまとまりそのものがあるのではないか?
プロチノスはそれを一なるもの、一者と名づける。もちろん、量を示す数字の1ではない。
さて、それをせっかく名付けたのだが、実はそれはそもそも名づけることはできない名前以前のもののはずである。
そうでないと、それ自身が再びあらゆるもののひとつになってしまうからだ。
それは名づけることはできない。かえって名付けそのものを可能にするもの。
それは存在することもできない。かえって、あらゆるものの存在を成立させることができるもの。
同様にそれは概念でも観念でもなく、考えることも知ることも感じることもできない。かえって、概念、観念、思考、知識、感覚を可能にしているもの。もちろん、脳や感覚器官や精神といったものでもない。
さらには、それは動いたり止まったりもしないし、そもそも時間空間のうちにない。つまり、物質的なものではない。そして、精神的なものでもない。むしろ、その両方を統べている。それは精神も超えているのである。
しかも、それは神というものに近いが、みんなが想像するような人の姿をした神様ではない。
そして、それはその性質上、知ることも考えることも誰かに伝えることも本来できないのだが、直接所有することによって、直接それと同化することによってのみ、知ることができる。
そして、それと同化することは、そのまま没我(エクスタシス)なのである。
このようなものである。
⚫️ 自己同一化(自己自身に自己自身を重ねて同化する)
ここで、プロチノスの一者との同化による自己消去と笠井叡の身体と意識との融合による身体の消去とはかなり近い感じがしている。
自己自身に自己自身を同化させると、自己自身が消える。
普段は、自己自身は周りの世界や他人との抵抗によって、自己自身として保っている。
自己自身が自己自身に同化すると、相対的に、周りの世界や他人が消えてしまうのではないか?
この直感をもとにさらなる探究を続けていきたい。
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